PLAY116 始まる悪夢①
「君は、『グルーナル・ファナ』は好きかい? 『グルーナル・ファナ』は、ノンアルコールなんだよ?」
唐突に聞かれたその言葉に、私は答えるという選択肢ができず、ただただ、本当にただただぼうっとすることしかできなかった。本当に脳内にあった何もかもが一瞬デリートされてしまったかのようなバグで、私は私の手首を掴んでいるその人のことを見上げることしかできなかった。
私の目の前にいるその人は――一言で言うと、狐だった。
人間の体じゃない二足歩行をしている黒くてぼさぼさしている短い体毛で覆われた黒い狐で、服装は………多分紺色の着流しだと思うんだけど、その着流しもボロボロでなんだかみすぼらしく感じてしまう気崩し方をしている、手足の指はまさに狐手と足で、掌と足には毛で覆われた肉球が隠れているけれど、その肉球も傷ついていて、手とか足の体毛もぼさぼさで手入れなんてされていないような光景が目に入ると、鼻腔を指す刺激臭を感じてうっと声を零してしまいそうになる。
それほどこの人の体から放たれているそれは――異臭に分類されると言う事。
目立っているこの人特有の物なのだろう……。二つの尻尾もフワフワしているはずなのに細い尻尾になってしまい、ぼさぼさになったりところどころの毛に泥のようなものがついていたりと、一言で言うと不衛生な状態になってしまっている。
そう――不衛生のその姿から見るに、彼は人間でも魔人ではない存在。
強いて言うのであれば亜人に近い存在なのかもしれない。
厳密に言うのであれば魔獣族ではないことは見てわかるとおりだ。
でもそんなことどうでもいい、亜人とか魔獣族とかどうでもいいくらい私は目の前の光景を見て、真っ白になってしまった思考を何とか修復しながら思った。
最初に思い浮かんだこと――それは簡単な事。
危険だという報せ。
それを感じたのだ。
いうなればエマージェンシー。危険信号。
私達人間は動物の様な危機感知と言うものがあまり作動しない。感知していないというわけでもなければ備えていないわけではない。
あまり作動しない。作動しないから人はその危機に直面しても行動できない。
そう輝にぃは言っていたけれど、持論だと思ってあまり気にもしていなかったけど……、輝にぃが言っていたことはあながち間違いじゃなかったかもしれない。
動物や魚は自然と言う中で生きてきて、その中で自分の命を、種を守るために色んな生きる術を身に着け、危機管理を研ぎ澄ませてきた。生きるために力をつけて、生き残るために研ぎ澄ませてきた。
でも人間は安全と言う世界の中で生きてきて、命を狙われない世界でほとんどの人は生きてきた。例外もいるけれど、それでも安全に暮らせる世界があるからこそ命が狙われない。狙われないからこそ、危険なんてほとんどないからこそ、人は危機感知を衰えさせ、作動できないまで劣化させてしまった。
一応言っておくけど、これは輝にぃの持論で私の持論ではない。それに危機に関して鈍感と言うわけではなく、危機が起きることを予測して前もって準備をしたり起こさないように徹底したりしている人たちだっているから、一概にそうとは言えない。
言えないのだけど……、私は目の前の光景を見て、そして自分の危機感知が作動した瞬間悟った。
真っ白になった瞬間何も考えられなくなる。真っ白の所為で何を言おうかと言う思考ができなくなってしまう。
でも、少しずつ、少しずつ時間が経っていくとその白い世界に色が芽生え始め、その色がどんどん脳の白の世界を彩っていくうちに、理解してしまう。
目の前の光景。
手首に感じる圧迫の痛み。
そして背筋を這う寒気と呼吸器官の不調。
息苦しさと口腔内の渇きと、視界の揺れ。
体と言う外側が反応を示し、その示しと同時に起きる心の激流。
黒の雲に青の濁流が入り混じり、その中に入り込むようにどんどん混ざっていく暗い色。
嵐の様に吹き荒れ、その嵐の中心となっていくかのように暗い色達がミックスされていく。そのミックスの中心――台風の目の様にぽっかりと小さな目が渦の中心を陣取り、台風の目の中にそれはあった。
自分の体が最悪の未来を辿った姿――ボロボロになってしまったその姿を。
言葉にできない感情と共に自分の最悪の未来の姿を想像してしまった瞬間、悟ってしまった。
この人は危険だ。
危険だから離れないといけない。
でも離れることができない。
強く手を掴まれてしまっているから、何もできない。
振りほどこうという選択もある。それをしようと思えばできるのに、それができない。
だって――振りほどけないほど強く握っていて、ううん……。正直な感情が私の行動を止めている。
怖いんだ。
この人の顔を見た瞬間、掴まれた瞬間――怖いと感じた。
あの大荒れの世界は恐怖の世界だったんだ。
――どうしよう……。
心の中で困惑しながらその人の言葉を耳の中にいれて脳に無造作に入れる。言葉なんて聞きとれていない。だから置く。置いて、私は思う。願った。
――助けて……。
――早く、来て。
――誰か、助けて。
アキにぃ。キョウヤさん、虎次郎さん……。
ヘルナイトさん――助けて。
◆ ◆
「――っ!」
突然の事態に直面したシェーラは驚愕の色の顔を染め、その光景を脳に刻むように凝視した。
今まで使いこなしていた言葉が一瞬記憶から飛ぶような感覚を感じ、且つ目の前の光景に対して対処できない硬直に陥りながら、彼女は己の視界に写り込むその光景を脳に刻む。
己の目の前――自分のチームの命綱でもあり浄化の力を持っている唯一のクリアの鍵となる存在ハンナ……の手首をがっしりと掴み、血走った眼で彼女のことを見つめている黒い狐のことを、クサビのことを視界に映し、無くなってしまった言葉の数々を急速に思い出した後、シェーラは心の中で思った。
何でこいつがいるの?
と――
そして同時に思った。
揺れ動く視界の中、異常と云ってもおかしくないような緊張の中、自分の記憶を辿りながら彼女は思う。
――この男……、いいやこの狐……! どうしてここにいるのよっ!? こいつは『永久監獄』に投獄されたはず! もう出られないと思っていた! 倒したと思っていた!
――なんでこんなところで再会するのっ!? どうしてこんな奴と再会するのよ! こんなことだったらもっとましな奴と再会したかったわっ!
――永遠にこいつとは再会したくなかったわっ! こんのキモ男っ! 投獄された後で蹲っていればよかったのにっ! そのまま牢屋に引きこもっていればよかったのにっ!
心の中と言う事もあってか、シェーラはクサビに対して罵倒の限りを尽くす罵倒を浴びせる。もはや悪意の塊ではなく罵倒の塊をぶつけるような勢いで彼女は脳内で頭を掻き毟り、ここで再会してしまったことを心の底から嫌悪していた。
……無理もないだろう。
遠く感じてしまうかもしれないが、彼女はクサビのことを知っている。いいや、彼女はクサビに会い、そして彼の狂気を間近で聞いているのだ。ゆえに嫌悪しないなど無理な話なのだ。
シェーラにとって。
簡潔に彼との出会い (ではないがここは出会いとして表記しておこう)話すと――クサビと出会ったのは『土』のガーディアン浄化のため、アクアロイアの砂の国に赴き、その通り持ちに繋がる『デノス』での戦いの時、彼女は虎次郎と一緒に彼と出会った。
魔獣の姿に見えるが実は亜人で、『魔導士』系統の『ウィザード』所属にいた狐の男であり、その時は『シャーマー』の男もいたはずなのだが、今その男はいない。
あの男と一緒だったからこそ、シェーラは苦戦を強いられた。
属性攻撃を跳ね返すスキルを所持している『シャーマー』と言う存在がいたせいで、彼女と虎次郎はクサビと言う相手にてこずってしまったという苦い経験をしている。
しかしその苦い経験を強いられた存在、『シャーマー』の男がいないだけよかったとシェーラは心の中で安堵したが、その安堵を消しながら警戒のそれを再度発動し、現在ハンナに向けて話しかけようともせず、ただただ彼女のことを狂気の眼で見つめているクサビのことを見つめる。
見て、あの時聞いた話を思い出してしまったシェーラは胃から込み上げて来るものを感じ、反射的に口に手を添え『う』と言う声を零した後、何とか込み上げてきたものを胃の中に戻す。
ごくりと飲み、逆流してきたものをそのまま元の位置に戻すようにした後、彼女は口に添えていたそれをそっと離し、もう一度彼のことを――クサビのことを見て、周りを目だけで見渡した後、シェーラは思った。
この場所に、『シャーマー』の男がいないことを目視で確認した後で……。
――あの男は、いないみたいね。あいつがいないからまだいいのかもしれない。でもこいつと再会するなんて最悪。
――最悪過ぎて吐きそうだった……。
――しかもハンナがいる時に狙われるだなんて……! とんだ失態だわ……!
――最悪、最悪……! もう最悪! こんなところでこの男が現れるだなんて思っても見なかったっ! って言うかまだ諦めていなかったのあの男! マジで諦めてほしかった!
「マジキショいわ……!」
シェーラは小さな声で毒を吐く。この時代に於いて死語になりつつある『キショい』と言う言葉を吐き捨てながら、彼女は今まさにハンナに詰め寄ろうとしているクサビに歩みを進めようとしていた。
勿論その光景を見て頭を整理するためにべつの場所に行こうとしていた桜姫もハンナのピンチを見て驚きの声を零すと同時に――
「ちょっとそこの動物ー! ハンナに何しようとしてんの? 噛みつかないで―っ!」
と、少しずれた言葉を吐き、反の手首を掴んでいるクサビに向けてずんずんっと歩みを進め、ハンナのことを助けようと意気込んでいた。
鼻息をふかし、助けるぞと言わんばかりに右手を上げて握り拳を作りながら歩みを進めようとしていた。まさにずんずんッという音が出そうな歩みをして桜姫はハンナのことを助けようとしていた。
その光景は友を助けようとする者の行動そのもの。
絵にかいたかのような光景である。
だがその行動はすぐに止められることになる。
「待ちなさいじゃじゃ馬女」
「ぎゃっ」
桜姫の勇敢な行動を止めたのはシェーラ。歩み進もうとしていた桜姫の首根っこを掴み、強制的に桜姫の進行を停止させたのだが、反動で桜姫は後ろにめり込むような体制になり、尻餅をつきそうになるが、それをなんとか留めるように両手を広げて足を少しだけ曲げた状態で止まる。
一見すると変な体制であるが、この体制のお陰で桜姫は尻餅をつくということを回避することができた。回避できたことで安堵の息を吐き捨てた後、桜姫は背後にいたシェーラに向けて怒りのそれをぶつける。
「何するのっ!? 転びそうだったじゃん!」
怒りのあまりに両手を拳の形にして振り回す桜姫。コミカルな場面で見るような光景であるが、桜姫の怒りすら聞いていないのかシェーラは視線をハンナ達に向けている状態で桜姫に向かって言った。
小さな言葉で、クサビとハンナに聞こえないくらいの声量で彼女は言う。
「あんた……、じゃじゃ馬にもほどがあるわ。どうして突っ込もうとしたの? そんなことをして最悪怪我でもしたら……」
「そんな……、そんなこと考えるよりもまずは助ける方が先じゃないの? シェーラはハンナのことw友達とか思っていないの? 友達じゃないから助け」
「助けたいわよ! 助けたい気持ちならあんたに負けないくらい大きいわよっ! でもできないのっ! まだ油断できないからできないの……!」
「? どういうこと?」
まだ油断できないからできない。
その言葉を聞いた桜姫は一瞬反論のそれが止まってしまい、理解が追い付けないまま彼女はその場で疑問のそれに顔を変える。
シェーラの言う『油断できない』と言う言葉は一体どういうことなのか。そしてなぜ一人であるクサビに立ち向かわないのか。色んな思考が桜姫の正常の思考を狂わせ、理解できない思考が続いてしまっていた。
彼女と言う存在をただ見てきた桜姫ではない。桜姫は彼女の強さをここ一週間弱見てきた。強いということも、すごいということもしっかりと見て理解していた。
だが、そんな彼女が前に出て戦おうとしない。
それだけの情報で桜姫は――理解できるはずもなく、シェーラの言葉を聞いた後理解できんと言わんばかりに首を傾げ、すっと姿勢を正すように立ち上がりシェーラのことを見て聞くと、シェーラは辺りを見渡しながら小さな声を継続させながら桜姫に言った。
小さな声で、今目の前でハンナのことをじっと、舐め回すように見つめているクサビから目を離さないようにして――
「まず……、本当にあの狐男が一人なのかと言う不安ね。あの男一人でここに来たことははっきりと分かれば立ち向かって蹴り飛ばしてハンナを救出することができる。あんな男一人――剣なんて使わなくても蹴りだけで十分なのよ」
「……蹴りって言う言葉にすごい力を感じる。でも見た限り一人に見えるけど?」
「物陰に隠れたり、あとは人ごみの中に紛れて襲い掛かっているかもしれないわ」
「元々一人……じゃないの?」
「ええそうよ。あいつは目的は違うけど利害の一致って言うか、まぁ同じ境遇同士が手を組んでできた徒党……、チームメンバーがいて、そいつらは今『永久監獄』って言うところにいるわ」
「『永久監獄』……っ? 悪いことをしたらずっとそこで閉じ込められて反省しなければいけないって言う……、あの?」
「まぁ……、心おこちゃまのオウヒ様ならそう言う見解で話さないとわからないわよね……。そうよ。その永久監獄に閉じ込められていたはず……、だったんだけど」
と言い、シェーラは再度ハンナ達に視線を向ける。
現在変わった様子はなく、延々とクサビがハンナに話欠けているような光景が写り込むが、それがいつ崩壊してしまうのか、いつ彼はハンナを連れ去ろうとするのか。その不安が大きな不安へと変わり、拭いきれないほど大きなものになっていく感覚をシェーラは感じてしまう。
いつまでもこの光景が続くわけではない。
クサビはハンナに対し途轍もない執着を抱いている。
ハンナのことを守る騎士になりたいという歪んだ思考を持った哀れで粘着質な男。
守るという言葉に隠れた独占欲と束縛はまさに異常。
異常で、その以上に拍車がかかっているのがまさに今。
そんな男にハンナを奪われるわけにはいかない。
どころかこの男と鉢合わせになって流れで二人っきりにさせるわけにはいかない。
でも――私だけじゃ……。アキ達が近くにいれば……! ヘルナイトもいつもハンナの近くでかほど勝手くらいべったりなくせに、なんでこんな時にいなくなるのよっ! 何なのよ用事ってええぇぇーっっ!
そう思い、別行動をしているアキ達 (厳密にはハンナ達のことを尾行しているアキ達)のことを恨めしく思い、そして別行動と言う名の単独行動をしているヘルナイトがいないことに苛立ちを覚えるシェーラだったが、ここで苛立ちを行動で表したとしても無駄な事。
無駄なことをするよりも今はやるべきことをしなければいけない。そう思い、シェーラは目の前の人物――クサビをどうするべきかを考えようとした。瞬間だった。
「――あれぇ?」
「!」
突然、ハンナと話していたクサビはシェーラに気付いたかのような音色と共にハンナから視線を外して遠くにいるシェーラに視線を移すと、クサビは彼女のことを見て、にたりと不気味に見える見開きの眼と狐の顔で口裂けの笑みを浮かべる。
まさに一種のホラーの光景に見えてしまい。角膜に焼き付き、脳裏に焼き付いてフラッシュバックしてしまいそうな顔をシェ―ラとついでと言わんばかりの桜姫に向けたクサビはシェーラに向けて――
「お前は確か……、あの時僕を虚仮にした挙句豚箱にぶち込んだきっかけを作った奴か」
と言い、彼はシェ―ラに近付こうと漆が塗られていた下駄をはいていたであろうその裸足で、傷まみれで泥まみれの足で歩みを進めようとする。
勿論シェーラ達はハンナの背後にいたこともあって、彼はハンナの横を通り過ぎるように歩いてきたが、クサビはそんな行動の中に常軌を逸している行動を加えて来る。
「いたっ」
クサビが動いた瞬間ハンナが痛みを訴える声を上げクサビが動くたびにハンナもなぜか動いてしまう。己の手を掴み、何かに抗っているような行動をしながらハンナは小さな声で訴えの声を上げる。
離して。痛いです。
そう零される言葉を聞き、そしてクサビが今もなお彼女の手首から手を離していないことに気付いたシェーラは声を失い、愕然してしまった。
桜姫は気付いていないが、シェーラは理解してしまう。
クサビは現在進行形でハンナの手を握っている。彼女の手を握り、捻ってしまうことなどお構いなしに掴んだ状態で彼はシェーラに近付こうとしているのだ。
「あの、痛いです……! 離して」
「なぜ話す必要があるんだね? 僕が君のか細く折れてしまいそうな手を離してしまえば、君は逃げてしまうだろう? 君は今目の前にいる女と行動しているんだろう? なら君はそっちに向かう。それは駄目だから離したくないんだ」
「離したくない……? それって、私も敵であることを認識しているんですよね……っ?」
「いいや君は私の姫だ」
「姫……じゃないっです……っ! 私は」
「ああ知っているよ。ハンナって言う名前なんだろう? 僕達プレイヤーの間ではちょっとした有名人なんだ。だから知っている。知っているからこそ僕は会いに来た。『愛を与えるために会いに来た』って臭いセリフで駄洒落に感じてしまいそうなことを考えながら来たんだよ。君の――騎士として」
「な、ナイト……?」
「ああナイトさ。僕は君のことを守る騎士。やっとわかったんだ。僕が生まれてきた意味を。そして……、ここにいる意味を」
抵抗しているハンナを話しているがなぜか噛み合わないそれを感じさせる会話をしている。だが目の前にいる存在を排除しようとなおもハンナの手首を掴んだまま近づいて来るクサビ。
異常ともいえる様なその光景を見て、噛み合わない会話を聞きながらシェーラは思った。
今まで感じていた嫌悪に更なる拍車がかかる様な気色悪さを感じながら彼女は思った。理解したくないが理解してしまった。
――ああ、こいつ……、目の前しか見ていないとか、ハンナしか見ていないとかじゃない。
――こいつは、ぶっ壊れているんだ。
――こいつの視界に写っているのはハンナしかいない。
――ハンナだけが正常に映っていて、他は敵にしか映っていない。
――私もオウヒも、みんなみんな……、こいつにとって敵でしかない。
――自分の幸せだけしか考えていない。幸せになれば全部がどうでもよくなっている。
――幸せになればどうでもいい。
――自分の幸せこそが重要な事。そしてハンナと一緒にいることが最重要案件。この二つが合わさった時、一つの形になった時初めて彼の悲願は成就される。
――そう……。つまり。
「私達のこと、殺すの?」
整理できた思考の中、シェーラは自分達に向かって歩みを進めていた足を止め、ハンナと話していたクサビのことを見て言う。
自分でも理解してしまうほどの引き攣りと強張った表情筋を感じながらも、シェーラは無理にでも武者震いめいた笑みを浮かべて言う。
シェーラの言葉が放たれた瞬間ハンナ達の周りを取り巻く空気の温度が一気に下がり、その急激な温度の低下と共に桜姫は愕然の面持ちで「えぇっ!?」と、素っ頓狂に近い悲鳴を上げる。
しかしそんな悲鳴も真剣な面持ちで引き攣りをしているシェーラと、狂気の思うが儘に行動しているクサビにとってすればそんなこと些細な事。
些細だからこそクサビは桜姫の叫びを無視し、自分の手中に入れたいハンナの手を強く掴んだ状態で言う。
シェーラに向けて、シェーラと一緒にいる桜姫に向けてクサビは言った。
「ああ殺すよ。だって君達がいると、姫はどうやら気になってしまうみたいでね。僕的には僕だけを見ていてほしいんだ。金を与えて得た偽りの愛ではない……。本当の愛を確かめたいんだ」
色んな愛を確かめ合いたい。
色んな愛をこの体に刻みたい。
だからさぁ……、君達は邪魔なんだ。
そうクサビは言い、言葉の続きを言おうと狐の口を開ける動作を行う。
大きく、大きなものを食す時の様に彼は口を開ける。その光景を見ながらシェーラは思う。内心、焦りと苛立ち、そして不安を抱きながら彼女は思った。
アキ達が来る時を待ちながら……、彼女は思う。
――まだなの? まだ来ないの?
――早く来なさいよ。仮にも妹のピンチなのよ?
――妹のピンチに駆けつけないだなんて、何してんのよ男どもぉ!
心の中で怒りの爆弾に点火し、爆発を起こすシェーラ。だがそれも心の中で行われていることだからこそクサビに悟られることはない。どころかクサビ自身この近くにアキ達がいることには気付いていないだろう。勿論ハンナと桜姫。シェーラだって気付いていない。
だがシェーラは知っている。
アキは妹の危機になればすぐに駆け付ける兄なのだ。彼が来ればきっと戦況も変わるだろう。状況もこっちに優勢になるだろう。
そう思っていたのだが、その淡い希望もどんどん絶望と言う不安にのみ込まれていく。
すぐに来るであろうアキが来ない。キョウヤも、虎次郎も来ないことに……シェーラは怒りを感じていたが、それと同時になぜ来ないのかと言う疑問を抱き、そして不安がどんどん表立っていく感覚が彼女のことを襲い、やけに手に広がる汗がその気持ちを本人に伝えようとしている。
まるで……、最悪の状況に陥っているような、そんな感覚を。
まるで………………。
と思った瞬間だった。
突然首に感じた小さな痛み。
「?」
その痛みはほんの一瞬で、何か当たった? と言う感覚で終わってしまう様なそれで、一瞬の痛みであり、その痛みも一瞬で消え去ってしまう。
消え去ってしまうのだが、その痛みが消えるのと並行して、視界もどんどんおぼろげになっていく。
朧気になる世界の中、シェーラの視界に入ったのは……膝から崩れて倒れてしまう桜姫と、その光景を見て驚愕の顔をしているハンナ。己のことを見て下劣な笑みを浮かべているクサビ。
そして………。
いつぞやか見たことがある――六芒星の印が視界に入った瞬間、シェーラの意識は途切れてしまった。
一体何がどうなっているのか、そんな思考ですらできないほど……。




