PLAY113 いざ往かん――初めてのお買い物へ!④
「は?」
その言葉は静寂と化した門の前の森林内に響き渡る……ことは無かった。どころかその呆けた声をかき消す勢いで木の葉を巻き込んで強い風が吹き荒れる。
ざわざわと感情を体現したかのような風の強さと草木の揺れの音が辺りを包み込み、木々の揺れと同時に命が僅かとなってしまった老葉が木の枝から離れて風に乗って舞い飛ぶ。
ゆらり、ゆら、ひらひらりと――一人で空中を舞いながら上がり、そして落ちていく枯れた木の葉。
右に曲がっては左に方向転換をし、左に曲がったと思えば今度は右にと優柔不断のような動きをしながら舞い落ち、優柔不断のまま地面に『かさり』と落ちる。
その最中紫知は桜姫の顔を見たまま驚きと茫然のまま目を見開いて微動だにしなかった。どころか時が止まってしまったかのように紫知はその顔のまま固まってしまっている。
言葉を失ってしまったかのような面持ちで、ありえないという顔を体現したまま彼女は固まっていた。
そう――本当に頭の中からとある五文字だけを残して他の言葉と言うものが一瞬飛んでしまい、本当に脳内でありえないという五文字だけが彼女の脳内を支配していたのだ。
他の言葉など意味なし。
ありえない。
その言葉が紫知の頭を縦横無尽に駆け回り、次第にその五文字が脳内に充満していく。
ありえない。ありえない。ありえない。
ありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえない。
ありえない!!
その言葉だけが彼女の脳内、意識、そして神経を支配し、彼女の脳内電気信号回路をショートさせていた。
どくどくと鳴りやまない嫌な心臓の鼓動が彼女の感情を搔き乱し、冷静な彼女の取柄を壊しにかかる。冷静と言う彼女の心の宝石に罅を入れるように彼女の心を乱していく。
乱し、混乱の渦へと誘われていく。
しかし、なぜ紫知がここまで心を乱しているのか――気になる人もいるであろう。
彼女は確かに門から郷に出ようとした桜姫に自分の魔祖を繰り出して止めた。紫知の『闇』の魔祖を受けた瞬間桜姫は固まってしまったのだ。
固まったと言っても石化の力を持つ眼の魔物のように体全体が石になったわけではない。紫知の『闇』の魔祖の力は触れてしまった瞬間、思考も何もかもが停止してしまうというもので、それを受けてしまった桜姫は思考も行動も停止してしまっただけなのだ。
外傷など一切なく、紫知は桜姫を捕まえることができた。簡単だった。
簡単ですぐに連れ戻せると、この時の紫知は思っていた。
が――それが一気に崩れ去ったのはその後だ。
桜姫が自分の体を覆う様に纏っていた黒い布を取った後――彼女は言葉を失って混乱の渦に巻き込まれてしまい、現在に至っている。
「っ」
混乱の所為なのかいつも無意識にできる呼吸ができなくなる。喉から胃液が吐き出されそうな恐怖と気持ち悪さを感じる紫知。
もしかしたら吐くかもしれない。吐かないかもしれないけれどこれ以上その不安を最悪の未来だと考えてしまうと吐いてしまうかもしれないという思考に侵されかけているが、なんとかその中間で留めて耐えている紫知。
耐えてすぐに混乱の靄がかかっている状態で思考を巡らせ、状況を整理する。
整理すると言っても、自分が行ってきたこと、つい先ほどまでのことを回想するだけのことなのだが、その回想の中で何か違和感がなかったか。誰かいなかったかを思い出そうとしていた。
静寂と微動だにしない身体の世界とは裏腹に、思考の世界は急かしなく情報の整理をしているという正反対の空間。
その正反対の中で、思考の世界で紫知は出来るだけ正確に、そしてできる限り思い出しながら違和感と言う名の違和感を、小さな違和感も見過ごさないように回想をしていた。思い出していた。
が――
結局何の情報を得ることができなかった。
どころか新しい情報などなく、彼女は思考の世界で愕然とした気持ちで現在目の前で微動だにしない桜姫のことを見降ろしながら何度も何度も思考を巡らせる。
今自分の目の前で起きていることが現実であることを痛感すると同時に、どうしてこうなっているのか、なぜこんなこんなことになったのか、なぜこうなっているのか。
考えれば考える程湧き上がってくる疑問を倒そうと奮起しながら紫知は目の前にいる桜姫のことをじっと、何の言葉もかけずに見降ろす。
いいや、この場合桜姫のことを桜姫と言う表記で表すこと自体間違いなのかもしれない。
否――大間違いだ。
大間違いだからこそ紫知は困惑し、混乱し、自分の記憶の中にある違和感を絞り出そうとしているのだ。だからこのような静寂が辺りを包み込んでいるのだ。
要は、この状況を作り出したのは紫知ではない。今まさに黒い布を剥いで素顔を露にした桜姫がこの異様な空気を作り、紫知の心を搔き乱しているのだ。
黒い布で顔を隠していた桜姫。一見すれば何もないように聞こえるかもしれない。
だが――それは誤解だ。
紫知の目には桜姫だと思っていたその存在が、桜姫ではない者に変わっていた……、いいや、元からそうだったのかもしれないが、紫知は変わったとこの時は思っていた。どこかで入れ替わったと思っていた。
そう……、紫知に襲われる前に桜姫は入れ替わったのだと思っていた。
今まさに自分の目の前で真上を向いた状態で止まっている真っ黒のそれを見降ろしながら……。
「黒い……、人?」
紫知は震える声で言葉を零す。
がくがくと指先が震えそうなそれを無意識に出し、どんどん渇いて行く口腔内の感覚を感じながら彼女は目の前にいるその存在――桜姫の姿をした真っ黒な存在のことを見下ろして言葉を零した。
着ている着物は正真正銘桜姫が着ている着物。だがそれ以外は全然似ていなかった。どころか着物以外は真っ黒な存在で、髪の毛も、角も黒いそれで、顔に至っては真っ黒なのっぺらぼうのような状態で、口も開いていると思っていたが口腔内も黒いらしく、口の開閉は一応している。
そんな見るからに異質に見てしまいそうな存在が桜姫の着物を着て、黒い布を被って顔を隠していた。しかも桜姫の象徴でもある二本の角をちらちらとちらつかせて……、その人物はのっぺらぼうの顔で紫知のことを見上げている。
いいや、そもそもこの黒い肌……、いやいやそもそもこの黒いそれは肌なのかもわからないが、それでも黒い肌をしている黒いのっぺらぼうは見上げているのかもわからないが、それでも紫知のことを見上げたまま決められた動作の如く小さな口を開閉している。
開閉しているその光景を見て、そして桜姫の姿に擬態している黒い何かを見ていた紫知は、『ありえない』の五文字が現在進行形で脳内シャッフルされている最中――今目の前にいる桜姫に擬態しているこの存在は何なのか。それを確かめるために彼女は徐に手を伸ばした。
つい先ほど黒い布を剥ぎ取った後なのだが、今目の前にいる存在が一体何なのかをちゃんと調べる必要があると紫知はこの時混乱する思考の中思いついたのだ。
今目の前にいる桜姫に似た何かは魔物が擬態した何かなのか? それとも鬼族の角目当てで襲撃してきた輩の魔法か瘴輝石の力なのか。それを確かめなければならない。
魔物であろうとも、襲撃者であろうとも危険に変わりはない。
桜姫が脱走したという緊急事態が完全に別の何かにすり替わってしまったが、そんなこと関係ない。桜姫だと思っていた人物が全く別の人物……、どころか別の何かになっていたのだ。緊急事態など桜姫らしき黒い存在を見た時点で紫知の頭から消え去り、彼女の頭の中は『ありえない』の五文字と、目の前の存在が一体何なのかを確かめるということしかなかった。
「っ」
生唾を飲む音が嫌と言うほど大きく聞こえる。自分がその行動をして飲んだ音なのだが、その音でさえも鼓膜を大きく揺らし、五月蠅いと感じてしまうほど生唾を飲む音は大きく感じた紫知。
その音に対して嫌悪を感じつつも、紫知は徐に伸ばした右手を桜姫に模した黒い存在に向ける。
只伸ばしただけなのに指先までも震えてしまい、触れることでさえも躊躇ってしまう様な直感を感じてしまう。
――ただ触れるだけなのに、なぜこんなにも怖く感じてしまうのか。
紫知は思った。
――なぜこんなにも怖がってしまうのかわからない自分がいて、なぜ自分の魔祖で動けなくなっている存在に対し恐怖を抱いているのか。
――ただ触れるだけなのに……、私の魔祖もしっかりとかかっているはずなのに……、どうしてこんなに怖く感じてしまう?
――目の前にいる何かが得体のしれないものだから?
――もしくは魔物だったらの恐怖?
――まさか……、襲撃者であった時の最悪の未来への不安?
考えに考えを巡らせていきながら、紫知はゆっくりとした動作で手を伸ばし、桜姫に模したその存在が一体何なのかを確かめるために触れようとする。
危険なのは百も承知だが、幸い紫知の魔祖にかかっているおかげで微動だにしない。動くことすらできないのだ。だから触れられる。触れられるからこそ――今のうちに調べておかないといけない。
自分の魔祖がかかっている今のうちに――
そう思い、紫知は伸ばす手の速度を速める………ことができないまま一定の遅い速度で桜姫に模した黒い何かに向けて近付け、黒い何かの鼻先に向けて己の指の先を伸ばしていく。
少しずつ、本当に少しずつ近付けていくにつれて、紫知の鼓動が大きく、そして早くなっていき、口腔内に湧き上がっていく唾液を呑み込む音も大きくなる。
緊張しているような感覚を感じつつ、最悪の想定など考えるなと己に向けて叱咤しながら紫知は指の先を黒い何かの鼻先に向け、そして――
ちょんっと、ほんの少し、ほんの少しだけ彼女の指が鼻先に触れた。
瞬間――
ぼふぅっ! と、桜姫を模した黒い何かは一瞬にして黒い塵となって消えてしまった。
まるで魔物を倒した瞬間黒く変色し、消滅したかのように――
「っ!? え?」
突然の消滅を見てしまった紫知は驚きの顔のまま固まってしまい、戸惑いながら辺りを見渡すが辺りには黒い塵どころか一粒の粉もない。
空気に溶けて消えてしまったかのように跡形もなくなくなってしまった黒い何か。
触れた瞬間に消滅した光景を見た紫知は一瞬魔物なのかと思ってしまったが、彼女は危害を加えていない。ただ彼女は相手の動きを止めただけで攻撃などしていない。強いて言うのであれば指先だけで触れただけなのだ。
触れただけで消える程ダメージを負っているとは思えない。
かといって襲撃者の魔法か瘴輝石の力なのかは今の紫知にはわからない。消滅してしまった時点でそれを証明することなどできないのだ。あれが一体何なのかなど……、正体すらわからないまま消えてしまったのだから仕方がない事なのだが、紫知は仕方がないで済ませることができなかった。
「どこだ……っ! どこにいるんだ……! 一体どこに消えてしまったの……? どこに……?」
消えてしまった桜姫に模した存在がいた場所を一帯を見渡し、どこにいるのかと考えながら探していたが、空気に溶けて消えてしまったのだから見つかることなどできない。しかしあれを生み出した誰かがいるかもしれないと思い、紫知は諦めることなく探し続け、脳内で『どこにいる?』と言う言葉を繰り返し唱えながら思った。
先ほどの感覚など忘れてしまったかのように、急かしなく脳内をフル活用しながら――
――消えた……と言う事はどこかに発動した輩がいる。
――となればもしかすると、姫様はその発動者……、魔女か六芒星か、死霊族がこんなことを……っ!?
――いいやそんな気配はなかった。どころかこの砦ができてからは侵入者なんて入ってこなかった。
――鬼族の隠れ家はもはやうわさ話に過ぎないものになりつつある。アズール幽世伝説 (現代で言うところの都市伝説)の話にもなっているからか、鬼の郷に襲撃者が襲撃してくることはなかった。
――まぁ、襲撃する前にこちらから出向くことが多々ありましたが……、それでもこんなことは初めてだ。
――どころか、こんな芸当を見るのも初めだ。
――鬼族の力でも見たことがない力。魔法のように魔祖の気配を感じるが、魔法の芸当ではない。だからと言って瘴輝石の力ではこんな緻密なことは出来ない。
――詠唱……? 詠唱ならばあの黒い何かを作り出すことができる……。かもしれないが……。
――詠唱を使えるのは異国の冒険者と、『12鬼士』のみ。
――まさかと思いますが、もしかしたら、あの冒険者達が……?
紫知は考える。延々と、悶々とした思考の中考え続ける。
あれはないがこれならいけるかもしれない。これならば行けるかもしれないがあれならば……。という具合にまるで数学の証明を構築するように黙々と思考の中で思考の樹海を張り巡らせ、どの証明が一番いいのか。一体どの証明が正しいのかを検討する紫知。
……一見して見ると考えすぎて時間を使い過ぎているかのように見えてしまうかもしれないが、現実にするとその時間の経過はさほど経っていない。どころか緊急事態の警報が鳴ってからたったの三分しか経っていないのだ。
その三分の中で紫知は桜姫――に模した黒い何かを見つけたのだ。
最速と言ってもいいほどの最短時間で、紫知は見つけた。そして捕まえようとしたらこの結果。
まさに水の泡と言っても過言ではない。且つ状況はどんどん進み、もしかしたらと言う事も想定して動かないといけないのだ。
最悪の想定も考えた上で紫知は考えを巡らせ、短い時間の中で長い長考をした結果、彼女は顔を上げ、門から視線を逸らして後ろを振り向く。
振り向くと同時に彼女は心の中で意を決する。
黒い何かを作り出すという芸当ができるのは冒険者。その冒険者は現在この郷の客間にいるはず。今すぐにでもその冒険者がいるであろう客間に向かい問い詰めようと――
彼女は「よし」と言わんばかりに頷き、そして踵を返しながら異国の冒険者――ハンナ達がいる客間に向かおうとした。その時だった。
「――やめて置け」
「!」
夜と言う名の静寂の世界に紫知以外の声が紫知の鼓膜を大きく揺らし、声がした方角に向けて紫知は視線を移した。
ばっと素早く首を振り、声がした方角――彼女が踵を返した時点で左側から聞こえた声を聞いて、紫知は視線の先で叢をかき分けてきている人物に向けて目を凝らす。
凝らして――近付いて来ている人物がだれなのかを見ながら手に闇の魔祖の力を集結するように力を籠める。
手の中に黒い刀を描くように、彼女は小さく息を吐くと……、彼女は唱える。
「闇の聖霊。闇の魔祖よ――私に力を貸しなさい。鬼族に仇名す者に闇の粛清を与える力を」
「そんなことをしても無駄だ。その力は儂相手であれば無駄な労力だぞ? それに、同胞にその矛を向けるのか――貴様は」
「!」
だがその唱えの途中で紫知に向けて声を掛けた人物は再度と言わんばかりに静止の声を上げ、言葉の一部に『同胞』と言う言葉を入れる。
同胞。
その言葉を聞いた紫知ははっと息を呑む声を零し、発動しようとしていた黒いそれを即座に手で払って消すと、紫知は警戒の構えを解いてその方角からくる人物のことを見る。
視認を優先にした視線を向けると……、声を掛けた人物は草をかき分ける音を立てて歩みを紫知がいる場所に向けて進めていく。
『ざっ。ざっ。ざっ』と言うかき分ける音が辺りを包む。
その音を聞きながら紫知は自分の元に来るであろう人物に向けて、苦虫を噛み締めるような顔を向けると、彼女は小さく苦し紛れの音色で言った。
「……どういう事ですか……? 赫破様」
彼女の口から零れた言葉と共に歩み寄ってきた人物は暗闇の世界から姿を現す。
夜と言う寒い時間にも関わらずその恰好は羽織を羽織っているだけのそれで服装は薄い着物。その着物に藁で作った草履を履いた老人――赤い角を生やした赫破は、老人と思わせないような真っ直ぐな背筋と視線で紫知のことを見て歩みを止める。
シワシワではあるが手の至る所に刻まれている切り傷の手を徐に紫知に向けて差し出した状態で――まるでその手から魔法の攻撃を放とうとしている手の動作で歩み寄ってきた赫破のことを見て、紫知はぐっと下唇を噛みしめたまま再度構えを取ろうとした。
だが……、その光景を見たとしても流石と言うべきなのか、重鎮の名を背負っている赫破は動じるという顔をしない。
どころか――
「やめておけ紫知。お前の魔祖は対象に触れないと発動しない魔祖。触れた瞬間初めて発動できる魔祖だ。触れなければ何の役に立たん魔祖。儂の魔祖相手ではかなり不利になるだろう」
儂の魔祖は離れていても攻撃できる魔祖だからな。
そう言う赫破の言葉に紫知は更に噛み締める力を強め、口の端から零れる赤いそれを顎を伝い落としながら唸る声を零す。
まさに図星と言わんばかりの面持ちと心境を出して……。
紫知の図星の顔を見て赫破は上げた手を降ろす素振りなど見せず、どころかその状態のまま赫破は紫知に向けて言う。
威厳ある――重鎮としての声色と面持ちで彼は言った。
「紫知、もう諦めろ。姫はもう外に向かっている。まんまと冒険者共に踊らされたな」
「――っ! やっぱり……っ!」
赫破の言葉を聞いて紫知は苦虫を噛み締めていた顔からはっと息を呑んだ驚愕の顔に変え、舌打ち交じりの声を零して一歩右足を前に向けて踏みつける。
ざんっ! と草木を強く踏みつける音が辺りに一瞬だけ響き、紫知は足の踏みつけと同時に赫破に向けて怒声を浴びせる。荒げるようにその声を上げ、赫破に向けてぶつけるように彼女は叫んだ。
「踊らされた……ってことは、まさか知ってて追っていないのですかっ!? どうして追わないんですかっ!? 追わないと姫様が……!」
「追っても無駄だろう。無駄なほど今回の脱走は巧妙に組み込まれている。儂等の目を欺くような芸当を施し、あろうことかこうさせるために行ったのだからな」
「こうさせるために……?」
「ああ。緊急事態になると誰もが姫を追うために持ち場から離れるであろう? その行動をさせるために奴らはしたんだ」
「奴等……、やっぱり……、やっぱり脱走の手引きは……!」
「ああ、あの武神の輩共だ」
まさか精密なまでに桜姫の姿を模すとは思わなかったが。
そう付け加えるように言う赫破だが、紫知の耳にはその言葉は入っておらず、どころか赫破の言葉を遮る様に彼女は荒げる声で舌打ちを零すと、再度踵を返して向かおうとしていた場所に足を向ける。
先程は別の場所に行こうとしていたその足を再び門に向けて進めようとしていた。
「何をする気だ?」
赫破は聞く。紫知に向けて言葉と言う名の静止を投げかけて質問をする。
かざしている手をそのままにして聞くと、紫知は赫破のことを見ず、振り返らないまま「決まっています」と低い音色で返すと、彼女は続けて言う。
「今すぐそいつらをとっ捕まえて処罰します」
「………殺すのか?」
「ええそうです」
赫破の質問に紫知は即答と言わんばかりのはっきりとした口調で答える。振り向かずに答える彼女の音色はとてつもない冷気を纏った冷たい音色そのもので、赫破はそれを聞き感じた瞬間……、紫知が本気であることを悟り、彼は小さく鼻で溜息を吐くと紫知に向けて言う。
諫めるために、彼女に向けて言う。
「やめて置けと言っただろう? 聞いていなかったのか馬鹿者が。捕まえるにしてももうこの場所にいない。どころかもう郷の外に出てしまっているかもしれないんだぞ?」
「いいえ出ていません。この郷の出入り口はこの門だけなんです。他の出入り口なんてどこにもない。唯一の出入り口でもある門の前を通っていないということはまだこの郷にいる可能性が高いんです。だからこの場所で待ち伏せをして捕まえるんです」
「唯一の出入り口か」
紫知の言葉を聞いた赫破は目の前に佇む大きな門を見上げて言葉を零す。
確かにこの門はこの鬼の郷唯一の出入り口でもあり、この門を通らなければこの郷に入ること、出ることなどできない。強いて出入り方法が他にあると言えば空からの侵入しかない。
しかし空からの出入りとなれば人目がつく。且つここ最近竜人族の訪問などなかったことを考えると空から逃げるなどと言う事はありえない。
だから紫知は思ったのだ。
脱走の手引きをしている冒険者――ハンナ達はまだ郷にいると。そして脱走のためにはここを必ず通るであろう。
そう確信して彼女は赫破に言う。
ここにいれば必ずハンナ達は来ると――
しかし――赫破は違った。
赫破は頭を振るいながら紫知に向けて呆れの声と共に言葉を発する。
本当に呆れてしまう。そんな声を言葉にして。
「……お前は本当に頭が固い。固すぎて脳味噌が石にでもなってしまったのか?」
「っ? なんですかその言葉は」
赫破の言葉――皮肉めいた言葉を聞いた紫知は足を止め、赫破のことを見るために振り向くと、舌打ちと言う名のそれが出そうな表情と声色で赫破に聞く。
私のことを馬鹿にしているのですか? そう言わんばかりの心の声が聞こえそうな顔で見ると、赫破はその心の声を察し、紫知の言葉に対し「言葉通りの意味だ」と言った後、彼は伸ばしていたその手を下ろし、今度はその手を指を指す形に変えると、彼はその手をとあるところに向けて――指した。
「?」
指を指すその行動を見ていた紫知は、一体何が言いたいんだと言わんばかりに首を傾げて顰めた顔をするが、赫破はそんな彼女に向けて一言置手紙を置くように短く、そしてわかりやすく彼女に言葉を返した。
「お前は見落としているぞ? あの者達ならば出られる突破口があることを」
完全に見落としているぞ。
赫破は言う。はっきりとした言葉と共に見せた威厳の顔――ではない、微かに穏やかが含まれているその顔を紫知に見せながら彼は言った。
ハンナ達ならば脱走できるであろうとある場所を指さしながら……。
「? ??」
赫破の言葉に紫知は首を傾げながら指が刺された方角を見つめる。
見つめるが、彼女に視界に入るのは大きな月とその月を隠そうとしている黒い雲、そしてその影になろうとそびえ立つ小さな櫓と、数羽飛ぶ烏。
かぁかぁと小さく鳴く烏の声を聞いていた紫知は訳が分からないと言わんばかりに再度首を傾げ、そのまま赫破のことを見ようと視線を変えようとした。
瞬間だった。
彼女の視界の端に、何かが写り込んだ。
小さく、何かが飛んで通り過ぎるような、そんな小ささの何かを。
「――っっ!? あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああ、あああああああああ……っ!」
紫知はそれに気付き、再度赫破が指さした方向に視線を向け、驚愕の顔を浮かべながら彼女は狼狽の声を零して膝から崩れ落ちていく。
どしゃりと崩れる音を放ち、彼女は今まさに赫破が指したであろうその方向を見上げ、愕然の面持ちでその光景を目に焼き付ける。
「そんな……っ! そんなことって……! まさか……!」
「ああ、あの影はまさに儂等鬼族を欺くための囮だった。本命はもうすでに陣取ったからこそ実行したということだ」
「っ!」
「まさかこんな方法があるとは思ってもみなかった。緑薙も黄稽もきっと怒りで地団駄を踏んでいるだろうな」
こんな形で鬼族が踊らされたんだからな。
そう言って赫破は地面にへたり込んだ紫知の近くに寄り、自分が指を指したであろうその場所を見上げて彼はわずかに口角を上げる。
彼の視界に写り込む月を背景にして飛ぶ何かを見て――彼は一言、その光景を見ながら言う。
その場所にいるであろう人物に向けて、彼は小さく言う。
「気を付けていってこい」
◆ ◆
吹き荒れる風の音が鼓膜を何度も小太鼓のように揺らし、バタバタと乱れる髪の毛を抑えながらその人物はしっかりと自分のことを担いでくれている人物の肩を掴んで落ちないように踏ん張る。
踏ん張りながらその人物はふと――視界に入ったそれを見て顔を上げる。
視界に入ったのは門の方角だ。
なぜこのようなことをしたのかは、本人でもわからない。だか赫破の言葉を聞いてなのか、それか今まで軟禁状態を強いられてきたストレスの発散なのか、その人物は門の方角を見つめ、にっと満面でやってやったと言わんばかりの自慢のそれを合わせた笑顔を向けると、その人物は……、彼女は顔を上げ、門の方角に向けて明るい大きな声で叫んだ。
自分のことをおんぶして運んでくれている彼のことをしっかりと考え、一瞬だけ彼から離れるように起き上がると、彼女は叫ぶ。
「いってきまーっす!」
その叫び声――桜姫の叫び声が鬼の郷中に響き渡り、木霊として響き渡った時にはもう遅かった。誰もが桜姫と、一緒に企てを行っていた者達に手の上で踊らされた結果――桜姫は脱走を成功させた。
人生で初めての脱走。
その初めての成功の興奮と共に、桜姫は自分のことをおぶって運んでくれたキョウヤの背中で叫んだ。背景の月の光をバックに、彼女は叫んだ。
一般家庭のお出かけの掛け合い――『いってきます』を。




