PLAY98 八方塞がりの戦場③
『12鬼士』の一人にして最強の名を背負っている魔王族……、『地獄の武神』の名を持ち、『最強の鬼神』という二つ名を持っている鬼士――ヘルナイトは、突然目の前に現れたエルフの暗殺者クィンクと、彼の影でもある『轟獣王』がいる方向に向かわず、そのままクロゥディグルの翼が生えている方向に向かって、全速力で駆け出した。
クロゥディグルの翼が生えている方向――簡単に言うと、その場所に足場などない。
つまり。
ヘルナイトは足場がない場所に向かって走っていたのだ。全速力で、全力で――飛び降りをするかのように、彼はその方向に向かって走っていたのだ。
ヘルナイトのその光景を見た誰もが驚愕のそれを浮かべ、みんなの命を預かる任を担っているクロゥディグルはアキ達以上に驚きのそれを浮かべながらヘルナイトの名を呼んで早まりを止めようとする。
その中でも特に驚愕のそれを浮かべてたハンナは絶句と悲痛を浮かべた顔でヘルナイトに手を伸ばしたが、その行為も虚しく……、ただ空を掴むだけになってしまい、ハンナはそのまま前のめりになった反動で前に向かって転んでしまう。
べちゃりと――クロゥディグルの背中に顔を打ち付けてしまうように彼女は転んでしまうも、転んだ瞬間に顔を上げ、顔についている掠り傷を無視して彼女は再度ヘルナイトのことを叫ぶ。
だがヘルナイトは動きを止めようとしない。
聞こえていないわけではない。聞こえている。
聞いているのに止まらないのは、意地悪ではない。
意地悪ではないが、彼自身本気で、本心でこの行動に勤しんでいるのだ。
ハンナの言葉を始めて後にし、この行動を優先にして、ヘルナイトは今もなお駆け出しているのだ。
一応言っておく。彼は自殺をするためにこんなことをしているのではない。彼は――決着をつけるためにこの行動に勤しんだのだ。
そう――決着をつけるために。
今まさに、自分達の脅威となった謎の冒険者――クィンクと、そんな彼の従順な影『轟獣王』との決着をつけるために。
「――っ!? っっ!」
ヘルナイトの行動を見ていたクィンクはきっと、ハンナ以上のそれを見せるように驚きながらヘルナイトの動きを目で追い、彼が向かうであろうその場所に向けて視線を向けた瞬間、クィンクは二重の驚きを浮かべて思った。
――あの『12鬼士』……、一体何をしでかそうとしているんだ……っ!?
――いいや違うっ! 何を血迷ったんだっ!?
――なんで飛び込もうとしているんだっ? なんでそんな真似をするんだっ!?
――そんなのただの自殺志願者がすることだ。なのになぜあいつはそんな覚悟も意思も、ましてや自殺をするという意思が全く見えなかった。
――なのに……、なぜ……?
クィンクは思った。それはハンナ達はおろか、この場所にいて、この場所がどれだけ恐ろしい場所なのかを知っている人ならば、誰もが思うことであろう。
何度も言おう。今ハンナ達がいるその場所はボロボに住んでいる者でも寄り付かない危険区域でもあり、その場所に足を踏みいれた瞬間、命を刈り取られてしまうその場所そのものが魔物なのかもしれないと思ってしまうような場所でもあり、クィンク自身もそのことに関してはあの人から聞いて重々承知していた。
今ハンナ達がいる場所の名は『飢餓樹海』
その場所の範囲内に入った瞬間、如何なるものであろうとその樹海の奥深く――つまりは樹海の胃の中に放り込まれ、あっという間に食べられてしまう。いうなればこの樹海そのものが大量の食人植物のような場所なのだ。
………いいや、食人植物と言う言葉もどことなく可愛く感じてしまう。なにせこの樹海はボロボの住人から、デュランからこう言われているのだから……。
このアズールに何千年もの間住み着いている存在であるが名は分からない。しかし人はこの魔物のことを――如何なるもの平らげ、そして満腹と言うものを知らずに空腹の赴くがままに食らいつくしていく存在。
そう――この樹海は生きている。
人間が生きるために食べ物や飲み物を摂取して生きるように、この樹海も生きるために食べている。その満たしが頂点に達することはないが、それでも樹海は食う。
空腹のまま満たされることなく食い続ける。
まるで――暴食の如く。
それこそがこの樹海の姿。樹海の恐ろしさなのだが、その恐ろしさを知ったにも関わらず、思い出したにも関わらずヘルナイトはまるで樹海のプールに飛び込むような勢いで駆け出しているのだ。
その光景を見れば誰であろうと止めるであろう。
敵でも戸惑うであろう。
生死の声が飛び交う空の世界に断絶されたかのように、ヘルナイトは無言を徹しどんどんとクロゥディグルの背から飛び込むまでの距離を縮めていく。
その光景を見ながらクィンクは思った。
焦りのそれを浮かべながら、『早まるな』や、『待て』と言う言葉をかけている仲間達のことを無視して走る行動を続けるヘルナイトのことを見ながら、まるで死ぬ瞬間に見る様なスローモーションの光景を目に焼き付けながら、クィンクは思った。
なぜ――ヘルナイトはこんなことをするのかと。
クィンクは正直な話……、ヘルナイトのことを圧倒的な敵として、見過ごしてしまった瞬間強大な脅威となることを直感で感じていた。
その直感はヘルナイト達のことを襲撃した瞬間から、獣の如くの直感が彼の脳内を刺激し、そしてその刺激に従うように、命令にあった相手の排除よりも、ヘルナイトの方を先に排除しなければいけないと思った。
ゆえにクィンクは攻撃を繰り出した。
ヘルナイトの頭上からの攻撃をし、その後で厄介な存在でもあるハンナのことを目潰しすると見せかけての引きはがしをし、そのままヘルナイトのことを倒そうとした。が――それも悉くヘルナイトの攻防により、そしてアキ達の加勢によって防がれてしまった。
そのことに関しては迂闊だったと思っているクィンク。
自分の実力の浅さと不足している修羅場の数のせいで、最も出したくなかった『轟獣王』を出すほどなのだ。そうでもしなければ自分はヘルナイトを倒すことができない。そして相手の邪魔で自分が死ぬなんて笑い事にもならない。
いいや、冥途の土産にしてしまった瞬間捨てられてしまいそうな面白くない話だ。
彼も直感ながら理解してしまったのだろう。
ヘルナイトは――この世界の中で強い存在であると同時に、この世界に幽閉された冒険者が束になっても、数千万、何億の者が束になって彼一人に戦いを挑んだとしても、未来は一択。
ヘルナイトの圧勝で幕を閉じてしまうと――
それが指すことは、まさに冒険者にとって大きな痛手。大きな弊害。
脅威にしかならない。
いくらハンナ達と行動をしているからと言って、安全百パーセントの完全補償があるとは限らない。彼はそんな世界で常に神経を研ぎ澄ませながら生きてきた。死ぬかもしれないと思ったことなど何度もあった。
ゆえにクィンクは思ったのだ。
脅威となる存在は、絶対に致命傷を負わせ、そしてその心意を尋問と言う名の拷問で聞きだすと――そう思ったのだ。
勿論――あのお方の命令もしっかりと遂行をして。
だから彼は執拗にヘルナイトに攻撃を仕掛けた。それは本能として、彼を最初に倒した方がいいという囁きに従った結果なのだが、彼の直感は正しかった。
が――この行動は読んでいなかった。
読んでいなかったからこそ衝撃と言う名の混乱は大きい。
大きすぎるせいで頭の中ハンドミキサーにかけられたかのようなこんがらがり。そのこんがらがりによって生み出されていく新たなる疑念が、クィンクの正常な思考を阻害し、そして……。
『おいクィンクッ! あの男身投げをするつもりだ! そんなことさせるなっ! あのままあの樹海に飛び込んでしまっては俺の強さの証明ができんっ! ホレ行けっ! 早く行けっ! はよはよっっ!』
「!」
自分とは完全に不釣り合い――いいや、正反対の性格と人格、思想を持ち合わせている『轟獣王』のクィンク的には苛立つような言葉を聞くと同時に、腹の底からこみあげてくるぐつぐつと熱くなった感情に躍らされそうになったが、それをぐっと堪える。
堪えているクィンクに対し、『轟獣王』はクィンクの肩を大きな手でバンバンっと叩きながら『はよはよっ!』と急かしている。
大急ぎで行けと言わんばかりの行動ではあるが、その言葉、そしてその衝撃を受けていたクィンクは、心の中で増幅し、膨張していく黒い憎しみを膨れ上がらせながら、彼は内心思った。
先ほどまで考えていたその思考を頭の片隅に入れながら……。
――五月蠅い……っ。集中させてくれ……っ!
――お前のせいで気が滅入るっ! なんでこんな喧しい奴が俺の影なんだ……っ!
――あの人は、旦那様は、『お似合いの相棒同士だ』と言っていたが、とんでもない……!
と思い、それと同時にどんどんと時間が進む光景を目の辺りにし、このままではヘルナイトは下の樹海に身を投げてしまうと、クィンクはバツが悪そうな顔をし、すぐにヘルナイトの行動を止めようと行動に移そうとした。
「――っ! っち!」
今までの無表情が嘘のような感情を剥き出しにし、舌打ちを零すと同時に、クィンクもヘルナイトの後を追うように、影である『轟獣王』と一緒に、クィンクはヘルナイトの早まりを止めに向かう。
敵でもあるにも関わらず、彼は敵――ヘルナイトの行動を止めようとしたのだ。
はたから見ればなぜそんなことをするのかと疑念を持ってしまうであろう。普通ヘルナイトが邪魔であれば、脅威と思ったからこそ倒そうと躍起になっていたクィンク。
しかし今彼がしていることは先ほどの思考とは全く逆の思考。
つまりはヘルナイトの仲間側がすることであるのだが、彼は敵であるにも関わらず、味方がするべきことをしてしまったのだ。何の躊躇いもなく、自分がしていることが異常であることにも気付かず……。
いいや、クィンクは気付いている。自分がしていることが異常であると。
しかしクィンク自身は自分が今していることは正しいと認識している。いいや――これが正しいと胸を張って言えると自負している。
先ほども言ったが、彼はヘルナイトのことをかなり警戒している。そしてその警戒をすると共にヘルナイトの心意を尋問と言う名の拷問で聞きだすことを決めている。それはあのお方の命令を同時遂行するための最も合理的な方法でもあるとクィンクは自覚している。
いいや――強いて言うのであれば彼はその方法しか頭にない。
それ以外の方法を学んだことがないと言った方がいいだろう。
だからなのだろうか。
クィンクは今まさにクロゥディグルの背中から身を乗り出そうとして、飛び降りをしようとしているヘルナイトのことを止めるために駆け出す。素足に近い服装でもあったからなのか、足の裏の触角がクロゥディグルの背中の鱗の感触が直に伝わってくる。
ザリザリする感触を感じながら、彼はその感触がわずかな痛覚へと変換されテイクが、その痛覚でさえも感じられないほど、クィンクは全神経をとある方向に研ぎ澄ませた。
そう――とある方向に……、いいや、自らの命を投げ出す勢いで走っているヘルナイトに向かって、彼は駆け出し、そして手を伸ばしてヘルナイトが纏うマントを掴もうとする。
勿論――『轟獣王』も一緒になって、だ。
全神経を研ぎ澄ませ、その手で掴む意思を固め、全神経を集中させて、彼は横に流れる様に跳躍し、そしてその跳躍の加速を利用して手を伸ばし、己の体の長さをリーチにして、風で靡くヘルナイトのマントに向けて手を伸ばす。
性格の不一致で喧嘩が絶えない『轟獣王』も、己の強さの証明の対象となるヘルナイトに向けて手を伸ばし、最も戦いやすいこの場所で戦ってほしいという願いと共に、クィンクと同じように手を伸ばし、影の特性を利用した伸ばしを使ってヘルナイトのことを掴もうとした。
「っ! ぐぅ……!」
『ええぃ! 届けぇっ!』
それぞれ考えていることは違うが、ヘルナイトを捕まえ、この場所で倒すという利害の一致で彼等は同じ行動でもある手を伸ばし、ヘルナイトの行動を阻止することに専念する光景は――他者から見ても変な光景であろう。
だが、彼等も必死なのだ。
利害の一致もある。己の目的もある。そしてヘルナイトをこのまま逃してしまえば……、後々自分達の弊害となることを恐れての行動。
そして――いつぞやか話しただろう。ハンナが前にこんなことを話していたことを。
『多』と『一』のことを。
『多』の立場にいる者にとって、広い地形は最も戦いやすい地形であり、クロゥディグルのような狭い地形とは最も苦手とする状態であると同時に、『一』にとってすれば狭い場所は最も戦いやすい場所であると同時に、広い場所は戦いづらい。
だからなのだろうな。とうクィンクは思った。
きっと――ヘルナイトには秘策があるのだろう。と……。
広い地形でもある地上はどんな種族も寄り付かない危険区域。そんな地形をものともしない……、いいや、その地形を壊してしまうような力を、スキルを持っているからこそ、彼はその力を使ってこの地を更地にして、自分達が最も苦手とする状況にもつれ込もうとしているのだろう。
そうなってしまっては一気に不利になってしまう。
そうなる前に――この竜には悪いが、自分が最も戦いやすい場所で倒す。
クィンクは思う。
ヘルナイトの思惑通りにさせるわけにはいかない。そうなる前に倒す。
その意志を込め、そして――あのお方の名を汚すことなどないように、クィンクは『轟獣王』と共にヘルナイトの行動を止めるために奮起する。
駈け出した速度で言うと、クィンクの方が少しばかり早い。
ヘルナイトの速度よりも早いお陰で、横に飛んだことによって少しばかりヘルナイトとの距離を詰めることができたが、それでもまだ距離がある。見ただけでも……五メーターはある。
それでも届かない距離ではない。
必死になって、死ぬ気で伸ばせば届くかもしれない距離。
クィンクは飛ぶ瞬間――全力の横の跳躍をしたのだ。その跳躍のお陰もあって、五メーター会ったその距離もどんどんと近付いて行くのを感じるクィンク。
リレー選手が前の選手を追い越すような距離の詰め方。
アキ達やハンナ、そして同じ『12鬼士』でもあるデュランの驚き、クロゥディグルの静止の声を無視して――その状態のままクィンクと『轟獣王』は手を伸ばしたまま、どんどんとクロゥディグルの背から飛び降りようとしている距離を詰めていくヘルナイトのマントを掴もうとする。
完全なる二人の世界を形成していきながら、どんどんと……、距離を詰めながら……。
「――っ! この……っ!」
『待てっ! 『12鬼士』っ!』
どんどんと距離を詰めていく中、なおも走りを続けるヘルナイトに向けて無我夢中で手を伸ばすクィンクと『轟獣王』。
その距離は最初こそ五メートルだった距離も、だんだんと短くなり……、目視で見ると四メートル半、四メートルと少しずつであるが距離を詰めている。それでもヘルナイトは走り、あと二メートルほどで、どちらがその目的を成し遂げるのかわからない状況。
いいや……、状況だけで判断をしたとしてもその未来と言うものは呆気なく変わる。
つまり――この状況で計算をしたとしても、無駄なことなのだ。
そんな無駄なことを無視し、クィンクと『轟獣王』はヘルナイトのマントを掴むことに専念をするように手を伸ばし、ヘルナイトはみんなの声を無視して駆け出す。
クィンク達の手とマントの距離――三メートル半。
ヘルナイト飛び込むまでの距離――一メートル半。
クィンク達の手とマントの距離――二メートル七百センチ。
ヘルナイト飛び込むまでの距離――
その瞬間だった。
今の今までスローモーションの如く進んでいた時間が、長い事文字と言う時間で潰してきたその時間が正常な時間に戻り、そして世界が正常な時を刻んで物語を進める。
正常に、ゲームの進行が進むように――
がしり! と……。
クィンクはヘルナイトのマントをがっしりと掴んだのだ。
そのマントにしわができるくらい、そしてそのマントを死んでも放さない意思が込められたかのように、手の甲に己の体に張り巡らされている管を浮き彫りにさせながら、クィンクは掴んだのだ。
あと一メートルと言う距離で――だ。
「っ! あ!」
誰かがその声を放った。驚愕とまずいという音色が入り混じってしまった音色で、捕まってしまったヘルナイトの光景を見ていた。その驚愕は周りにいるアキ達にも伝染し、それは一番心配の色を浮かべていたハンナにも伝染をしてしまい、当の本人はその光景を見た瞬間絶句と絶望が入り混じった青ざめた顔でその光景を見ていた。
絶望の色に染まったハンナ達とは正反対に――クィンク達は焦りの顔を失うと同時に、安堵と笑みを浮かべて、闘志を再熱する。
それは――価値を確信したものの笑みだ。
「………………………っ! よし……!」
『よくやったぞクィンク! 流石は我が主だ! このような逆境なんぞ朝飯前! いいや! 朝飯など食っておらんから、この場合は朝飯を食う前と言っておいた方がいいのかもしれん! そのくらい我等にとってすれば……、こんな緊急は緊急に入らんっ!』
クィンクの笑みに電線をしたのか、『轟獣王』も笑みを浮かべると同時に、伸ばしていたその手にぐっと力を入れ、指の先から獣の毛で隠していた己が生まれながら持っている武器をジャキリと剥き出しにする。
生まれながら持っている武器――それは爪。
『悪く思うな『12鬼士』! 貴様達に目的がある様に、我々にも目的がある! それはどの奴にもあり、その目的は他社から聞けば小さいものや様々であるが、本人からしてみればその目的と言うものは大きな峠を越える様な試練そのもの! 俺は強くなるために! クィンクはあのお方と言うものの命令を遂行することこそが試練! そう! 生き甲斐なのだ! 生き甲斐などない貴様からしてみれば世迷い事にしか聞こえんかもしれんがな……、我々にはそれしかないんだ! 我々のために――貴様にはここで、いなくなってもらうっ!』
『轟獣王』はその指の先から漆黒とも云える長い爪を片手だけではなく、両手からも出し、その十指の先に力ませるような手の構えをすると、『轟獣王』はその両手を振り上げ、掴まれてしまい逃げることができなくなってしまったヘルナイトに頭上に向けて、その切り裂きを繰り出そうとする。
自分と言う証明をするために、それしか証明の方法がわからないクィンクと『轟獣王』はヘルナイトに向けてその矛先を向ける。
一気に、その十指を振り下ろして!
『――さらばだ! 『12鬼士』よっ!』
「――ヘルナイトさんっっ!!」
『轟獣王』の最期の手向けとして放たれた言葉と同時に、ハンナの悲痛な声が重なるも、その声も『轟獣王』の声によってかき消されてしまい、どの人から聞いてもハンナの声がその耳に入ることはなかった。
だが――一人は聞こえていた。
今絶体絶命の状況に置かれている鬼士には、ハンナの声は聞こえていた。
否、そうではない。ヘルナイトは一度も――そうなっていない。
「何に対してだ? その言葉は」
『――っ!』
ヘルナイトは『轟獣王』に向けて、クィンクに向けて言った。走っていたその足ももう動かしていない。掴まってしまったから動かしてない身体の状態のまま、止まってしまった体のまま、ヘルナイトは振り向かずに一人と一体に向けて言い放った。
自分は一度も絶体絶命に陥っていないと言いながら――
むしろ――自分からその道を辿っているであろうクィンク達に向けて、ヘルナイトは言ったのだ。
「その台詞を吐く時は、もっと状況を見てからにした方がいいんじゃないのか?」
そう言い放つと同時に、ヘルナイトは止めていたその足を動かす。
動かすといっても前に向けて進むの動かすではなく……、走った体制のまま止めていた両の足の先を軸にした回転で、その体を、足を動かす!
ぐるんっっ! と、回れ左をするように、ヘルナイトはクィンクがマントを掴んでいる状態からその行動を繰り出す。
「っ!? う、おぉ……っ!?」
『ぬぅぅおおおおっっっ!? クィンク耐えろっ! 耐えるんだあああぁぁぁぁぁっっ!?』
『轟獣王』の声が聞こえるが、その声に反応などできないクィンク。突然の行動、そして突然の視界の揺らぎ、更には右頬に当たる人為的に作られた突風を感じながら、クィンクは驚きの声を出し、そのままクィンクはされるがままとなってしまう。
今の今までマントを力一杯掴んでいた手なのだ。一瞬の驚きであれば――常人ならばすぐに離してしまい横に吹き飛ばされるであろうが、そうならなかったクィンク。
そこは熟練の賜物と言っても過言ではなかったが、彼はロボットではなく、人間。しかもエルフである。生身の人が急速な回転のようなそれを出したヘルナイトの行動に耐える事などできない。どころか突然出されてそのまま耐えること自体到底できないのが普通であり、クィンク自身もその一人だ。
彼は回転した瞬間こそは耐えることができたが、その他柄を持続できるほどの力を有していない。ゆえにクィンクは掴んでいたその手が勢いと今までの鬼張りの疲れによって次第に緩み始め、マントの繊維が切れるその感覚を手の触角で感じながら――彼は聞いて、感じてしまう。
びりっ! という千切れる音、何かが突き刺さる音、更には呻くような声が聞こえる音と共に、背中に感じる風圧を。
「………………………っ?」
クィンクは驚きながらそれを感じ、握っていたその手を見つめると……、握ったままの状態で彼は掴んでいた。
ヘルナイトのマントの一部を……、マントの繊維がところどころからはみ出ており、その手に収まるサイズに千切られてしまったそれを見て、視界一杯に広がる青い空、そして白い雲に、さんさんと自分と世界を照らす丸い太陽を見上げた。
その太陽は自分には相応しくない明るさを見せ、それを何度見ても自分には相応しくない光だと思ってしまうクィンクだったが、今はそんなことを考えている暇はない。と言うか、そのような思考などすぐに消え去ってしまった。
『轟獣王』の気配がないところを感じた瞬間、クィンクはすぐにはっと息を呑み、そのまますぐに背後を――己の後ろの世界を見降ろす。
バサバサと風圧によってはためく衣服が視界を邪魔するものの、それでも彼は見た。見てしまった……。
自分が置かれている状況を、そして自分が今どうなっているのかを、これから先に向かう未来を見てしまった。
「っっっ!! なっっ!?」
彼は絶句をした。言葉と言う驚愕を放つことですら忘れてしまいそうなほど、彼は言葉を失った一文字を叫ぶ。自分の視界に広がる緑の世界。
いいや……、緑と言うには優しすぎる。相応しくない。
今彼が落ちているところは人が寄り付かない場所。
人を喰らう場所であり、クィンクは今まさにその場所に向かって落ちているのだ。
人を喰う樹海――『飢餓樹海』に向かって、真っ逆さまになって!
「な、なんで……っ!」
クィンクは声を零しながら先ほどまで起きていた状況を整理しようと冷静を保とうとするが、その冷静を取り壊すように、樹海からどんどんと伸びていく枯れ木の手。それが千手観音の手の数の如く樹海から姿を現し、そのまま急速な勢いで落ちていくクィンクに向けて伸びてきている。
それを見た瞬間クィンクは全身に巡る血。体温は急激に下がり、その下がりに反比例するように全身の発汗が活性化していくのを感じた。服にこびりつく汗のせいで気色悪さを感じ、どんどんと抗うことができない落下に身を任せていくその光景を見降ろし……、どんどんと自分に伸びていく枯れ木の触手を見つめながら彼は……死を覚悟した。
食われる。もう終わりだ。
すみません……、旦那様。
そう思うと同時に、彼はぐっと死を覚悟し、まんまとヘルナイトの策に嵌ってしまった己の驕りを後悔しながら彼はきつく目を瞑る。
そして……。
首元に感じる一撃の激痛を感じ――彼は意識を手放した。




