第12話 兄弟
がらんとした部屋の中に彼は居た。
水差しとコップの置かれた小さなテーブル。脱ぎ捨てたシャツや帽子のひっかかった椅子。小箱の乗った小さなキャビネット。そして、その隣に置かれた簡素なベッド。なんの装飾もなく、質も決して良いとは言えないそれらがこの部屋の全てだ。
そしてベッドの脇の床に跪く彼の前には、やつれてはいるが彼とよく似た顔があった。
「Vossio……Vossio!」
手を握って呼びかけてもすでに握り返されることはない。
浅い呼吸の音すら弱弱しく、もう限界が近い事を悟った。
生物は二つの力で生かされている。
ひとつは、心臓を源に体内を巡る血流。
もう一つは、魔力。
魔力がどこで生み出され、どう巡っているのか、どんな役割を果たしているのかは解明されていない。
だがその力は生きる物ならどんなものにでも――獣や虫にすら宿る事から、魔力こそが「命」であるとする説が有力だ。
そして今、彼の目の前で兄の魔力が尽きようとしていた。
「Vossio……」
彼に宿るほんの僅かな肉親の情が、兄を救えと訴える。
視線の先には宝飾品をいれるような小箱。
「兄弟」の中で一番魔力の多い兄が用意したものだ。
内側に貼った布に埋め込まれた五つの小さな石。そこに古代の魔術に使われた文字が刻まれている。
だが、本来そこにあるべき石の数は六つ。
一つは彼のミスで紛失してしまった。
――あいつだ。
クレーブナーの男。
噛み締めた奥歯がギリッと軋んだ。
以前対峙したクレーブナーの表の当主とは段違いに重い打撃。魔術で筋力を強化してようやく凌げるというレベルだった。戦いに集中するあまり、懐の袋から大切な石が零れ落ちた事にすら気がつかなかった。
クレーブナーには「リン」の他に隠し玉があったという事か……
――いや。
彼は思い直した。
ナイフ捌きは間違いなくクレーブナー家のものだ。
だが、時折交える体術はおそらく異国のもの。特に掬い取るような足払いはもっと東の――
クレーブナーが東の体術を?
すでにイーカルは東の国々と繋がっているのか?
その懸念を抱いた時、彼は最後の手段に出る事を決めた。
この情報は確実に「あの方」の元へ届けなければならない。場合によってはこのウォーゼルの国宝だという膨大な魔力の塊より大事なものだ。
「Vossio……Ifa classi na……」
彼は【欠片】の入った小箱に手を伸ばした。
小箱を覆うように張り巡らされた古代魔術の白い結界。それに絡みつく兄の青い魔力。
燐光を放つその魔力にかさついた指先を触れさせ、呪文を唱える。
兄の命を傷つけないように丁寧に。
兄も「あの方」の重要な駒だからだ。
任務の達成には優秀な魔術師が必要だ。
だから決して家族の情ではないと胸の中で言い訳する。
いや、情など存在しないはずなのだ。
二人は人ではないのだから。
それでも、兄の魔力と己の魔力が入れ替わっていくのを見ながら思い出すのは、兄と初めて会った日の事。
誰からも兄弟だとは教えられなかったが、魔力の質ですぐにわかった。大勢いる「兄弟」の中で、父も母も同じくするのはこの兄だけだ――と。
――ゾクッ
一気に吸い出される魔力の量に寒気を覚えた。
結界が安定すれば多少消費量が減るとは言え、こんなに消耗するものとは……
彼は慌てて計算した。
兄より魔力の少ない自分がこの結界を張れるのは三日……結界を維持しつつ動きまわれるという意味なら二日がいい所だ。
だが、逆に言えば二日ある。
二日であの石を奪い返せば良い。
封印さえ成せれば、情報と【欠片】の両方をあの方の元へ届けられるのだから。
彼はコップの水を一気にあおり、呼吸を整えると、椅子の上に放っていたシャツに手を伸ばした。
盛夏に長袖は暑くてたまらない。
だがこれもこの国で動くために必要なものだ。
袖口のボタンを留めて肘の下まで広がったがさついた肌を隠す。
そして帽子を深く被り、鏡の前で最後の確認をした。
鎖骨近くの草色の鱗が見えていないか、尖った耳が見えていないか――
扉に手を伸ばした所で一瞬眩暈に襲われた。
一度にこんなに魔力を消費した事がかつてあっただろうか。
すぐにでも取り返さなければならない。
あの白い封印の石を。
彼は最後に一度だけ、呼吸の落ち着いてきた兄に視線を送って部屋を出た。
* * *
物悲しい恋の歌をドレスを着た男が歌い上げる。
曲の最後を締めくくる弦楽器の高い音が叶わぬ恋に泣く少女の悲鳴のようだ。
一瞬の静寂の後、公園の片隅は割れんばかりの拍手に包まれた。
演奏者の二人の姿は人垣の向こうですでに見えない。
レオナは彼らがアンコールに応えて二曲目を奏ではじめる前にヴィオラを促してベンチを立った。
「凄い人達だったねー」
「人達?」
「歌手の人もザッカスを演奏してた人も、どっちもさ」
王宮に招待された一流の音楽家達による演奏を聞いた事があるが、それに勝るとも劣らない技量だった。
こんな流しのような活動をしなくとも劇場の専属で……いや、宮廷楽団に入る事だってできそうだ。
「え、ええ――そうね」
「どうしたの?」
「レオナは『どっちも』なのね。みんな歌の人ばっかり見てたわ」
「服が目立つからかな? でもほら、きっとあのザッカスの人じゃなきゃ駄目なんだよ。歌の人が凄すぎて……あれくらい巧い人じゃないと伴奏が負けちゃうんじゃない?」
「音楽をやってたの?」
「あはは。そんな訳ないでしょ。オレ、国歌と軍歌しか歌えない不調法な軍人だよ?」
「じゃあ……人を見る目があるのか、全体を見渡す力に長けてるかどっちかかしら」
ヴィオラは少し真面目な顔をした。すっぴんの彼女はとろりとした甘い可愛らしい顔立ちなのに、目だけは暗殺者の時のようだ。
いきなりの変化にレオナは首を傾げた。
「難しい事はよくわからない」
「そうよね。うん。凄い演奏だったって言うだけでいいのよね……きっと、その言葉を聞いたらあの楽器の人も喜ぶわ」
「明日も居たら声掛けてみようかな」
「ええ。それが良いと思う」
「さっきまではこの辺まで人がいっぱい居たのに、ガラガラだね」
「全部さっきの歌に――いえ、演奏を聞きに行ったみたいね」
振り返ると人だかりの方から拍手が聞こえてきた。二曲目が始まるようだ。
ヴィオラの説明によるとこの先にはもう屋台もなくイベントもやっていないという。
屋台で売っている軽食を食べる若者グループや、飲み物片手に語らうカップルがちらほらと座っているが、こちら側は静かなものだ。
「オレは船着場――だっけ? そこで船を見てみたいからこの先に行くつもりだけど、買い物がまだあるならここで別れる?」
「もう十分だから一緒に行くわ」
ヴィオラは腕にかけたバックを持ち上げてみせた。
公園の入り口で見た時にはオレンジが入っていたくらいですかすかだったはずなのに、球形の葉物野菜と根菜類とが溢れるほど入っている。
いつの間に買っていたのだろう……主婦は侮れない。
「重そうだね。持とうか?」
細いもち手が腕に食い込み、赤い跡をつけているのを見て咄嗟にそう言った。だが、ヴィオラには意味がわからないという顔をされてしまった。
「何言ってるの」
母国では男として過ごしていたので、親友でもある貴族のお嬢様の買い物に付き合う時は荷物を持つのが当然だったのだが、そういえばこっちでは自分も一応女の括りにはいるのだった。
「でも、鍛えてるからヴィオラより力あると思うよ」
「じゃあ、疲れたらお願いするわ」
荷物を反対の手に持ち直すのを複雑な心境で見守る。
と、その時――
「見つけた……」
聞き覚えのある声がして、はっと振り返った。
背後に、あいつが居た。
帽子を被った、碧眼の――