第6話 欠片
満月が彼の頭上高くで冷たい光を放っていた。
日暮れから走り続けた心臓はすでに限界を超え、喉の奥は乾ききって張り付き、痛みを訴えていた。
それでも彼は走り――逃げた。
「な、んで、だよ!」
荒い息の狭間から搾り出したのはそんな言葉。
なんでも何も、理由はわかりきっている。
全て自分の不甲斐なさが原因だ。
けれどそれを口に出さざるを得ないほど彼の行き場の無い苛立ちは限界を超えていた。
道の端に積まれていた何が入っているのかわからないズタ袋を蹴り飛ばし、薄汚れた瓶を飛び越える。
逃げて逃げて逃げ続け――ここは王都のどの辺りだ?
道幅が細い上にごちゃごちゃと入り組んでいる。周囲にあるのは住宅のようだが、壁面は土色で彩色を施す余裕がない事が見て取れる。人混みに紛れるために王都の西の繁華街に居たはずだったが、いつの間にか追い立てられて北の外れの貧民街まで来てしまったらしい。
土地勘のない場所だ。舌打ちをして次の角を右に折れる。
人影のない狭い路地はゴミや木箱で溢れ返り、正体のわからない異臭が立ち込めている。
突き当たりの角を曲がって絶望した。
正面には井戸を中心とした小さな広場。そこへ繋がる道はこの路地だけだった。
つまりは、行き止まり。
はっと後を振り返り、来た道を戻ろうとしたがもう遅かった。
「待ってよ」
静かな声が闇の向こうから響いた。
細い路地を塞ぐようにして現れたのは闇に溶け込む黒髪の少年。
まだ十五歳。成人を迎えたばかりのあどけなさを残す顔だが、悟りきった緑の瞳だけは冷酷な光を宿していた。
「……行き止まりだね。もう逃げるのはおしまい?」
こちらが肩で息をしているというのに、少年はまだ余裕の表情だ。
それどころか猫が手負いのネズミをおもちゃにするように、必死に逃げ回る彼を見て楽しんでいた。
彼はもうこれが少年と言葉を交わせる最後の機会だと覚悟を決めて、乾いた喉に唾を送り込んだ。
深く息を吸い、ここまでに何度も繰り返した言葉をまた口にする。
「お前と戦う気はないんだ!」
何度訴えても、彼――アレフの言葉は少年に届かない。
「駄目。だって父様の言いつけだから」
少年は口元だけで笑って見せた。
「だからって、家族で殺し合いなんてできるか!」
血を吐くような叫びも少年の嗜虐心を煽るだけだった。
少年はナイフを掌の上で弄びながら冷酷に告げた。
「家族? そうやって生温いことを言うから、『リン』にふさわしくないって思われちゃうんだよ――兄さん」
弟がナイフを逆手に握り直すのを見て息を詰める。
一歩一歩後ずさった踵が、何かに触れた。
果実を運ぶための木箱か。
一瞬、左右どちらかに逃げなければと思った。
だが――
代わりにアレフはそのまま木箱に腰を下ろし、目を閉じた。
自分が甘い事は十分承知していた。
成人と共にこの国の「影」に生きるものを束ねる「リン」の名を継いで四年。
非情にはなりきれず、身内に制裁すら加えられない甘ったれだ。
死期を間近に感じ始めた父がそんな自分に落胆している事にも気付いていた。
悔しいという気持ちが無いわけではない。
だが、だからと言って――弟を手にかけてまで居座りたい地位でもない。
アレフは深く息を吐き、瞼を上げた。
たった数歩の距離をゆっくりゆっくり詰めて来る弟と視線が交差する。
自分と同じ緑の目。
だが、自分にはこんな顔はできない。
弟は表情ひとつ変えず手を振り上げた。
月の光を受けて刃が鈍い光を放つ。
最期まで弟から目を離さない。
そう誓って、アレフは感情の宿らない弟の目をじっと見つめた。
――ヒュッ
空気を裂く軽い音が耳元でした。
だが、予想した痛みはいつまでたっても訪れない。
ナイフはアレフの首から指一本分の所で止まっていた。
どんなに口元で笑みを作っても感情を宿さなかった弟の目が驚愕に見開かれ、その視線はアレフから体の右側へとゆっくり移動する。
そこに居たのは弟よりももっと小さい――十歳にもならない異国人。
ナイフを握る弟の手首を小さな右手で握り締めている。
刃の先がぷるぷると揺れるのは、弟がそれを振り払おうと力を籠めているからだろう。
なのに、何故振り払えない!?
少年の身長は弟の鳩尾ほどまでしかない。体格差は歴然としている。
その上、その子供は左手をポケットに突っ込んだままなのだ。
「面白そうだね。俺も入れて?」
変声期を迎えていない可愛らしい声がそう言った。
そうかと思えばすぐ、弟の体が視界から消える。
「え――?」
首を回すと、弟は見たことのない体術で投げ飛ばされ、地面に背中を打ちつけた所だった。
そして弟が立ち上がり体勢を立て直すより早く、少年はその背に回し蹴りを決めた。
速い!
アレフも弟も、この国の「影」の頂点と謂われる父から護衛として――そして暗殺者としても戦えるよう子供の頃から訓練させられている。実戦経験こそ無いが訓練では三人の本職を相手に立ち回れるくらいの力を持っているはずだった。
なのに、その弟が小さな子供に翻弄されている。
完全に弄ばれていた。
歯を食いしばり両手にナイフを握って睨みつける弟を、少年は笑みすら浮かべながら素手で殴りつけているのだ。
――そういえば、この子供はいつ現れたんだ?
今更ながらに戦慄した。
弟ばかりを見ていたとはいえ、近づく気配すら感じなかった。
あの見開いた目を考えれば弟も気付いていなかったのだろう。
カシャン――!
金属のぶつかる高い音が響いた。
少年に腹を蹴り上げられて弟がナイフを二本とも取り落としたのだ。
蹲った弟は地面を掴むように指先に力を入れ激しく咳き込んでいる。
「もうおしまい?」
足元に転がってきた方のナイフを拾い上げ、異国人の少年は心底残念そうな声を出した。
「イーカルのクレーブナー家は凄いって聞いたから期待してたんだけど、大した事無いなあ」
慣れた手つきでナイフをくるくると回し、無骨な柄を小さな手で握り締めた。
「まあ、いいか」
アレフは気付いた。
その少年の目に浮かぶ感情は、先程まで弟が浮かべていたのと同じだ。
一歩一歩標的に近づきながら、それをどう『壊そうか』考えている。
弟が顔をあげた。
口を切ったのか内臓をやられたのか、口の端から血が滴っていた。
少年がナイフを振り上げる。
――キンッ!
とっさに弟の前に割り込み、落ちていたナイフで刃を受け止めたアレフを、少年は信じられないものを見るような目で見た。
弟とよく似た緑の目だった。
けれど、それを認識したのも一瞬。
重たい蹴りが腹に入り、更に首の後を硬いもので殴られる。
目の前が真っ暗になった。
子供のはしゃぐ声だけが耳に届いた。
「ユード! 俺これ気に入った! 貰って行って良い?」
別の男の声がどこかから聞こえる。
「ソレはクレーブナーのとこのガキだろ。クレーブナーの爺さんが良いって言えばだな」
「わかった。じゃあとりあえずコレ、持ってこうか」
意識が急激に遠ざかった。
アレフの瞼の裏に最後まで残っていたのは、自分を殴りつけた少年の輝く金色の髪だった。
* * *
いつものレストランに朝食を食べに行くと、そこにはすでにトリカが座っていた。
ちらりと時計を確認する。壁掛け時計の針の示す時間は彼の「いつもの時間」までまだ少しあった。
たまにはそういう日もあるかと思ったが、どうも様子がおかしい。右手の人差し指が落ち着きなくかつかつとテーブルを叩いていた。そして、顔は机の上に広げた本に向けられているのだが、視線は中身のだいぶ減ったカップに注がれている。
「おはようございます」
レオナが隣に立つと、はじかれたようにこちらを見た。
「お、おはよう、ございます」
笑っているが、笑っていない。
どこか強張っていた。
「今日もご一緒していいですか?」
読書中なら邪魔しては悪いかと思いつつ断りをいれると、トリカは頷いて本を端に寄せた。
湯気の立たなくなった珈琲を見る限りここに長いこと居たようだったが、まだ朝食は口にしていないらしかった。
レオナが固焼きパンと腸詰のセットを頼むと、トリカも「同じものを」と言った。
レオナの故郷では腸詰はごく一般的に食されるもので子供の頃から慣れ親しんでいたが、この腸詰は食べなれたものとだいぶ違った。使われている臭み消しの香草が違う事はすぐにわかったが、それだけではない。おそらく肉の種類も違う。レオナの記憶にない味だ。これが何の肉かはきっとトリカに聞けばわかるだろう――と、質問をする為に顔をあげた。
「トリカさん?」
腸詰にナイフをあてた所でトリカの手が止まっている。
「ああ……失礼。少し考え事をしていました」
トリカは脇に置かれた本に目をやった。
飾り文字で「ウォーゼル王家と魔剣」というタイトルが書かれていた。
このタイトルから連想されるのは、初日に連れて行かれた公園の銅像だ。
善政を誓う文章が刻まれた像。その王が捧げ持つ剣が魔剣だとアレフが言っていた。
「レオナさんが拾った石、ありましたよね。あれは何を封印したかったんだろうと考えていたんです」
難しい顔でトリカが話し出した。
「【萌花】――という名をご存知ですか」
「ええと……聖王ラズ・ゲットルが持っていた剣の名前、でしたっけ」
「それがどんな剣だかは?」
「魔剣と聞きました。それ以上の事はよくわからないです」
「【萌花】は【千草】の欠片から作られました。【千草】とはアスリア=ソメイク国初代国王シーリアの剣の名です」
剣の名までは知らないが、その王の名は知っていた。
四百年前の王だ。そして歴史上の大きな事件の至る所にその名を残し――今もその国のどこかで生きていると言われている。
普通に考えれば数百年も生きる人間など居ない。それでもそれが真実とされるのは、彼の国の王家が神の血を引く「聖王家」であるからに他ならない。
「【千草】は神の創りたもうた、正真正銘の聖剣です。
聖戦の際、当時の持ち主が魔神に斬りかかり折れた破片と破魔石と呼ばれる魔力を帯びた石を練成して作った剣が、【萌花】。
【萌花】は聖剣としての力と魔力とが複雑に絡み合い――魔剣と呼ばれるようになりました」
「魔剣とは、そもそも何ですか?」
「定義は『魔力を帯びた剣』です。通常はその魔力によって刃が極端に硬く鋭くなるとか、魔術の炎を刀身に纏わせることができるとかそういった類の物です。
【萌花】は持ち主の筋力を限界まで上げる力を持つ上、剣としても鋭い切れ味を持ち、触れずともその風圧だけで相手を斬り殺したと伝えられています」
それは正に「魔剣」だ。
そんな剣を奮うものが前線に居たなら、強大な軍事力を誇るイーカル国軍を撤退せしめたというのも納得できる。
「ただ――【萌花】の場合はその魔力が膨大すぎた為に、持ち主を蝕むのです。
長い歴史の中で使いこなせたのは聖王ラズ・ゲットルだけ。
それでもそこに至るまでに彼の精神は何度も魔剣の力に負け、敵味方なく切り殺す狂戦士と化したと伝えられています」
「敵味方無く?」
「持ち主の魔力を吸い尽くすかそこにある全ての生命を吸い尽くすまで、剣が満足しないのだそうです」
呪いのようなものだとトリカは語った。
「現在【萌花】はウォーゼル王国の秘宝として王城深くに封印されています。
けれど、ウォーゼル王国としては【萌花】の力を人々に知らしめる事で人民に安寧を与え、そして他国を牽制する必要があるんです」
「もしかして、明後日の聖王ラズ・ゲットルの式典で披露されるっていう国宝がそれですか?」
「そう。ただ【萌花】本体を持ち出すのは危険すぎるので、式典には【萌花の欠片】が公開されます。
イーカル王国との戦いの中で欠けた切っ先です。小指ほどの大きさもない小さなものですが、それでも素手では触れないほどの魔力を有しています。
素手で触れば、良くて即死――最悪で、魔力が暴走して周囲の全てを破壊すると言われています」
小さな欠片ですらその威力。
牽制という目的は十分果たせそうだ。
しかし衆人の目に晒すのに安全性は確保されるのだろうか。
式典の最中にその魔力の暴走が起こったりしたらかなわないと思うのだが。
「【萌花】は無理でも【欠片】なら魔術を施せば触れることができます。
例えば――レオナさんの拾った石に刻まれていた封印の魔術のようなものがあれば」
ようやくキーワードが繋がった。
はっとして顔をあげると、トリカはレオナの予感を裏付ける言葉を口にした。
「三日前。レオナさんがあの封印の石を拾った日の深夜に、その【欠片】が盗まれたそうです」