第2話 告白
「レオナぁ?」
それは深夜。今日の終わりと明日の始まりを告げる鐘のなる頃。広い宮殿の中央に位置する中庭の、その隅のベンチの側だった。
不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこには寝間着姿の――当時はまだただの王子だった少年が居た。
「お前、そんな所で何をしているんだ」
訝しげに近づきながら、彼はガウンの前を合わせ直した。ようやく暖かくなってきたとは言え、夜はまだ寒い。
「夜番のやつらを見回ってたら気持ちの良い風が吹いてきたからさ。
ダールこそ、こんな時間に何やってんだよ」
「なんとなく目を覚まして、窓を開けたら良い風がな」
「なんだ同じか。──ほら、これ見ろよ」
レオナは笑いながら背後の花壇を指さす。
そこには、小さな小さな双葉。
「お、芽が出ているじゃないか」
王子はガウンの裾が汚れるのもかまわず、その場に座り込んだ。
「こんな葉っぱなのか。小さいな! おい、レオナ。どんな花が咲くと思う?」
「どんなって、白い花だろ?」
「わかってる。それはわかってるよ。
そうじゃなくって、大きい花とか小さい花とか、天辺に一つだけ咲くだとか、鈴なりに咲くだとかあるだろう!?」
「さあなー。ファズは白い花としか言ってなかったし」
「ああ、まったく浪漫が伝わらない奴だ!」
王子はひとしきり頭をかきむしった後、諦めたようだった。溜息をつきながら話題を変える。
「……もしかしたら、さっきの風。あれは『クラン・エ・レ』だったのかもな」
「クラン・エ・レ?」
レオナは初めて聞く言葉だった。
「直訳すると『灰色の風』だが、『春告風』とでも訳すのかな。遠い東の国の春を呼ぶ風だ」
「──また聖アスリアか」
レオナの言葉にダールは嬉しそうに頷いた。
アスリア=ソメイク聖王国。それはダールの憧れの地。
古の神の血を引くという聖王家の治めるその国は、この大陸の魔術の中心地で、誰もが知る数々のお伽噺の舞台である。また自由と平和の国としても知られている。
ダールの憧れが果たして物語の中の国への夢なのか、それとも暴君に支配されるこの荒れ果てた国の王子としての理想なのか、レオナには判別できなかった。あるいは、その両方なのかもしれない。
故郷を出るまではお伽話でしか聞いたことの無い国だったが、ダールの話を聞くうちにレオナもいつしか興味を抱くようになっていた。いや、興味なんていう物ではない。そこはレオナにとっても憧れの地となっていた。
そして、その象徴が、この花。
しかしいくらなんでも喜びすぎだろう。レオナは、ダールが小さな芽をつついて無邪気にはしゃぐのを少し呆れながら見ていた。
「お前――なんていうか、すごく嬉しそうだよな」
「それはそうだろう!
なぁ、ファズにも早く見せてやりたいな。ファズを見なかったか?」
「ファズ? 部屋で寝てるんじゃないか?」
「ここに来る前に覗いたが留守だった」
「ああ……じゃあ」
レオナはよく軍人達がするように、唇の片側だけを歪めて笑って見せた。
「ステア嬢の寝所?」
その言葉にダールも同じ笑みを返す。
「そういえば、今回は随分熱心だったな」
「あいつの女好きは、もう病気」
二人は顔を見合わせて笑った。
ファズが夜中自室に居ないのは珍しい事では無い。どこへ行くといえば、当然の様に女性の部屋だった。決まった女性が居る訳では無い。耳に入る噂では、常に幾人もが周りに居るようであった。
なにせ、外見の良さと口の上手さだけなら折り紙付きの男である。
「ところで、なあ」
ダールは不意に視線を逸らした。
「そんなに良いものかのか?」
「ステア嬢?」
「いや」
「じゃあなんだよ」
「女と寝るというヤツ」
「は?」
思わず間抜けな返事をしてしまってから、数秒間考えた。
「あー……なんだ。女がどうしたって?」
荒くれの軍人達に囲まれているレオナは卑猥な話なら慣れ切っていた。普段から下品な言葉が飛び交っているし、酒が入れば聞くに堪えない武勇伝を聞かされる。レオナの事を男と信じる連中に娼館まで引きずっていかれた事も一度や二度じゃない。嫌がるから面白がって連れて行かれるのだと悟るまで、何度お姉さま方に『ご案内』されそうになった事か。
だが、目の前で耳を真っ赤に染めている少年は、ソレとは違う。
知識が無いはずはない。あの軍人達との付き合いはレオナよりも長いのだから。この照れようは初めての猥談だとかそんな可愛らしい物ではないはずだ。
ではどうして、こんな顔をしてそんな事を聞くのか。
返事に迷ってダールの様子を伺っていると、赤い顔を更に赤くして、少年は目を逸らした。
「……俺は、女を抱くという事を、したことがない」
それは彼には似合わない小さな声だった。
「え、え、えぇっ!?」
突然の告白にレオナは眼を白黒させながら、今が夜中だと言う事も忘れて大声を上げる。続けて暴言を吐きそうになる口をダールが塞いだ。
「ふがふがふがふがふが!」
「落ち着け。少し落ち着くんだ」
「だって」
ようやく開放されて、レオナは息を整えた。そして今度は少しだけ声を潜める。
「だって、お前モテるだろ!?」
「言い寄られる事が無いわけではないな」
「この間だってちょうどそこの廊下んとこで――ええと、なんつったっけ、あのいつも薔薇みたいなドレス着てるピンクの姫君。あの人が待ち伏せしてたじゃないか。あん時は気を使って席外したんだぞ。いや、あの人の化粧塗ったくった目が怖かったってのもあるけどさ」
ダールは苦笑した。
少しでも魅力的に見せたいと化粧を施す女心はわからなくもないが、あの姫君は程度を超えていた。確かに印象には残ったが……
「あれは……夢に出るな」
悪夢の方向で。
「あの姫君は無しにしたって、ほら。お前に無理矢理引きずりだされた夜会の日。オレとかファズとか野郎ばかりと話してて、たまには女性の相手もしろとか小言言われてただろ。それ聞いてたマダムが言ってたぞ。『そういう仕草が少年らしくて可愛いのよ』とかさ。貴族のお嬢さん達だって『お前のはにかんだ表情がたまらない』とか言ってたし。はにかんだ表情なんていつ浮かべてたのか知らないけどさ。大方、オレ達に対する嫌がらせでも思いついた時の顔を勘違いなさったんだろうとあの時は思ったね」
「お前、ぼーっとした顔の割に腹の中はたいがい失礼な奴だよな」
元々目つきが悪いので分りにくいが、ダールの眉が寄ってきている。少し苛立った様子だ。
「どっちにしても、レオナが言ってるのはモテるとは違う」
「違わないだろ。嫁にしてくれって言って来てるんだから。
だからお前が女に手出した事ないっていう意味がわからない。
だいたい、お前は不条理に人気があんだよな。チビで細っこい癖にそれなり以上の剣の使い手で、認めたか無いけど頭も良くて、どうしようも無い奴の割に軍人達からの信頼も厚くて。その上王子様だろ」
レオナが呼吸をおいたその時に、ダールは低い声で言った。
「王子様だから、だろ?」
苛立ちを押さえた静かな言葉には、レオナを落ち着かせるに十分な強さがあった。
「あ──」
そうだ。世継ぎである以上、どうでも良い女なんかと子供を作ってはならない。
否、子供なんて出来なくても良い。手を出したというその事実さえあれば、どこの馬の骨とも判らぬ赤ん坊を連れて「王子の子だ」と言い張る事が出来る。
「……失礼致しました」
レオナは略式ながら臣下の礼をとった。
ちろりと上目遣いで覗えば、眉根を寄せた顔がゆるりと崩れる。
王子は唇に一瞬ニヤリと笑みをのせ、それからわざと大仰な仕草で腕を組んだ。
そして返事はただ一言。「構わん」と。
――これだから、敵わない。
レオナは胸の内で呟いた。
時折見せるこんな一面が、本当にもう、敵わない。
政務もそこそこにふらふらしている癖に。子供のような悪戯ばかりしかけてくる癖に。酒を飲んでは荒くれ達と肩組んで歌ったりしている癖に。
偉そうなのに少しも横柄さを感じさせず、むしろ更に頭を下げたくなるような、まさに生まれながらの王族という威圧感。
もう一度深く礼をしてレオナが元の姿勢に戻ると、王子はまた捻くれた少年の顔に戻って口を開いた。
「俺がモテるんじゃないんだ。女が擦り寄ってくるのは俺が次期国王だからだ」
唇を尖らせて言うその言葉は、確かに事実ではある。
ダールは、玉座からはやや遠い第三王子として生を受けた。兄達とは随分年が離れていて、その時すでに第一王子は成人目前。そして才溢れる兄王子の立場は磐石だった。
兄とは良好な関係を築いていたが、周囲からは殆ど見向きもされない。それが幼少期のダールだった。
だが、それから数年。第一王子は視察に出向いた先で間者に討たれ、あっけなく命を落とした。彼には婚礼を翌月に控えた婚約者があったものの他に妻子はなく、次期国王の座は宙に浮いてしまった。
本来なら王位継承権は第二王子である次兄に移るはずだったが、その兄は生きているのが不思議と言われるほど病弱。それ故、国王は第一王子の葬儀と同時にダールを次の王位継承者に指名したのだ。
その日を境に突然周囲に人が絶えなくなった。
権力を握ろうとする貴族。取り入ろうとする軍人。今まで挨拶すら碌にしなかったような連中が、集ってきてはおべっかを使い、突然ちやほやし出した事がダールは気に入らなかった。優秀な教育者のおかげで、上辺を取り繕いあしらう事は出来たが、そのたびに頭の芯は冷え切り、擦り寄る者達を汚物のように見下してきた。
権力を好むものを嫌う性質は恋愛観にも大きな影響を及ぼした。
王妃の座を狙う女達ばかりだけではない。長じれば、貴族達からの贈り物のつもりだろう高級娼婦が送られてくる事も珍しくなくなった。だが、その頃にはもう捻くれきっていたダールは「あんな奴らが宛がう女など見ているだけで気分が悪くなる」と、すぐに追い返した。
「だから女を抱いた事はないし、抱きたいと思った事もない。
ただ興味がない――とは、言わない」
青少年としての興味。それと同時に、幼馴染であり親友でもあるファズが、そこまでのめり込むものに対する興味。そう。興味はずっとあった。
何をどうするかは軍人達の下世話な会話で知っている。だが、その行為に付随する感情や精神論はわからない。
一方で、そんな事で思い悩むのは子供じみているとも思う。誰もが敢えて語らないという事は、誰もが共通認識を持っているからではないか。
だから気恥ずかしくて今まで誰にも聞けなかったのだ。
「で、どうなんだ」
最初の質問に戻った。
レオナは小首を傾げ、考える。
「どう……と言われても、オレも女抱いた事なんて無いからわからないな」
本当だ。なぜなら、レオナは女なのだから。
もし問いかけが「性交渉とはどんなものか」であれば返答は変わったのかもしれない。だが、それでも「男」としての感想を求められたら困るので、やはり答えは「わからない」だ。
そうとは知らないダールは泡を食って捲くし立てた。
「あぁ!? お前ゲイか!? そういや、お前やたら男に言い寄られてるじゃないか! 第六連隊長だって、随分長い間お前を追いかけてたよな!? それともあの、いつも妙な眼で見ている軍医! 何かっていうとお前の身体を触りたがるヤツだよ!
それでなくても女だって選り取りみどりじゃないのか!? そうだ! ルティアはどうした、ルティアは!」
一息で叫び、さすがに息が切れたのか肩で息をするダール。その隙に、やっと言葉を割り込ませる。
「ルティアは、ただの友達だってば」
「友達って、彼女は──」
更に何か言おうとしたダールの動きが突然止まる。ダールは何かを見つめて凍り付いていた。
視線を辿ると……
「ああ」
レオナの夜着の袖口から顔を覗かせているのは、腕輪。それはペンダントの引きちぎられた鎖を、無理矢理繋ぎ合わせた──
「……すまなかった」
ダールはしどろもどろになりながら詫びの言葉を口にする。
「お前がまだ引きずっていると思わなくて。その……昔の恋人の事……」
それはレオナの亡くなった恋人の形見。腕輪にする長さしか残らなかったチェーンと、二つの名を刻んだペンダントトップ。
レオナがそれに誓ったのは、愛ばかりではない。
「正直、さっさと外したいんだけどね」
それでも、今はまだ外せない。
そう。この国から戦が無くなって、あいつの墓前に報告するその日まで。
眼前の友人との間ではもう何度目になるか判らないその台詞。
「レオ──」
名前を呼ぼうとして戸惑っている様子のダールに、レオナは自分に出来る最高の笑顔を向けた。
「大丈夫。ダールなら、きっと」
相手の肩を叩くのは、信頼の証。
「だろ?」
唇の片端を歪めて笑うのは、軍隊式。
「ありが……とう……」
ダールの頬を一筋の涙が伝う。
「おいおい、何泣いてんだよ」
ガキかお前は、などと軽口を叩きながら指で涙を拭ってやる。二つ年下の友人は慌てて頬をこすり、そっぽを向いた。
そんな仕草が子供の様で、ついついからかいたくなった。
「泣き虫の王子様なんて情けないなあ」
ダールはレオナをにらみつけた。目線は殆ど変わらない。出会った頃には顎の辺りだったのに。
十八歳にしてようやく背が伸び始めた少年はすぐにレオナの背を追い抜いていくんだろう。
知らず笑みが零れた。
「何?」
不機嫌そうにダールが問う。
「いや、ダールは小さいなと思って」
こんな台詞を言えるのはいったいいつまでだろう。
「いいんだよ、俺は。成長期なんだから。レオナこそもう身長止まってるじゃないか」
──オレは女だからいいんだよ、とはさすがに言えなかったが、代わりにダールの頭をポンポンと軽く叩く。
ガキ扱いすんなよなんて言いながら睨むその姿は……。
「弟、が、欲しかったんだよね」
「レオナを兄上と呼ぶのだけは勘弁」
「オレだってダールみたいな弟は嫌だよ」
二人は、顔を見合わせて笑った。
そして再びあの小さな芽に顔を向ける。
風が吹き抜け、葉を少しだけ揺らす。
「芽……出たな」
もう一度、確かめるようにダールが言う。
レオナは黙って頷いた。
それを眼の端で捉え、ダールは噛み締めるように呟いた。
「もう少し……」
「……もう少し……」
二人の声は、風に流されていく。
張り詰めた、だがそれでいてどこか心地よい静寂を破ったのは聞き慣れた声だった。
「殿下! レオナ!」
振り返ると、やはりそれはもう一人の友人。彼らと一緒にあの花の種を埋めた男──ファズだった。
「どうなさったんですか? こんな夜中に」
石畳をつたい音も無く近づいてきた彼は、二人の見ていたものに気が付いて大きな声を出す。
「あ! 芽が出てる!」
嬉しそうに覗き込んだりつついてみたりする姿は先程までのダールと変わらない。この男は確か、レオナより三つは年上のはずだ。二十二歳か──とてもそうは見えない。
男という生き物は幾つになっても子供なのだ、とレオナは頭痛を覚えながら、二人に気が付かれないようそっと溜息をついた。
「……おい、ファズ」
「なんでしょう?」
名前を呼ぶと、ファズは満面の笑みで振り返った。
「お前、ステア嬢の所に行ってたんじゃないのか?」
「ああ。失礼して来てしまいました」
恋人の存在などすっかり忘れていたような口調で応え、楽しそうに続けた。
「気持ちの良い風が吹いていたもので──」