第3話 図書館
「あ、あれがそうかな」
走り書きのメモの場所にあったのは、神殿のような立派な建物だった。
片手に本を抱えた多くの人が出入りしている。
正直最初は「図書館なんて学者以外誰が行くんだ」と思ったが、識字率の高い国だけあって盛況のようだ。
「A eroua Leona」
「うわっ! トリカさん!」
突然声を掛けてきたのはあのちょっと癖のある異国人だった。
「観光ですか」
「ええ。トリカさんは」
「次の用事までの時間潰しに来ました。
図書館へいらっしゃるならご案内しますよ」
そう言ってレオナの返事も聞かずに歩き出した。
断る理由もないのでその後について石造りの建物に入る。
入ってすぐの所に受付があったので、そこで名前を記入して利用料金を払った。料金は拳大のパンをひとつ買えるほどだろうか。母国に比べて紙が安価で手に入る事や国営という理由もあるのかもしれないがとても良心的だ。
初めて来たと言うと、簡単な利用案内を受けた。自由に出入りできるのはメインホールと別棟の一階から三階まで。四階以上を利用するには特別なガイダンスと許可が必要になる。全ての図書は無断で建物の外に持ち出す事はできない。
持ち出しては「いけない」ではなく「できない」だ。
なんと、図書は一冊残らず魔術によって管理されているのだ。
勝手に持ち出そうとしても扉のところで結界に阻まれて出る事ができないので、必要な本は魔術師による貸し出し処理を受けて下さいといわれた。
「この国はあちらこちらで魔術が使われているんですね」
先に受付を終えたトリカに話しかけた。彼は一年間有効の利用券を持っているのでカードを見せるだけで済むという。
「結界関係の魔術に関してはこの国が一番ですね」
「そういうのって国によって違うんですか?」
「歴史的背景や民族的な事情もありますが、例えばローラクは攻撃系の魔術が得意で、ソメイクはもっと生活に密着した魔術を使う者が多いといった傾向があります。私みたいな魔術の使えない人間が見ていて面白いのは、やはり派手な北方系の魔術師でしょうかね」
そんな話をしながら、ロビーを抜け、巨大なホールに入った。
壁一面が書架で、それが吹き抜けの天井まで続いている。
間に設置されている回廊の数からすると四階分はあるだろうか。
レオナはこんな数の本を見るのは初めてだった。
だが、これもほんの一部であるらしい。
貴重な本や一般人があまり手に取らない本は別棟にあるという。
「何か見たい本はありますか?」
トリカはそう聞いてくれるが、そもそも文字を読む事が得意でないレオナに興味のある本などない。
子供用の絵本なら読めるだろうが、ここにあるのかわからないし、それを口にするのはレオナのささやかな矜持が許さない。敢えて言うならイーカルについて書かれた本か――
「……あ、紋章」
「はい?」
「紋章の載っている本ってありませんか」
「ふむ……別棟の二階の奥ですね」
案内板へ目をやる事もなく歩き出すトリカ。
商談に来た旅行者だと言っていたが、ここへは相当通っているようだ。
歴史を感じる階段を登り、会議室程度の広さの部屋の扉をあけて、突き当たりの棚に至るまで迷わずまっすぐに進んだ。
「紋章の本と言っても色々ありますけど……」
二人の前に聳える、天井まで届く程の大きな棚には『紋章』という単語を含む背表紙がずらりと並んでいる。
トリカはその全てを読んでいるのだろうか。ページを開くこともなくその中から数冊を抜き取って近くの机に並べていく。
「紋章全般について広く書かれている本ならこれ、構成要素に関する研究ならこれ、歴史的変遷を見るならこれ――」
「紋章から家名を調べられるものってありませんか」
「家名を調べるならこれかこれですね。こちらはウォーゼル貴族の紋章を網羅しています。こちらは他国も含めて大陸の主だった紋章を扱った本です」
ウォーゼルの方も分厚いが、異国の紋章も載っているという本は更に分厚かった。その上、上巻中巻下巻と三冊セットだ。
机に積むとわずかに埃が舞った。
本を読むという行為が得意でないレオナは内心冷や汗を流しながら礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「どうして紋章の本かと聞いても良いですか?」
「実は落し物を拾ったんです」
ポケットに入れた指先に硬く冷たい感触がある。
もしかしたらトリカなら本をひかずともここに書かれた紋章を知っているかもしれない。
だが、レオナがそれを取り出す前に、トリカの後に誰かが立った。
「旦那様。お時間です」
やや低い壮年の男性の声がした。
トリカはそちらをちらりと見て肩をすくめた。
「残念。
今日はこれから会議があるんです。僕はここで失礼しますね」
また会いましょうとだけ言って、トリカは使用人らしい男性と共に去って行った。
誰もいなくなったその部屋で、レオナはポケットから手を引き抜いた。
掌の中にあった物を机の上にころんと転がす。
白く濁った丸いボタン――おそらく半貴石だろう。その表面に簡素化した鳥のような模様が刻まれている。裏には大陸共通語ではない文字で何か書かれているようだ。
「うん……? ボタンじゃないのかな」
形と大きさからボタンだと判断したのだが、糸を通す穴が無い。アクセサリーか何かだったのか。
なんにしても、紋章を彫るとなればやはりそれなりに貴重なものなのだろう。出来れば持ち主に届けてやりたかった。
まずはウォーゼル貴族の紋章の本をめくる。
ウォーゼルの紋章は必ず盾の形になっているのが特徴のようだ。イーカル王国の物とよく似ていて全体に写実的だ。だからこの石に刻まれているような簡素化されたものは少ない。
略式の紋章もストライプやチェックなどのパターンと塗り分けが多くやはり鳥の絵はない。
ざっと眺め終わって、レオナは積み上げられた本の中から別のものに手を伸ばす。
三巻セットのあの本のうちの一冊だ。分冊なのにとても分厚くて持ち上げるのも手間取った。
最初に手にとったのは下巻だった。本棚から出す時に、上巻が下に、下巻が上になったらしい。
文字を読みたいわけではないのでさして気にする事なく表紙をめくる。
目次によると、この巻には大陸北部から中央部の国々の紋章を集めてあるようだ。レオナの知っている国ではイーカル王国やサザニア帝国の章もある。
本来の目的とは異なるが、レオナはまず母国の章を開いた。
その章の最初にあるのは見慣れたイーカル王家の紋章。この緑地に黄色い聖獣の図案が国旗でもあり、王家の紋章の基本となる。それに茨と王冠を加えたのが前王の紋章。それが代々の王の紋章と並んでそのページの一番下に描かれていた。
だが、絵に添えられた解説には「王」ではなく「第一王子」とある。
どうやら二十年は昔の本であるらしい。
ぱらぱらと捲ると他にも見知った紋章がいくつか出てくる。
レオナのテート家の物もあった。
武人の家系だけあって、テート家の紋章は豊穣を表す黄色地に二本の両手剣がクロスした物がメインに描かれている。そこに個人を象徴する図柄を足していって個人の紋章とするのだ。
この本で現当主として書かれている名前は先々代。だからここには載っていないが、レオナの慕う先代はクロスした両手剣に白い鈴蘭と異国風の青い花、更に将軍位を表すジャッカルの描かれた紋章を使っていた。ちなみにレオナはクロスした両手剣に西方の剣と故郷の特産品であるヴィガの葉を加えた物だ。
他にもファズやアレフのクレーブナー家、親友ルティアのブランド家も形は違えど剣が描かれている。このイーカル王国の章には知った名前がいくつもでてくるので思わず時間をかけて読み込んでしまった。
「違う違う。今はこの石っと」
手に握ったままだった石に目をやった。
下巻を脇に置いて中巻を手に取る。こちらは大陸南部の国々を中心とした巻だ。これまでとは色彩の異なる紋章が並んでいるが、やはり石に刻まれたような紋章は見当たらない。
大陸東岸部の紋章について書かれた上巻に至って気がついた。
この石のような抽象的な図案の紋章は大陸東岸部や大陸から少し離れた島に多いようだ。
「でも、島まで行くと完全に記号なんだよな」
島に住む人々の紋は明らかに違うと断言できた。なぜなら殆どが丸や棒の組み合わせで色彩も無く、元が何を表しているのかわからないほど簡略化されているからだ。
希望が持てるのは沿岸部の国々だが――残すページはどんどん少なくなり、そろそろ諦めようかと思い始めた頃だ。
ページをめくる手が止まった。
例の石とは違う、花の紋章だ。
それなのにそこに目を止めてしまったのは、他のページとつくりが違ったから。
一ページに一つの一族が紹介されている事は変わらない。
だが、前後のページは一族をあらわす紋章の下に個人を表す紋章がいくつも並んでいるのに対し、このページだけは大きめに描かれた紋章がひとつしか載っていないのだ。
「プフロップ……?」
そこに記された家名は聞き覚えのあるものだった。
「これ、もしかしてトリカさんの?」
この本を書棚から出してくれたあの男がトリカ・プフロップと名乗っていた。
そして目の前に描かれた睡蓮に似た花の紋章の下に書かれた家名もプフロップ。
数名の歴代当主らしき人物の名前の後に、「個人の紋章はなく家族全員がこの紋章を共有する」と注意書きが書かれている。
数十年前の本だからか、それともトリカが傍系の出だからなのかはわからないがこの本にトリカの名前はない。だが彼がこの家の者であることは間違いなさそうだ。
本によると、プフロップ家は別の大陸から海を渡ってきた移民達の長。
貿易によって財を成し、アスリア=ソメイク国随一の港町ミダスを中心に様々な事業でその手腕を発揮した。そして、この本の書かれた時代の当主は同国で通商を担当する大臣を拝命している。
貿易をするなら外国人から異国語を習うチャンスもあっただろう。大臣を務める者がいるような家ならば当然子供の教育にも力を入れるだろうし、家には自由に読める本も多くあると想像できる。
この一族の来歴は、異国風の顔立ちを持つやたら博識な経営者――そんな彼の印象に相応しい。
レオナは納得してその本を閉じた。