第2話 紋章
「いいか。あんたの名前は『レオナ』だ。苗字は無い。それで通せ」
ホテルについてすぐ、アレフは真剣な目でそう言った。
レオナ・ファル・テートの名が敵国の軍人として有名すぎるから本名を言うなというのは良くわかった。
だが、苗字が無いで済むものだろうか。
「苗字を持たない民族はあちらこちらに居るからな。商業都市のこの町では……珍しくないとまでは言わないが、居ない事もない。
もしどうしても苗字が必要な時は、そうだな。そういう奴らは苗字の変わりに親父の名前や生まれた町の名前を使っているようだ。――親父の名前は?」
「オーレック」
「駄目だな。イーカルっぽい。村の名前は」
「ブリアーネク」
「ブリアーネク…ブリアーネク……」
口の中で数度呟いて納得したらしい。
「サザニアにもありそうな響きだな。それでいこう」
「サザニア人のフリするの?」
レオナは露骨に眉を寄せた。敵国人の真似などしたくない。
だが、アレフは諦めろと言ってレオナの頭をくしゃりと撫でた。
「イーカル人よりは心証がマシだからな」
「いいか。絶対イーカル人だってバレるなよ。――生きてイーカルに帰りたければな」
……なんて会話をしたのがほんの一時間前。
「ああ。貴女はイーカル人ですか」
――速攻でバレてんだけど!?
目を白黒させるレオナの前で中年の紳士が微笑んだ。
ここは早めの昼食を取るために訪れたホテルのレストラン。
アレフと別れた後、フロントで紙を用意して貰う為に部屋を出て、そのついでに寄ったのだ。手紙を書く前に何かつまみながらダウィのメモを熟読して自分なりに手紙の内容を纏め上げようと考えていたのもある。
これは苦手な書類仕事を片付けるのに脳が糖分を欲するレオナのいつもの習慣だった。
勿論、イーカル人とばれないようにアレフに倣った国籍のわかり辛い服装をしているし、ウェイトレスとの会話も口を開かずメニューを指差す事で回避した。
朝食には遅く昼食には早いという微妙な時間だったせいか、店内にはレオナ一人だけ。最初はすこし緊張もしていたが、落ち着いた雰囲気のお陰ですぐにほぐれ、食事を待つ間にダウィのメモに改めて目を通す事ができた。
ダウィの書いてくれた手紙の文例は完璧だった。その上イーカル語ではなく大陸共通語で書かれている。このまま写せば用を成せそうだ。
感謝の言葉を胸の中で呟いて、ウェイトレスの運んできた軽食セットに手を伸ばす。
イーカルとはだいぶ違う味付けのサンドイッチに、王兄の離宮でもいただいた事のある変わった味のお茶。どちらも馴染みの薄いものだったが異国情緒があって面白い。これなら食後のお楽しみのプチケーキも期待が持てる。レオナは笑みを隠す事なくほくほくとデザートフォークに手を伸ばした。
そこへ現れたのが件の中年紳士。
「こんな時間に食事をしている人がいるとは珍しい」
そう言って嬉しそうにレオナの隣の席に座った。店内はガラガラだと言うのに。
人懐っこそうな異国人だった。まだ民族の見分け方などは掴みきれていないが、イーカル人ともウォーゼル人とも違う。
まず、目が大きくて丸い。いや、鼻や口といった顔のパーツが全て大きい。瞬きをすれば音がするんじゃないかと言うほど睫が長く、癖のある髪も太くてコシがありそうだ。髪の毛と目はどちらも黒く、肌の色は褐色とまではいかないがよく日に焼けたような色をしていた。
年は四十を超えたくらいだろうか。東国の人はイーカル人より若く見えると聞くからもっと上かもしれない。
身なりがよく、纏う空気も知的な印象を与える紳士だった。
「私はここに宿泊しているトリカ・プフロップと言うものです。
いつもこの時間にここで食事をしているのですが、普段は誰にも会わないので思わず声を掛けてしまいました」
「はあ……」
やや引き気味のレオナの反応を気にするでもなく、紳士は少し母音を強調するような発音の共通語でぐいぐいと距離を詰めてくる。
「お名前をうかがっても?」
「……レオナ、です」
「姓は……」
「ありません」
「ほう」
レオナの姿を上から下までまじまじと見つめた。
「ご出身はどちらですか」
「ブリアーネク」
「ああ。貴女はイーカル人ですか」
ここで冒頭に戻る。
男は嬉しそうに身を乗り出した。
「イーカル人に会うのは久しぶりです。ええと……A eroua?」
いかにも異国人という顔立ちのふっくらした唇から流れ出る、流暢なイーカル語の挨拶。
「な、な――!?」
レオナは言葉を失った。
「E wone nu'suwed. Tiche rueller mui?」
紳士をまじまじと見つめる様を肯定と取ったのか、ちらりとレオナのテーブルに目を走らせ、向かいの椅子を指差した。
「Tiche gloffen ammer?」
やや強引な態度で向かいの椅子に腰を下ろした。
にこにこと笑いながらこちらを見ている。
とりあえず敵意はないらしい。
レオナは手に持ったままだったティーカップをテーブルに戻し、口を開いた。
「共通語でお願いします」
誰が聞いているかわからない。イーカル語は避けるべきだろうと思ったのだ。
そしてさっと店内に視線を走らせてから小さな声で問うた。
「……何故、イーカル人だと?」
「ブリアーネクと言えばラディオラ地方の村の名前ですよね。鉄とヴィガで有名な」
――有名なものか!
レオナは不信感を募らせて男を見つめた。
そこはイーカル人ですら知らない、とても小さな村だ。王都で出来た友人たちだって揃って首を傾げたほどに。
「いえ、行った事はありませんよ。何かの本で読んだ事があるという程度です。それ以上の事は良く知らない」
イーカル国外に出るのが初めてのレオナに、他国で出版されている本の事情などわからない。もしかしたら本当にそういう本があるのかもしれないし、それをたまたま覚えていたという事はあるのかもしれない。
しかし……
「イーカル語がお上手ですね」
それも不信感の原因の一つだ。
イーカルより東の国では大陸共通語が公用語になっている。だからこの辺りに住む人はそれさえ話せれば他の言葉など覚える必要はないのだと聞いている。
ましてイーカルはつい先日まで鎖国をしていた。いくら発音が似ているとは言え、他国との交流が一切無かったイーカルの言葉をしゃべれるのはおかしい。
疑いの目など気付かぬように、男は愛想よく答えた。
「外国語に興味があるんです。他にもサザニア語やローラク語も話せますよ。私の発音、あってました?」
むしろなんだか嬉しそうな様子だった。
「レオナさんはお仕事ですか」
「……ええ、まあ」
「お一人で?」
「いえ」
会話を続ける気が無くて一度口を閉ざしてみたが、男が空気を読む気配はない。ここで質問攻めにでもされたら困るのは自分だと気付いたので、敢えて質問を返す事にした。
「トリカさんはお仕事で?」
「商談です。他にも会議などがあるので二ヶ月ほど滞在する予定です」
「商家の方ですか」
「ええと……まあ、経営者ですね」
やはり質問をしている分にはこちらに話の矛先が向く事は無い。適当な質問をしてお茶を濁そうと考えていたところに、ウェイトレスがトリカの分の軽食セットを持って現れた。
適度に会話が中断され、レオナは少し冷静になる事ができた。
この男は終始楽しそうで、珍しいイーカル人を珍獣のごとく扱っているようだ。好奇心を満たそうという欲求は感じられるがおそらく害意はない。それに仮に襲われたとしても戦って勝てない相手ではなさそうだ。
ほんの少しだけ警戒心を緩める。
「今日は用事をすませて観光をする予定なんです。どこかお勧めはありませんか」
「用事はどのあたりで?」
「王城の近くの……何街って言ってたかなあ」
「王城の側であるなら図書館をお勧めします。
入館の際に手数料を支払えば、誰でも好きなだけ本を読めます。その図書館の蔵書量は世界で三番目なんですよ」
「一番ではないんですね。あ、いえ、三番目も十分すごいですけど」
レオナの失言にも男の機嫌が損なわれる事は無かった。
笑顔を崩す事なくそこを勧める理由を教えてくれた。
「一番目は三国学問所の図書館、二番目はアスリア=ソメイク国の王宮の図書館です。どちらも入館に際して厳しい条件が課せられますので、一般人でも出入りできる図書館という意味ではウォーゼルが一番です」
それなら確かに、一度行ってみる価値がありそうだ。
レオナは簡単な道順を教えてもらってダウィから貰った手紙の裏にメモをした。
丁寧に時間をかけて書いた手紙に封をしたのはちょうどお昼頃だった。
ダウィの書いてくれた地図を片手に高級住宅街を進んでいく。
極度の緊張で胸焼けをおぼえる。
あの早めの昼食をやめておくべきだったと後悔し始めた頃、レオナはその屋敷を見つけた。
貴族の屋敷が立ち並ぶこのエリアの中でも特に大きく、テート家の屋敷の二倍はあった。
アランバルリ公爵家。
現公爵夫人も王姉であるが、公爵家の祖もまた王家に連なる高貴な方であったらしい。
納得の大邸宅である。
「は、入るのか……これ……?」
ダウィのメモには、ウォーゼルの訪問マナーでは表の門が開いていたら玄関まで自由に入って良いとある。
そして目の前の大人が両手を広げて五人は並べるような門は、半分開いていた。
門の大きさにも怖気づいたが、開いているのが「半分」というのもまた微妙で入って良いものかどうか悩む。
しばらくうろうろしていると背後から肩を掴まれた。
「そこで何をしている!」
「うわっ」
振り返ると、国境の兵士とよく似た服を着た男が立っていた。背後に見える白馬は軍馬だろうか。イーカル馬よりは小柄だが筋肉のしっかりと盛り上がった立派な体躯をしている。
驚きのあまりきょろきょろと周囲を見まわす様子が余計に不審を招いたのか、肩を掴む手に力が入った。鋭い眼光がレオナの目を射抜く。
「す、すみませんっ! 怪しいものじゃ――」
すぐに剣呑な光が柔らいだ。
「失礼。女性でしたか――公爵家に御用ですか?」
性別で不審者か否かを判断するなんて問題があるだろうと思わなくもないが、手を放してもらえたので良しとする。
「手紙を届けに来ました。これって入っても良いんですか?」
半開きの門を指して問うと男は納得したようだった。
「それではご一緒しましょう。私もこちらに用があって参りましたので」
男はレオナに先に門を抜けるよう手で示した。
……兵士ではなく、騎士だろうか。
動きがいちいち洗練されている。貴族出身は確実だろう。この国の軍のシステムはわからないが、軍人であるなら相当上位階級の者だ。
礼を言ってやたら広い門を抜ける。
――ゾワリ。
目に見えない何かに肌を撫でられた。
「何!?」
慌てて周囲を見回すが、男が立っているのは未だ門扉の向こう。手の届かないほど後ろで他は誰も居ない。
「今、何かが――」
「結界は初めてですか」
「ケッカイ?」
「魔術による結界です。ここを通り抜ける事で、術者に我々の来訪が伝えられました」
だからこんな立派な屋敷でも無防備に門を開け放っておけるのか。
「便利な物ですね」
「ええ――なにせ、害意を持つ者は通り抜けられませんから」
男に試されたようだ。
女だからと無条件に信じた訳では無かったか。少し男を見直した。
男は手綱を引いて馬を促し、今度は先に立って歩き出した。
大きな屋敷に見合って玄関も立派なもので、イーカルでいうなら王兄の住む離宮くらいでしか見られないものだった。数段あるアプローチの階段前で臆していると、男は手を差し伸べ、貴婦人にするように手を引いた。
門を越えた事で来訪が告げられたというのは事実であったらしい。ドラゴンを模したノッカーを鳴らすまでもなく扉が開く。
執事だろう。白髪の老人が姿を現した。
「これはエルネスト様。お久しぶりでございます。……本日はお美しいお嬢様もご一緒ですか」
「いや、彼女とは門の所で一緒になっただけなんだ。僕は例の件で伯父様から伝言を預かってきてね。伯母様は二階?」
男は慣れた様子で言葉を交わしながら手綱を預けた。
「先程昼食を終えられて、テラスにてお茶をお召し上がりです」
「お邪魔しても良いかな」
「それでは、後ほどエルネスト様の分のお茶をお持ちいたします。昼食はお済みですか?」
「すぐに戻らないといけないから食事もお茶も結構。
ああそうだ。伯父様が今日は帰れそうにないから夕飯の支度は不要とおっしゃっていたよ」
執事が頭を下げるのを確認して、男はレオナの手を押しいただくような仕草をした。こちらの国の挨拶だろうか。反応の仕方もわからぬうちに男は姿勢を戻してしまう。
「私はこちらで失礼致します。いつかまた機会がありましたらお話しましょう」
「ええと、その、案内をありがとうございます」
きっと慣れていないのが伝わったのだろう。ふっと微笑んで男は廊下の奥へと向かった。
男の背から目を離すと、こちらを覗う老執事と目が合った。
温和そうな目がこちらの言葉を待っているようだったので、レオナはようやく口を開く。
「あの、初めまして。
私は――かつて公爵夫人と親交のありましたジアード・ボルディアー・ファル・テートの娘で、レオナ・ファル・テートと申します」
用意していた言葉を口にするのに夢中で、レオナは気付いていなかった。
立ち去ったはずの男が廊下の奥で立ち止まり、手紙を渡すレオナの姿をじっと見つめていた事に。