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荒地に咲いた一輪の  作者: 井波
近くて遠い国
85/107

第8話 誘惑

 不機嫌そうに肩を怒らせて歩くアレフの背を、今度こそ見失わないように小走りでついていく。

「ええと――ダウィ、怒ってた?」

「ああ……あんたは気にするな」

「気になるよ」

 いつも穏やかに笑っているダウィがあんな態度をとるなんて。

「あれは……『鼠には鼠の、牛には牛の悩みがある』ってやつだな」

「なにそれ」

「こっちの国の故事成語。どんなに幸せそうに見える人でもあ物乞いでも金持ちでも王様でも、それぞれの苦労ってのがあるんだっていう意味の言葉」

「あー。白蛇のなんとか」

「『白蛇の腕輪』だろ」

「そう、それ」

 イーカル語にもそんな言い回しがあった。

 思い出せた事に満足して頷くレオナを、アレフはなぜか可哀想な子を見るような目で見下ろした。


「とにかく――ダウィの事は、あんたが気にする事じゃねえ。

 今日の夕方に用事があってあんたの相手ばかりしてられなかったってのも事実だろうしな。機嫌を損ねて帰っちまった訳じゃねえよ」

「なんか学問所で講義があるとか言ってたね。それって学校とは違うの?」

「師匠と弟子の関係で物事を教わる場所の総称が学校だ。子供が読み書きを習う場所も、大人が職業訓練を受ける場所も共通語では全部『学校』という。

 で、学問所も学校の一種だが、師匠から教わる事よりも自ら研鑽する事に主眼を置いている――らしい。入ったこともないから聞きかじった話だがな」

「学校で基礎を学んで、学問所で研究とかをするって事?」

「まあそうだな」

「それってさ、こんな時間からやってんの?」

 夕陽で赤く染まった街からはすでに夕餉の匂いが漂っている。

「夜学だろ」

「ヤガク?」

「昼間は働いて、夜勉強する人のための学校」

「へぇ」

 仕事で疲れているのに、その上勉強までするなんて、寝る間があるんだろうか。体力的にも精神的にもきつそうだ。

 そんな事をぶつぶつと呟きながら考え込むレオナを見て、アレフは深く溜息をついた。

「むかつくけど、さっきのダウィの言葉は正しいな。

 この国じゃみんな、『結果で黙らせ』んだよ。そのために誰もが努力を惜しまない」

 アレフは夕空を仰いだ。

 貴族の子に生まれたお陰で読み書きは不自由なく出来たし、故郷の基準ではかなりの高等教育を受けてきたアレフだった。

 だが、その知識がこの国においては十歳の子供が習うのと同じレベルだと知った時、愕然としたものだ。

「……それくらい、学問に意味があんだよ」

 軽く言ったつもりが、思いのほか重く響いてしまった。自分の胸に。



 * * *

 


 先程軽く摘んでしまったので、まだあまりお腹が空いていなかった。

 それならばと向かったのは、公園に面したバー。

 バーと言ってもレオナの行きつけの店のような暗い雰囲気はあまり無い。

 店の前面は大きく開放されていて、店内からは陽気な笑い声が灯りとともに溢れ出ていた。それだけではない。店の前の公園に面した部分には、火の灯った蝋燭が置かれた小さな立ち飲みテーブルが並んでいる。

 それらを横目に見ながら中に入ろうとして、レオナが足をとめた。

 店の入り口に、大きい「15」という数字と真っ赤な×印の看板が立てられている。

「どういう意味?」

「ウォーゼル王国の法律で未成年――十五歳以下には酒を飲ませちゃいけないってのがあるんだ。この公園は観光地で外国人も多いからな。周知の為なんだろ」

「ふうん……え、観光地?」

 レオナの目が輝いた。

「ああ。そこに大きな川があってな。海までの定期船乗り場があるんだ。後は……」

 ジアードは口ごもった。

「そうだな。飯の前に見に行くか」



「えー、船じゃないの?」

 船乗り場への道順を示した看板を指差してレオナが不満を訴える。

 砂漠が国土の殆どを占めるイーカルで船を見たことがある者は稀だ。

 小川程度の川しかないレオナの故郷にも、船は無い。話に聞く水に浮く乗り物というのを見てみたかったのだ。

「船はどうせダウィの家に行く時に乗れるから。お前が見ておかなきゃいけねえのはこっち」

 アレフが指差したのは公園の暗がりにぼんやりと浮かび上がる街灯――いや、街灯の照らし出す巨大な陰だった。

「なんだあれ」

 目を凝らせば、大きな銅像だ。偉そうな服はきっと王族だろう。公園に為政者の像を置くというのはイーカルでも珍しい事ではない。だが――

「普通さ、こういうのって広場に向けて置くんじゃないの」

 銅像の男は何故か横を向いて建てられている。広場を行き交う人々からは正面が見えないのだ。

 それでも観光客らしい旅装の者は必ず像の正面に回って見上げている。

「ウォーゼル王国の昔の国王だ。聖王ラズ・ゲットル。膨大な魔力と意思の力で魔剣を制御して、この国を救ったと言われてる」


 レオナは像に近づいた。

 厳しい顔をした、国王の像としては随分若い――三十代くらいの男の姿。

 鞘に収められた細身の剣を捧げもち、山を睨むような向きで建てられている。

 その足元にはプレートがある。

「抜かれなくなった剣――」

 太い文字で書かれたそれが、この像の名前か。

 そして更に、小さな文字で宣誓の言葉のようなものが刻まれていた。


 

  私はもう剣を抜かない。

  私の役目は、剣を腹に収め

  共に戦った者たちに恥じない戦いをする事だ。

  ――祖国ウォーゼルの為に。


  王の見据える先はイーカル王国。

  彼の戦いの国。



「イーカル」

 思わぬ所で見た母国の名。

 

 ――だが、良い意味ではなさそうだ。


「この王様がまだガキん時にイーカルの侵攻で当時の国王――爺さんが殺されて国を追われた。その十数年後、遺志を継いだこの王様が力ずくで国を取り戻した。その【萌花】って銘の魔剣を振るってな。だからこの像は町中心部じゃなくてイーカルを睨みつけるように建てられてるんだな」

「そっか」

 周囲に聞こえないようにだろう。声を落としてアレフが続けた。

「……だから、イーカル人ってのは嫌われてるんだ。こっちの連中は皆いつ攻め込んでくるかと戦々恐々としてる」

「先王はともかく、ダールはそんなつもりは無い」

「国王やお前らお偉いさんにその気がなくても、疑心暗鬼になるもんだ。侵略された歴史のある国はな。

 特にウォーゼルは周辺の他の国と比べて極端に小さな国だから」


 言っている意味は軍人であるレオナにはよくわかる。

 ウォーゼル王国は国境からたった一日で国土の中心についてしまうような国。

 一方でイーカル王都から国境までは一月もかかった。

 それでいて、イーカルの他にウォーゼルと国境を接する国は三つ。どれもイーカルと同じかそれ以上に大きな国だ。

 狭小国だというのにこれまで国として生き残れたのは、その四つの大国がせめぎ合い絶妙なバランスが維持されていたからに他ならない。

 バランスさえ崩れてしまえば、こんな小さな国は風前の灯なのだ。どこか一国が攻め入ればそれを好機と他国が攻め入り、あっという間に国土全部が焦土と化してしまうだろう。


 軍に身を置いていても、戦を是としたくない理由のあるレオナは、頭を振って嫌な想像を打ち払った。


「……この、像のタイトル? 『抜かれなくなった剣』っていうのはどういう意味なんだ」

「国王としての戦い方は決して武力によるもんじゃねえって事だな。

実際、政に関しても優れた国王だったから、後に聖王と呼ばれるようになったって話だ。死んで数百年経っても毎年式典が行われるくらい、この国じゃ神聖視されている」

 そういえば式典の話は、この間辺境騎士団に案内してくれた人が話していた。

 王族も出席する盛大なものだという事だ。

「皆に慕われる良い王様だったんだね」

「あんたわかってないな。

 イーカルを倒した王が神聖視されるってことはな、その分イーカルが邪悪な国とされるって事でもあるんだよ。式典の度にこの国の連中はイーカルに対して憎しみと疑いの心を植えつけられるんだ。

 それでも国交断絶の前には、イーカル人がこの国に出入りしてた。中にはこっちで結婚して子供を作ったやつなんかも当然居たわけだ。

 おい、レオナ。イーカルがウォーゼルに侵攻して、国境が封鎖された後、この国に残されたイーカル人や混血児はどうなったと思う?」

 アレフの漆黒の目に暗い色の光が宿った。


 敵国に取り残された人間の末路――


 大陸法を適用しているウォーゼル王国において、国主導の虐殺はできないだろう。だが、私刑を積極的に止めるだろうか。官憲とて見て見ぬ振りをするに違いない。

 それは、イーカル国軍に捕らえられた敵国兵の扱いと同じだ。捕虜としての価値がなければ、親や友人の敵として惨殺されるのが常。他国は違うなどと考える事は出来なかった。


 そして、レオナのような辺境の少数民族出身者ならまだしも、アレフは瞳の色以外典型的なイーカル族の顔をしている。彼もこの国で辛い生活をしてきたのだろう事は容易に想像できた。


「……アレフ、ごめんな」

「なんでいきなり謝るんだよ」

「歴史的な事は知っていたつもりだけど、オレ、そこに住んでる奴の気持ちまで考えた事無かった」

 レオナは袖口で右目を擦った。だが、左目には間に合わず、頬を熱いものが伝った。

 アレフは瞬きをした。

 その目からはすっかり毒気が抜かれている。

「お前にこの国に連れてきて貰えてよかった」

 泣きながら笑うレオナを、アレフは呆然と見つめていた。 




 先程のバーで、小皿料理をいくつか注文し、イーカルとそう変わらない味の蒸留酒を飲んだ。ちなみにつまみはレオナの希望通り、柑橘果汁を振ってオーブンで焼いた魚や、川えびをニンニクとオイルで煮た物などイーカルでは珍しい魚介類のものばかりだ。

 王宮の晩餐会ですら出ないような生の魚が数枚の銅貨で食べられるのだからこの国は本当に素晴らしい。また味付けも、塩だけのシンプルなものが多いイーカル料理とはだいぶ違う。

 あまりお腹が空いていないと言ったはずなのに結局普通に一人前以上の量を食べてしまったようだ。レオナはパンパンに膨らんだ胃を撫でながら帰路についた。


 荷物を置いてきた友人の家ではなく宿に泊まると宣言したからだろう。「宿の都合もあるから近道をする」と告げてアレフは足早に路地を抜けていった。身長の分コンパスが違うので後を追うレオナは自然と小走りになる。

 カツカツと足音が響く狭い路地をすり抜け、二人は商社とその倉庫が並ぶエリアの広場に出た。中央に井戸があるから昼間は周囲の建物で働く人の憩いの場になるのかもしれない。

 だが、月も無いこんな夜に広場で過ごすのは野良猫くらいのものだ。


「――レオナ、お前剣は?」

 速度を緩めたアレフが問う。

「荷物と一緒においてきた」

 答えながら、レオナは周囲に目を配った。

 レオナが気付いたのはやたらと足音の反響する路地を通った時だったが、おそらくアレフはその前から気付いていたんだろう。両手をズボンのポケットにつっこみ、壁を背に立ち止まった。

「剣がなければただの間抜けだっけか」

「どういう意味だよ」

「一発殴っただけで気絶したじゃないか」

「あれは不意打ちだったからだろ」

「不意打ちじゃないなら避けれるんだな――避けきれよ」

 二人は後を振り返った。


 路地から出てきた最初の一人と目があうと、あっという間に十人以上の男に囲まれた。

「お前の友達?」

 一応問いかけてみるがアレフは首を横に振った。

「知らねえなあ。飯の前からずっとついてきてたし。大方あれじゃね? 聖王ラズ・ゲットルの像の前で無用心な会話をしてたからついてきちゃった連中」

 どういうことかと目で問うと、アレフがポケットから手を抜きながら言った。

「あんたがイーカルの要人だと思ってる奴ら」

 自分じゃさして偉いつもりは無いけれど、王に任されてこの国に来てるんだから、要人といえば要人なのかもしれない。

「じゃあ要人らしく守られてみようかな」

 アレフの背後に隠れるふりをして後ずさった。当然守ってもらうつもりなんかない。レオナはさりげなく壁際まで後退した。

 そんな会話の間にも、男達は剣を抜き、その切っ先をこちらへ向けていた。

「尾行は素人だったけど、何人かプロっぽいのが混じってんじゃねえか」

 レオナの位置からはアレフの表情は見えない。

 だが、代わりに手の中に隠し持ったものが見える。

 ポケットから取り出したであろう二本のナイフ。

 彼の甥であるファズも得意とする武器だ。


「お前ら何してる」


 唐突に割り込む声があった。

 だが、救いの手ではないようだ。

 レオナを取り囲む男達は逃げる気配を見せない。

 男達に道を譲られて現れたのは、色の白い碧眼の男。髪は帽子で隠れて見えないが、顔立ちからするとおそらくプラチナブロンド。

 レオナはこの手の顔をよく知っていた。


 ――サザニア帝国人だ。


 嫌な汗が背を伝う。

 だが動揺したのはレオナだけではなかった。

「なんであんたがここに」

 取り囲む男達の中からも、怯えを含んだような声があがった。

 濃くはっきりとした眉が僅かに動き、色素の薄い唇が温度の無い言葉を紡ぐ。

「お前らは引け。アレが移動しはじめた」

 サザニア人の男の命令に従ったのはほんの数名。依然としてその場には十人近い男が居た。だが、アレフの言っていた「プロっぽい」奴等は男の命令で全員どこかへ消え去ったようだ。残ったのはチンピラ風のものばかり。

 雑魚だけなら徒手のレオナとて多少は時間を稼げるだろう。


 だが、厄介なのはこの場に残ったサザニア人――


 アレフも同じように判断したようだ。

 サザニア人とレオナの間にはいるように移動し、レオナを背に隠すと隠し持っていたナイフの向きを変えた。相手を刺激しない程度にゆっくりと、しかし確実に握りなおす。


 逆手にしっかりと。手首に添わすように逆向きに。


 自然体で立っているようだが、さりげなくいつでも腕が動かせるよう、右手がやや後方に、左手がやや前方に構えられる。

「その流儀……イーカルのクレーブナー家だな」

 介入してきた男が歩み出た。

 アレフの姿を観察するように動く冷え切った眼光は他の雑魚と明らかに違っている。

「……クレーブナーの長子とは髪の色が違うな。しかし、リンが国外に出るとは考えにくい……それに、今イーカルには王妃以外に女の王族は居なかったはずだが、クレーブナーを従えてるその女はなんだ」

「詳しいじゃねえか」

「蛇の道は蛇」

 男はにやりと笑った。

「まあいい……なんにせよクレーブナーはやっかいだ。顔を見られた以上片付けていくか」

「やられっかよ」

 男がアレフとの距離を詰めるのと、他の者がレオナに飛び掛るのがほぼ同時だった。

 だが、レオナとてただでやられるつもりはない。


 ――ガッ!


 最初に繰り出された刃を、後手に握っていた箒の柄で弾く。壁際に立てかけられていたものだ。

 木製だったので強度に不安はあったが、それなりに丈夫らしい。それに……やはり素人だ。

 それぞれがしっちゃかめっちゃかに動くのでややこしいけれど、共闘はまるで出来ていない。

 壁を使って背後さえ取らせないようにすれば……


 ――いやそれよりも、剣を奪った方がいいか。


 箒は心もとないし、多勢に無勢なら攻めに転じた方が生存率が上がる。 

 右から突き出された刃を掻い潜り、一度囲みを突破すると、振り返ろうとしていた男に襲い掛かる。男は思いがけない動きに焦っているためか、手元がすっかりお留守になっていた。

 下から打ち上げた箒によって、剣はレオナの足元に転がって来る。

 いつもの剣よりも重くバランスも悪いが贅沢は言っていられない。

 レオナは拾い上げた剣を構え、再び囲もうとする男達と対峙した。


 ――シュッ!


 空気を切る音がして、レオナの正面に居た男の頬が切れる。

 しかし、レオナはまだその場から一歩も動いていなかった。

 つまり、やったのはレオナではない。


 ――カランカランカラン……


 男の足元で、掌に乗るほどの小さな金属製の輪が硬質な音を立てて回っていた。

 輪の外縁は内側と少し様子が違う。外に刃が向くように円形に加工した武器に見える。レオナは南の方の国に「チャクラム」と呼ばれる投擲武器があったことを思い出した。実物を見るのは初めてだが、おそらくこれがそれだ。

「どこから――」

 投げた主を探して辺りを見回した。


「あたしね、一人を大勢でっていじめだと思うの」


 不意に上から降ってきた声はこの場の雰囲気に不似合いなほど甘く艶っぽい声。

 レオナと対峙していた男達が一斉にレオナの頭上――ビルの非常階段を振り仰ぐ。

「あたし、そういうのってキライ」

 真っ赤なドレスを纏った女が黒いレースの手袋をした手で手すりをなぞった。

 かと思えば、躊躇いもせず手すりを乗り越え、スタンという予想外に軽い音と共にレオナの脇に飛び降りた。

「だから、あたしはこの子の味方」

 真っ赤な唇を舐める舌が艶かしい。

 胸元を大きくはだけたその姿は、明らかに娼婦。

 だが、先程からの行動からして只者であるはずが無い。

「イイ夢見せて、逝かせてあげる」

 女はどこかからか取り出したチャクラムを指で回し、次々に投げつけた。

 小ぶりな分殺傷能力は低いのだろう。腕や頬、肩といった露出部分へ命中しているが、それで動きを止めるものはいない。


「あ…あ……」


 突然、最初に頬を切られた男が傷口を押さえてしゃがみこんだ。

「あつい……あ…ふぃ……」

 呂律が回っていない。何をしたのかと女を見ると、濡れた唇が笑みをかたどる。

「ちょっとした神経毒よ。一滴で牛でも殺せるくらいのね。その内呼吸が止まるわ」

 事も無げに言い、またどこかから取り出したチャクラムを逃げ惑う男達に投げつけた。

 傷を受けたものは誰もがそこを抑え、痙攣し倒れ込む。

 

 すっかり見通しが良くなった広場の向こうで、アレフがサザニア人と刃を交えていた。

 やや型は崩れているが、下手なのではなく実践的なのだ。おそらく過去にレオナが対峙したどのサザニア人よりも強い。

 女はその二人に躊躇いもせずチャクラムを投げつけた。


 ――キン!


 闇を裂いて飛ぶ銀の軌跡は、甲高い音と共に、叩き落された。

 かなりの反応速度を見せたサザニア人が苦々しい顔でこちらを睨む。

 だが、さすがに三人を相手取るのは不可能と判断したのだろう。すぐに踵を返し、路地の奥へ逃げていった。

 

 女にそれを追うつもりは無いらしい。

 地面に横たわり痙攣する男たちを足で蹴り飛ばしながらチャクラムを回収していた。

 全てを革袋にしまうと、井戸で手を洗っていたアレフにあきれたような声を掛ける。

「てこずり過ぎよ」

「プロ相手じゃ仕方ねえだろ」

「クレーブナーって言われてかっとなっただけでしょ」

 アレフは目を逸らし、殆どが動かなくなった襲撃者を見て低い声で呟く。

「……あんたはやりすぎだ」

「素手の女の子を大勢で囲んで刃物を向けたんだもの。正当防衛よ」

「過剰防衛」


 そんな親しげなやり取りをあっけに取られて見ていたレオナが、おそるおそる声を掛ける。

「……知り合い?」

 女はにっこりと笑うと娼婦のようなドレスの裾をつまみ、芝居がかった礼をしてみせる。 

「はじめまして、レオナ様。私、ヴィオラ・ルビーと申します。どうぞお見知りおきを」

「ええと――」

 困惑するレオナをよそに、ヴィオラは左手にはめた派手な……これが本物の宝石であるなら城ひとつぽんと買えてしまうような巨大なルビーのついた腕輪を外す。

 続けて手袋も脱ぎ、手首の内側を返してみせた。

 雪のように白い肌に、醜くひきつれた肉色の烙印。

 レオナの頬がぴくりと動いた。

「片翼の……」

 それは「死の刃」と呼ばれる暗殺集団の証。

 先王の命を奪った短剣に刻まれていた印。

「あら、本物を見るのは初めて?」

 腕輪を戻し、女はレオナの頬をふわりと撫でた。

 あまりに自然な動作だったので、懐に入るのも止めることが出来なかった。

 抱きつくように首に手を回し、耳元で甘く囁いた。

「うぶなのね。とても可愛いわ、あなた」

 ふっと耳にかかる吐息に、レオナは体を強張らせた。

「でも、この話はまた後でね」


「手前、何しにきたんだよ」

 アレフの凄む声に温かい腕がふわりと解かれた。

「まあ怖い。怒っちゃ嫌ぁよ。あなたを探しに来たの。

 だってあなた、この街に来たって言うのにちっともあたしたちに会いに来てくれないんだもの」

 まるで路地裏で客をひく娼婦のような仕草でアレフに絡みつく。

 いや、確かにここは路地裏で、女は娼婦のような格好をしてはいるのだが――足元に転がるモノが、明らかにおかしい。

「何が目的なだ」

「ん、もう。わかってるくせに」

 焦らされ拗ねる女のような声を出し、アレフの胸に頬を寄せた。

「噂のレオナちゃんに会いに来たの――あたしだけじゃないわよ」

「まさか」

 慌てて周囲を見回すアレフへヴィオラはからかう様な笑みを見せる。

「やあねえ、今はあたしだけ。今は」

「……満足したか」

「ん、まあまあね。

 ところで、今晩どぉお? 泊まってかない?」

 アレフは露骨に嫌そうな顔をした。

「言っとくけど、こんな時間に宿なんて開いてないわよ」

「…………」

 汚いものでも見るような目でヴィオラを見下ろし、深く嘆息した。

「死体の側でぐだぐだするのはまずい。移動するぞ」

 アレフはレオナに目で合図し、先に立って歩き出した。腕に手を絡ませたままのヴィオラもそれに続く。

「ま、待てよ」

 レオナも結局使う事のなかった剣を放り捨て、そちらへ走り出そうとした――その時、


 ――カツン


 つま先に何かが当った気がして地面に目をやると、きらきらと光る白い石が落ちていた。

 何気なく拾い上げる。ボタンか何かだろうか。片面に紋章、反対側に見慣れない文字が刻まれている。

 レオナはそれをポケットに滑り込ませ、二人の後を追った。



 * * *



 連れて行かれたのは、あの荷物を預けた家だった。

 乙女チックな内装の家に、毒々しい夜の化粧をしたヴィオラはとても浮いて見えたが、慣れた様子でぱたぱたと風呂や寝室の支度をしてくれる。彼女はこの家の住人の一人だったのか。

 案内された客間はやはりリビングと同じ可愛らしいインテリアで統一されていた。花柄のカーテンや淡い色調の壁紙も「可愛らしい」の大きな要因だが、この部屋は飾られる雑貨がまた可愛らしい。例えばベッド脇の真鍮のキャンドルスタンド。台座が花びらの形をしていて、もち手は羽の生えた妖精を模していた。そしてカービングの施された薄紫のキャンドルからは甘い花の香りが漂い、眠気を誘う。

 レオナは大きな欠伸をしてベッドに倒れこんだ。

 久しぶりの柔らかいマットレス。それに緊張感がきれた事と長旅の疲れが重なってすぐにうとうとと眠りについた。



 目を覚ましたのは夜半過ぎ。

 隣の部屋から話し声が聞こえてきたからだった。

 大して広い家ではない。その扉の向こうは廊下もなくすぐにリビングになっている。

 上体を起こし、そちらに目をやると扉が細く開いていて、声と一緒に光も漏れこんでいた。


 ――アレフがまだ起きてるのかな。


 奴はリビングのソファで寝ると話していたような気がする。 


「……あの子に話してないの?」


 寝ぼけ眼で光の帯を見つめていたら、ヴィオラの声がした。

 あの子、とは自分の事だろうか。思わず耳を欹てる。

 

「なんで話すんだよ」


 不機嫌な声はアレフだ。

 

「過去の事も?」

「何のために」

 アレフがソファに背を預けたのだろう。衣擦れの音とともに家具の軋む音がした。

「あいつは真っ当な奴だ。俺とは生きる世界が違う」

 レオナは足音を忍ばせて扉へ向かった。

 僅かな隙間から見えたのは、ソファに横たわるアレフの長い足と、それを不満げに見下ろすヴィオラの姿。

 ヴィオラは先程のドレスから体のラインが透けて見える青いネグリジェに着替えていた。

 蝋燭の頼りない光が彼女を照らし、深い胸の谷間に蠱惑的な陰を落とす。

 

 ――ギシ


 ヴィオラがソファに膝をついた。

 アレフの耳の脇に手をついて覆いかぶさるような姿勢になる。

 コテで巻かれた栗色の髪がアレフの頬を擽った。

「……あの子の事、相当愛してんだ?」

「違――」

「じゃあ、今ここで抱いてよ。あたし血を見ちゃってまだ興奮してんの」

 右手がアレフの頭を撫で、耳から首元を通って胸へと下ろされる。

「どうしたの。愛じゃないならできるでしょ? ――あの子が隣の部屋で寝てたって」


 ――見ちゃいけない。


 そう思ったが、動く事ができなかった。

 ヴィオラは真っ赤な唇に舌を這わせると、アレフの首元に頭を埋め、キスを落としていく。

 胸の上に置かれていた手が動き始め、シャツのボタンにかかったところで、アレフが虫でも払うかのようにそれを弾いた。

「興がのらねえ。ルノーにでも強請って来い」

 そう言ってヴィオラを押しのけると、ソファから起き上がり側にかけてあった上着を羽織った。


 ――バタンッ!


 叩きつけるようにドアを閉める音が響いた。

 アレフは外に出て行ったようだ。


 残されたヴィオラは肩を竦め、息を吐いた。

 そしてくるりと振り返ってこちらを見る。

「……見てた?」

「ごめんなさい」

 レオナは素直に謝った。 

「いいのよ。この扉、建て付けが悪いの」

 ヴィオラはレオナの脇をすり抜けて客間に入り、扉を力いっぱい閉めた。長い髪をかきあげながら、「こうしないとすぐに開いてしまうの」と言って苦笑する。


「それにしても、こんなイイ女が迫ってるのに興が乗らないなんて酷い断り方じゃない?」

「ヴィオラさんは、アレフの事、が――?」

「ううん。本命は別。でも、あいつもそれを知ってるから、優しく断ってくれないのよねー。

 まあその本命は本命で、熱いキスを交わした後で『お前じゃ勃たない』なんて最低なフリ方してくれちゃってるんだけど」

 くすくすと笑い、ヴィオラはレオナの腕に手を絡めた。

「ねえ。そんな訳であたし、今あんな奴にまでフラれちゃったんだけど、レオナちゃん一緒に寝てくれない?」

「えっ――いや、無、無理ですっ」

 寝るという言葉の言外の意味を察してレオナは腕を振りほどこうとした。

 だが、鍛えているはずのレオナでもびくともしない強い力でヴィオラは引きずるように歩き出す。

「なんにもしないわよぉ」

 ベッドへ着くと、体術か何かだろうか、関節から持って行かれるような妙な力で押し倒された。

「女の子の匂い、久しぶりぃ」

 ヴィオラがレオナの胸に顔を埋め――いや、埋めるほどの大きさは無い。レオナのささやか過ぎる胸に、顔を擦り付けた。

 香水の甘い匂いが鼻腔を擽る。

 身体に手を回されているが、いやらしい感じではない。むしろ母親に甘える子供のようだった。

 

「……別に男じゃなくてもいいの。人が死ぬのを見ると誰かにくっついていたくなるの」


 ぽつりと呟かれた言葉が全てだった。

 その気持ちはレオナも知っている。

 戦場で恐怖と緊張と罪悪感とに翻弄された夜。一人で毛布に包まると世界に自分以外誰も存在しないかのような感覚に襲われる。そして一時うつらうつらしたかと思えば、夢の中では自分が殺した男に追われ、四方から責め苛む声が聞こえる。

 レオナはいつもそれにただ耐え続けて来たが、美しい容姿と魅力的な肉体を持つヴィオラにとっては、男を誘惑する事が孤独な夜を誤魔化す手っ取り早い方法だったのだろう。

 細い肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめるとヴィオラは子猫のように擦り寄ってくる。


 柔らかな髪を撫でながら、レオナも眠りに落ちた。

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