第5話 廃村
「ぶっ」
ファズは激しくむせた。
なんとか口から吹き出す事は堪えたものの、勢いで鼻に入ったお茶が鋭い刺激を伝える。
「な、なんなんですか、これ!」
ハンカチで鼻を押さえ、睨みつけた先にはにやにやと笑う若き国王。
彼にすすめられて口に含んだお茶は、砂糖をそのまま口に入れたのかと思うほど甘かった。いったい角砂糖をいくつ入れたのだ。いくらファズがお茶には砂糖を入れる主義だとはいえ、加減と言うものがある。ファズにとって角砂糖は二つが理想なのだ。
「悪い悪い。最近お前の様子がおかしかったから、ついな」
「貴方はもう国王なんですから、いい加減落ち着いて――」
「レオナだって『やれ』って言ってたぜ?」
なあ、と後を振り返る。
照れくさそうに窓の外から顔を出す茶色い頭。
「……そんな所で」
「出かける前に、ちょっとくらい話しておこうかと思ってさ」
レオナは窓枠に足をかけて部屋に飛び込んだ。
以前はなんとも思わなかった事だが、女だと聞いてしまった今は思わず「はしたない」と言いそうになってしまう。彼女はきっと渋い顔をするだろうが。
驚いた事に、今までも男性らしくしようとしていたわけではなく本人は元々こういう性格なのだそうだ。だから戸籍を女と改めた今も、しとやかに振舞おうとはまるで思っていないらしい。
レオナは女性らしくない仕草で「悪戯成功」とばかりにダールと手を叩き合った。
――この二人の関係修復はようやく出来たようだ。
塞ぎこんでいたダールの姿を思い出し、ファズは胸をなでおろす。
レオナが枯葉色の髪を揺らして振り返った。
「色々、ありがとうな」
――不意打ちは良くない。
最近ファズは困った事に気がついてしまった。レオナの笑顔が意外と可愛らしいのだ。見慣れた顔のはずなのに。変に意識してしまっているからだろうか……恋までは程遠い感情だが、時々その笑顔に魅せられてしまう時がある。
――ダールよりも自分の方が本当の関係修復までの道が遠そうだ。
平静を装ってお茶を淹れ直す。レオナが「オレの分も」と要求しながら空いていたソファに腰を下ろした。
「ところで、礼を言われるような事しましたっけ」
「旅券とか揃えてくれたの、ファズなんだろ」
「……それが僕の仕事ですから」
そういうとレオナはもう一度「ありがとう」と言った。
こうして直接礼を言われるのが気恥ずかしかったから将軍に託したというのに、これでは逆効果だ。
なんとか巻き返したいと思って、周囲を見回し――執務机のメモ用紙が目に留まった。
ファズはさらさらと思いつくままに書き付け、一枚破いてレオナの手に握らせる。
「これをお願いします」
「何これ」
渡したメモを開き、レオナの眉が寄る。
ファズはニヤリと笑った。
* * *
「なんださっきから、にまにま笑って気持ち悪い」
御者台からこちらを振り返ってアレフが聞いた。
「さっき、荷物を整理していたら出てきてさ」
ぴらりと見せたのは、別れ際、ファズから渡されたメモだった。
「何書いてあるんだ」
「内緒」
そう言ってにやりと笑うと、暗記するほど読んだそれにもう一度目を通す。
・日干しの川魚
・青花茶
・なめし革(グネッシュ産かヴィーサ産)
・ザフローラオイル
小さな紙に、ファズの癖のある文字が躍る。
――お土産に買って来いって事だよな。
買ってくれば届けなければならない。届ければ土産話だって――
レオナはまた頬を緩めた。
それは義務である「国王への報告」以上の会話を二人とできるという事だ。
少しづつわだかまりが解けていく。
「まあ良いけどよ。
あんた…… Mana natunalegwoma」
途中から突然、会話が大陸共通語になる。
王都を出てからすっかりアレフの口癖になってしまったフレーズだ。
レオナの方も、この台詞を耳にたこが出来るほど聞かされたせいで頭で翻訳する事もなく、返事が口から滑り出る。
「Natuna」
これから行くウォーゼル王国ではイーカル語は通用しない。
幸い文法はそっくりだし、音も似ているものが多いので、砂漠を旅するこの一ヶ月の間にだいぶ身に付いた。
おそらくゆっくりならこの男の通訳無しでもいけるだろうという程度には。
レオナはアレフを睨みつけるついでにその向こうの景色に目をやった。
イーカル王国領土の殆どを占める「砂漠」は、小難しい本ばかりを読んでいる友人――ダウィに言わせると、礫砂漠と言われるものらしい。もっと正確に言うと砂砂漠だとか岩石砂漠だとかいう場所もあるのだが、レオナがウォーゼルへの道程に選んだのは殆どが礫砂漠と呼ばれる場所だった。
その理由は、いくら砂漠の環境に適応したイーカル馬を使っても、砂だらけ・岩だらけの場所は馬車が通れないから。
それだけの理由だが、これがとても重要な理由だった。なぜなら砂漠を越えるには大量の水が必要だ。それを運ぶ道具が、この荷馬車なのだ。
見渡す限りの荒地を貫くように、整備されているのかいないのかわからない道が続く。もう何日も変わらない景色。
「あ……あれ?」
遠くにうっすら黒い影が見える。
蜃気楼かと思ったが、それにしてはやけにはっきりと……
「ああ。山が見えてきたな」
アレフが事も無げに言い、水筒の水を呷る。
「山……? 国境の?」
「ああ。あれを超えるとウォーゼルだ」
レオナは表情を引き締めた。
彼の国の王のサイン入りの通行許可書を持っているとはいえ、国境を守るウォーゼル軍人からすればレオナは敵国人だ。すんなり国境を越えられるとも思えないし、問答無用で殺される可能性も、投獄されて人質に使われる可能性もある。
「まあそんな怖い顔すんな。あっちだって和平の使者に無茶なんてできねえよ」
「――ああ」
そう思いたいが、もし逆の立場だったらどうするかと考えると、正直楽観視する気にはなれない。
「わかってねえなあ。その為の辺境騎士団長のサインだろ」
「……言っている意味がわからない」
「辺境騎士団はどこの国にも属さない中立の国際機関だ。その騎士団長がサインしているって事は、無事にあんたが入国できなければ、『無事に国境を通過させる』という誓約を破ったと同じと見なされるんだ。すると大陸法に則って処罰が下される。この場合は破った兵だけでなく、一緒にサインしている国王にもな。
そんだけ重いもんなんだよ。辺境騎士団長のサインってのは」
「そっか……」
国王というビックネームに驚いて正直そこまで気が回っていなかった。
それでも、例えば国境までたどり着かずに死んだという風に死体を処理するという抜け道が無いではないが……
「そんなに考え込んだってなるようにしかならねえよ。
それより、国境を越えてからの約束は覚えているな」
「目立たない。イーカル語を使わない」
「よく出来ました。
明日の昼には国境に着くからな。今のうちにイーカルっぽい物を隠して着替えておけ」
「着替え?」
レオナは自分の格好を見下ろした。
砂漠の暑さに対応するため、風通しの良い貫頭衣にゆったりしたズボン。それから夜には防寒具にもなる日除けのマント。一般的な旅装備だが……
「その服は目立つ。イーカルの刺繍が入ってる上に、いかにも砂漠を通ってきましたって感じがするだろ。
無難なのはどこの国籍でも通るようなシンプルなシャツにズボンだな。マントも取っておけ」
アレフの言うのはつまり、普段彼が着ているような服装にしろ、ということだ。
――いつも似たような服ばかり着ていると思ったらそういう理由があったのか。
レオナは妙に納得した。
そう多くない荷物の中から、アレフに言われたような服を探して引っ張り出す。
「そうそう、その剣も毛布にでも包んで隠しておけよ」
「うん?」
「そんな形の剣を使うのはイーカルぐらいだろうが。一番目立つっての」
帯剣できない事は不安だが、それが敵国で自分の身を守る事になるなら仕方が無い。レオナは重々しく頷いた。
「――ところで、アレフ」
「ん?」
「向こう向いてろ」
「あ?」
「着替えられないだろ」
屋根代わりの幌はあっても御者台との間を遮る物の無い荷馬車。着替えをするのにこちらを見られていてはさすがに気まずい。
そう言いたいのだが、アレフはにやりと笑ってこう言った。
「今更何言ってんだ。全部見てるのに」
「見せてない!」
「ああ。触っただけか」
「――っ!」
確かにそういう事が過去に一度あるにはあった。
だがあれは互いの心などない、儀式のような物だった。
そう割り切っているが、羞恥心まで無くしたわけじゃない。
だから、レオナはベルトから外したばかりの剣で、アレフの頭をぶん殴った。
* * *
「……まだ痛えんだけど」
後から飛んでくる恨みがましい声は聞き流し、レオナは手綱に集中した。
一応反省はしているのだ。
かっとなったとは言え鈍器で頭を狙うのは良くなかった。次は腹にしようと。
いや、違う。反省しているからこそあれからすぐに御者を代わったし、今日も朝からずっと自分が手綱を握っている。
それなのにアレフは未だにグチグチと文句を言う。
「『やりすぎました。ごめんなさい』とか無いのかよ」
「あるわけないだろ」
道は今、緩やかな上り坂になっていた。
左右に広がるのも昨日までの荒地とはうって変わって深い緑色の木々。
ここを南に行けば国内三位の収穫量を誇る穀倉地帯に、北に行けばサザニア帝国に、そして――東へ行けば、ウォーゼル王国に到達する。
三つの国の国境の交わるこの辺りは古くから戦の耐えない地域だったと聞いている。
先程から木々の間に見える物が、レオナは気になって仕方が無い。
山の中腹に、ぽっかりと木々の生えていない場所があるのだ。
地形からして沢や何かではない。
あれは、村の跡だ。
黒く焼けた木が見えて、レオナは確信した。
戦で焼かれた村があそこにあったのだろう。
半分以上草木に覆われているところからして、全滅したか移住したか……すでにここに人の姿は無い。
「あそこがティトの故郷なのかな」
「誰だそれ」
「オレの部下。ウォーゼル王国との国境の近くに住んでいたって言ってたんだ」
正確には、両親はウォーゼル人だったらしい。
彼が生まれる前にイーカル王国が侵攻してその土地を奪い取り、被征服民としてイーカルに下ったと以前聞いた事がある。
「そいつの事は知らねえけど、あの村は別だな」
「うん?」
「あそこは北のサザニア帝国からの侵攻で焼かれた村だ。イーカルがウォーゼルから奪ったのはもう少し南の土地だろう」
この辺りの三つ巴の国境は、一筋縄ではいかないらしい。
改めて焼けた村の跡を見ていると、朽ちずに今もそこに立つ家の柱らしき丸太が墓標のように見えてきた。
思わず片手で祈りの仕草をする。
どんな人達がそこで生活していたのだろうと思いを馳せたのに気付いたのか、アレフがぽつりと言った。
「あれはな。十五年前までダウィが住んでた村だよ」
「え!?」
「なんだ、あんた。あいつが小さい頃にイーカルに住んでたとかって話も聞いてねえのか」
「あーうん。そういえば」
シグマはダウィの話を疑えと怒っていたけれど、どうやら事実だったらしい。
「サザニア帝国からの侵攻で、保護者を含めた村人全員が死んだんだとよ。
で、あいつは山を越えてウォーゼル王国に逃げ延びた」
「……なかなかヘビーだね」
「こんなの一端だけどな」
確かに、戦争で焼け出された子供の将来は明るいとは言いがたい。孤児であるなら尚更だ。
かつて派遣された北の国境地帯で見た、やせ細った子供達の姿が脳裏を過ぎる。彼らはいずれ飢え死にするか、生きるために犯罪に手を染め、体を売り、大人達からの暴力に曝される。
いつも笑顔をたやさない今のダウィからは想像も尽かないが、人には言えない苦労もしてきたんだろうか。
「さて、そろそろ関所が見える頃だな」
アレフのつぶやきで、レオナは現実に引き戻された。