第2話 刺青
それは遡る事三日前。
王都にあるクレーブナー家の私邸に来客があった。
知らせを聞いて自室を出たファズは、吹き抜けになった玄関ホールの三階部分から客人の姿を認めた。
貴族の屋敷らしく彫刻や絵画で彩られたホールの壁際で、彼は装飾のひとつひとつを興味深げに観察している所だった。好奇心旺盛な彼の事、きっと楽しんでくれているだろうが、それでも待たせるのは良くない。ファズはホールを半周する形で設置された階段を小走りで下った。
「お呼びたてしてすみません」
「いや大丈夫。
綺麗なお屋敷だね。壁の絵のセンスも――これは初夏の中央山脈を描いたものだよね。日差しの眩さと手前の濡れた葉の煌めきがとても爽やかだ」
「お褒めいただきありがとうございます。ここにある物の殆どは三代前に当たる曽祖父の蒐集物です。芸術家のパトロンになったりお抱え画家をこの屋敷に住まわせていたと言うほど芸術を愛した人だったと聞いています。
ああ、そうだ。二階の応接室にお茶を用意させているのでどうぞ」
金髪の異邦人はにっこりと笑って廊下の奥へと歩を進めた。
その背を見送り、ファズは眉を寄せながら階段の最後の一段を下りた。
応接室に案内すると、ダウィはやはり正面の壁に現れた壁画に見入った。
それは先程話題にもしたファズの曽祖父がこの家に住まわせた画家に描かせたフレスコ画。
中央の天井付近では鮮やかな色彩の服を纏った青年が空を駆け、右下では小麦の色をした豊かな髪と豊満な肉体を持つ女性がそれを見上げる。女性の周囲には咲き乱れる花々と果実のなる木が描かれ、それが豊穣の女神である事を表していた。
そんな絵が壁一面に描かれているのだ。
初めてこの部屋に入るものならまず視線を囚われる。
ファズは微笑みを顔に張り付け、ソファを勧めると自分もその向かいに腰をおろした。
ティーカップに角砂糖を二つほど落としてスプーンを操りながら、まずは無難な会話を振った。
「前に会ったのは半年前でしたか」
「もうそんなになる? 確かダールのお父さんが亡くなって少しした頃だったよね。
――犯人はまだ?」
「ええ。敵は大陸を股にかける暗殺集団です。なかなか尻尾を出しません」
すました顔でそう言ってから、ファズはにこりと笑った。
「……なんて、表向きですけど」
「珍しく正直だね」
「本音で言うなら、彼らには感謝しています。だから犯人探しをする気もありません」
「それって言っちゃっていい事?」
私邸の中とはいえ、王の側近が口にするには不適切な発言である。
だが今更ファズにそれを誤魔化す気は無かった。
「前王暗殺の容疑がかかっているのは、片翼の紋章に象徴される暗殺集団――通称『死の刃』。隣国ウォーゼルに本拠地を置くとされていますが、規模も全体像も構成員も分っていません。
前王暗殺の動機についても、わかりません。誰に雇われたのかすら。国内の改革派か、戦の絶えないサザニア帝国か、それとも緊張状態の続くウォーゼル王国か。サザニア帝国やウォーゼル王国の関係者なら戦の火種にもなりかねない事ですけど――」
ここからがようやっと導入だ。
ファズは舌の渇きを誤魔化すように甘いイーカル茶を口に含んだ。
「ところで、『死の刃』がダールが即位してから一度もちょっかいを出してきていないのは何故でしょうか」
「わからないなあ」
ダウィは世間話の続きのように平然と笑い、ティーカップを手に取った。口元まで運ぶその動きで、いつもと変わらぬ生成りのシャツの袖が僅かに下がる。
「……『死の刃』では左手首に片翼の烙印を入れると言いますね」
ファズはダウィのそこをじっと見つめた。
そこにはいつも包帯が巻かれている。
ファズが傭兵のダウィと顔を合わせるのはいつも戦場だったから、包帯は汗が伝って手が滑らないようにするためのものだと思っていた。しかし、ダウィはこうして街中で会うときもそれをつけている。
――まずすべきことは、その下に何が隠れているのかを確認する事。
「手首に印を入れるといえば、もうひとつありますよね。
僕は今、その包帯の下にあるのが『どちら』か気になっています」
握った拳に力を入れながらそう告げれば、ダウィは動じることなく答えた。
「見る?」
こくりと唾をのみ、頷く。
ダウィの金の眼が愉しげに歪んた。
ゆっくり解かれる包帯。その下から現れたのは、『死の刃』のそれとはまったく違う飾り文字の刺青。
マシな方だった事に安堵しながらファズはその刺青の意味を口にした。
「愛と真実と平和――昔の辺境騎士団の証」
深い息を吐き、握った手を開く。
「これ、結構痛かったんだよ」
ダウィは苦笑しながら、その手でポケットを探った。
出てきたのは、鉛色に光る無骨な指輪。中央にはダウィの刺青と良く似た刻印が彫られている。
実物を見るのは初めてだったが、話に聞いたことがあった。それは「辺境騎士団」という名の治安維持組織に属する者の証。
彼らは「騎士」を名乗っているが一般に想像されるように馬に乗るわけでも仕える者を持つわけでもない。ファズは国境を越えた規模の犯罪の取り締まりを行う国際機関だと認識している。他にファズの知っている事といえば、そこに加盟する国は現在大陸東岸を中心に十四カ国。その全ての国に支部を置いているという事くらいだ。
「今は身分証明もこんな指輪一個で事足りるけど、この刺青は……まあ懐古主義?」
「選ばれた人にしか許されないとも聞きましたが」
「良く知ってるね」
「多少は調べましたから」
「一応機密事項のはずなんだけどなあ」
いつもの笑みを崩す事無くダウィは頭を掻いた。
「ダウィが『そちら』なら話があります」
話がようやく本題に至る。ファズは脳裏に友人の顔を思い浮かべながら切り出した。
「国王陛下は――いえ、イーカル王国は、辺境騎士団への加盟を希望します」
「俺みたいな下っ端に言われても」
そう言って話を濁そうとする。
だがファズもここで引く気はまったく無い。
「具体的な事に関しては必要に応じて特使を派遣します。ダウィには、辺境騎士団の団長へ話を通して欲しいんです」
「……難しいなあ」
「加盟が、ですか」
「いや。加盟に関しては他の加盟国が了承すれば良いんじゃない? 戦を繰り返しているウォーゼル王国なんかが『うん』って言うかは知らないけど、そういうルールだから。
でも根本的な問題として、辺境騎士団の本部はそのウォーゼル王国にあるんだよ。だけど、ウォーゼルとイーカルの間に国交がない」
というより、二十年ほど前のイーカルによる一方的な侵略によってウォーゼル側が完全に国境を封鎖している。つまり、辺境騎士団へ使者を派遣するためにはウォーゼルとの国交正常化を先にしなければならないと言う事だ。
その事はファズも国王と何度も話し合った。その上で言っているのだ。
「勿論、そちらもなんとかするつもりです」
「敗戦宣言でもする?」
「侵略行為を謝罪するくらい大した事ではない――と陛下は仰っています」
「賠償金とか凄いんじゃないの」
「当然の事、と」
「太っ腹ー」
ダウィが茶化すように言うのでファズも表情を緩めた。
「陛下がなんといおうと、僕も古狸たちも徹底的に値切る方針ですけどね」
「ふうん……それなら、いいや」
「団長殿に話を通してくれますか」
「だからそれはウォーゼルとの国交正常化が先だって。せめて『それに向けて努力する』くらいの宣言をお互いにしてもらわないと」
「やっぱりそうなるんですよね。わかりました。ウォーゼルに特使を派遣します」
「コネでもあるの?」
その疑問は当然の事だ。
二十年という国交断絶期間は決して短くない。その間に血で血を洗う戦いがあったらなおのこと。国内の有力な貴族の幾人かには確認をしたが、彼の国と個人的な交流があった者達ですらその人脈は完全に途絶えてしまっていた。
しかしそこでファズは東国と縁深い人物を思い出したのだ。その人自身はすでに故人ではあるが駄目で元々と話を聞いてみた。すると――
「心当たりが無いわけでも無いようです」
「ダールの知り合い?」
「いえ、テート家の先代の旧知の方がいるそうです」
「へー」
「その方の元に、レオナがテート家当主として赴きたいと言っています」
ダウィの目が瞬いた。
「レオナが? 行くの?」
「休んでおけと言ったんですけど。こんな時にのんびりもしていられないと言い出しまして」
それを聞くと、ダウィはまた微笑んで鞄の中からなにやら厚手の紙を取り出した。
「まあ、そういう事もあるかなと思ってね。これ。レオナに渡しておいて」
今度はファズが目をむく番だった。
その紙には大陸共通語で「特別通行許可書」と書かれていたのだ。
「……準備が良すぎませんか」
「こう見えてもイーカルの未来を思う一人なんだ」
にこやかに言うダウィと手元のウォーゼル国王のサインを見比べてファズは頭を抱えた。
「貴方は、本当に訳が分らない」
負けを認める発言をするのは嫌いだが、もう完全にお手上げだった。
「僕の許容量を超えすぎです」
もうこれ以上はひとつも情報を見逃さないようにと、ファズはダウィの金色の瞳をまっすぐに見つめた。
「……貴方は、この家に来たことがありますね」