第30話 求婚
いつもの時間にノックの音がした。
初めてお会いした時から二週間。ユリアが襲撃された事件の後処理と、明日に迫った婚礼の支度とで忙しいと聞いているのに、毎晩かかされる事のない日課。
「失礼します――あれ?」
王は部屋を見渡し、首をかしげた。
「カーネリアは?」
「今日は先に休むように言いました」
「こちらについてから息つく暇もなかったし、疲れがたまっていたのかな」
「いえ、そういう意味ではないのですが……」
王はやはり気がつかないようだ。
朴念仁――と、ファズが評していた事を思い出し、ユリアはこっそり納得した。
軽い脱力感を覚えるユリアと対照的に、王はほっとしたように笑った。
「今日は少し席を外して貰いたかったから、ちょうど良かった」
「え?」
王は姿勢を正し、ユリアを見た。
「式が明日だというのに、今更言うのもおかしな事だとは思うのですが、今日は結婚のお許しをいただこうと」
「お手紙をいただいた時に父がお返事したと思いますが――」
だからこそ、ユリアが今ここにいるのだ。
だが、王は首を横に振った。
「ヨシュア王からは、いただきました。
でもまだ貴女からはお許しをいただいていない。
例え国の利害があろうと、結婚するのは貴女と私です。私は貴女からのお許しが欲しいのです」
「それは――」
「まだ……私の事が怖いですか?」
「そ、そんな……あの時は、まだ緊張しておりまして――」
王は安堵の表情を浮かべた。
「毎日お話させていただくようになって、いつも気を配っていただいていることは感じておりました。
とてもお優しくて……その、紳士的な方だと……」
本当はユリアが言いたいことはそういう事ではない。
こくりと唾を飲んで王の眼をまっすぐ見た。また睨まれている。
けれどこの方はこの顔が常態なのだ。今のユリアにはその神秘的とも言えるほど真っ黒な瞳の奥に不安と喜びがない交ぜになった色が見える。
「今は、陛下との婚姻の理由が国益であっても、それでも良い思っています」
「それは了承と受け取って良いのでしょうか」
「例え、陛下がイーカルの王でなかったとしても、私がヨシュア王の娘でなかったとしても……私は陛下のお側においていただきたいと望んだと思います」
王は驚いた顔でユリアを見つめた。
その視線に少しはにかみながら微笑で応え、ゆっくりと口をひらく。
「……お慕い申し上げております。陛下」
* * *
突然動かなくなったダールを潤んだ青い瞳が心配そうに見上げている。
「陛下?」
ダールは今、自分が何を言われたのか理解できないでいた。
――それは今……好きだと言われたのか?
平易な言葉に言い換えても、まだわからない。
――ユリア王女が、この俺を?
まず「嘘だろう」と思った。口の巧さというのは貴族の嗜みのひとつだ。
だが、ユリアは好ましくない話題を煙に巻く事はあったとしてもそういう嘘は言わないような気がする。
――こういう時、何を言えば良いのだろう。どんな顔をすれば良いのだろう。
胸の奥からこみ上げて来る物がある。
けれどそれは言葉にならず、のどを通り過ぎて……目頭が熱くなる。
「所詮は政略結婚――ユリア王女には嫌われていても仕方が無いと思っていました。
私の片思いでも、せめて貴女が不快な思いをしなくて済めばと……」
情けない事に、涙が出てきた。
ダールはこれまでずっと、愛や恋を切り捨てて生きてきた。
言い寄ってくる女がいなかった訳では無いが、彼女たちが好きなのは「王子」であって「ダール」では無かった。地位に恋しているだけなのだから、そこにいるのが自分であろうが木偶人形であろうが構わなかっただろう。
王位継承権を持たなければ自分に魅力が無い事も、ダールは悲しい程に理解していた。
コンプレックスの始まりは長兄だ。文武に優れ、上に立つものの器を持っていた。ダールは彼にずっと憧れていたしいつかは王となった兄を臣下として支えようと思っていた。そんな兄が夭折し、ダールは彼の代わりに次期国王に指名された。当然何かにつけて比較される。兄のようにはなれない事はダールが一番わかっていたというのに。
それでも骨太な兄より顔の造作だけは褒められた。腐っても王家。代々美人ばかりを選んで娶ってきたのだから、全てをぶち壊す目付きの悪さを除けばパーツの一つ一つはそう酷くないのだ。
けれど「神に捧げられた子」たる次兄は同じ血が流れているとは思えない美しさだ。次兄を別格としても、いつも隣にいるファズには逆立ちしても勝てない。甘いマスクも背の高さも細身でありながら筋肉のついたバランスの良い体つきも――いや、見た目だけじゃない。口の巧さや女性のあしらいについてもファズの方が数段上だった。
そのファズに、唯一勝てたのが剣だった。短剣や体術では無理でも、長剣ならばまず負ける事はない。ダールにとってそれは唯一つ他人に誇れる特技となり、武芸を好む父王にも評価されて、気付けばのめりこんでいった。
なのに、その特技すら否定されたのがレオナとの出会いだった。それまではファズや他の軍人に競り負けたとしても身長や体格を言い訳にできた。だが、レオナにその言い訳は通用しない。身長はほぼ同じ。胸囲、腹囲、腕や脚周りはどれも計測するまでもなくダールの方が太かった。
それなのに一本も取れた例がない。
ダールは人に誇れるものを全て失った。
自分でそれを理解しているからこそ、こんなに魅力の無い人間に寄って来る女は自分の地位にしか興味がないと、断定できた。
……だから恋など要らなかった。
初めてユリアを見た時も、美しい女だとは思ったが、そこまでの興味は無かった。それよりも「王女」が無事に戻ってきた事でヨシュアとの無駄な戦に発展せずに済んだという安堵と、何よりレオナの処遇の事で頭がいっぱいだった。
レオナの事が落ち着き、心の奥底にしこりのような物は残ったものの、ようやく肩の荷が下りて……それで初めてユリアという人間と正対した。
美しいだけでなく、気配りのできる聡明な女性だった。ふとした瞬間に「王女」の仮面が取れた「ユリア」という名の彼女は気配りとは違う優しさを持っていて、性根の美しい人なのだと思った。
毎晩彼女と語らう内に、どうしても取れなかった胸の閊えがいつの間にか消えていた。
それに気付いた時、ダールはこれからも彼女と共にありたいと思った。
そしてその人の心が欲しいと思った。
恋愛というものと素直に向き合えなくなってしまっていたダールに初めて訪れた変化だった。
ダールは少し穿った見方をする癖があるが、芯はまっすぐで行動力のあるタイプだ。
自分の心のうちに気付いてからの行動は早かった。
「ユリア王女」
ダールはガウンの袖口に隠していた物を取り出した。
「式に間に合うか不安だったのですが、今日ようやく出来上がったんです。これを――婚約の記念に」
テーブルの上に置いたのは、薄い、両掌に乗るほどの大きさの箱だった。開けて良いかと問うユリアに、顔を赤くしながら頷いた。
「初めてお会いする日まで、この国の象徴であるイーカルグリーンの何かを差し上げようと思っていたのですが」
箱の蓋がゆっくりと開かれた。
「貴女の瞳が、この石の輝きとそっくりだったので……」
箱に収められていたのは、青い宝石のちりばめられたネックレス。
ユリアは息を呑んだ。
「こんな綺麗な青――初めて見ました。これはサファイア……ですか?」
丁寧に磨き上げられ、透き通ったその石は、確かにサファイアとよく似ていた。だが一般的なサファイアより色がだいぶ明るく、微かに碧を混ぜたような色をしていて、その性質自体も大きく異なる。
「この石は『オアシス』と呼ばれています」
「オアシス……?」
「この国を象徴するイーカルグリーンと呼ばれる染物があるのをご存知ですか? それは植物などではなく鉱石と砂漠の中のある地域にしか湧かない特別な水を使った染物です。
オアシスは、その原料採掘の際に極稀に鉱石と共にとれる宝石なのです」
ダールはそこで一度話を止めた。
一番伝えたかったのは、この先だ。
だがそれを口にするには相当な勇気が必要だった。
不自然な間にユリアが首を傾げた。
ダールは覚悟を決めて、これを贈る意味を告げた。
「オアシスという名前は勿論この色から来ているのですが……この国は水が少ないので、オアシスという言葉には『一番大切なもの』という意味もあります。
だから……愛しい人へ思いを伝える時の贈り物に、選ばれるのです」
これを用意したのは、愛の告白のつもりだった。
ユリアにも伝わっただろうか。彼女のようにきちんと言葉にすべきだったろうか。
ダールが不安を覚えながらユリアを見つめると、ユリアは頬を染めながら微笑んだ。
「付けてみても、良いですか」
ユリアは生まれたての雛にでも触れるようにそっとネックレスを手にとった。
大きめの「オアシス」を中心に、青い花か星のように小さな「オアシス」が散らばっている。その石と石を繋ぐのは白金色の小花と蔦の細工。それが一周ぐるりと巡っている。
金具は無い。
ユリアは困ってしまった。
おそらく首の裏に当る部分の花に絡まる蔦の細工が取り外せる箇所のように思われるのだが、軽くひっぱったり動かしたりしたくらいでは取れず、かといって力を入れたら折れてしまいそうな程繊細なのだ。
みかねたダールが手を差し出した。
「私が外します」
「イーカルの方は金属の細かい加工がお上手ですね。見惚れるばかりで私にはまだ金具ひとつ外せません」
「これは少し押し込むようにして外すのです……すぐに慣れますよ」
ダールは簡単にそれを外すと、そのままユリアの後ろに回り、細い首にかけた。
その拍子にユリアの肩先にダールのガウンの袖がかかる。
生成りの生地に縫いつけられた、夏の木々のように鮮やかな緑色のライン。
「この色が……イーカルグリーン、ですね」
そう言って愛おしげに撫でる。
ダールは生唾を飲んだ。
布を介して伝わる、ユリアの指先の動き。
あまりに微かなその感覚に思わず意識を集中すると、くらくらと脳の痺れるような甘い感覚に襲われる。
思わず邪な衝動に囚われそうになり、ダールは鏡を取りに行くふりをしてその場を離れた。
鏡台にあった手鏡を渡すと、ユリアは細工を確かめるように指を這わせた。
「綺麗……本当に、湧き出る泉のような色……」
うっとりと呟き、宝石と同じ色の瞳をダールに向けた。
「あの、似合っていますか?」
「とても」
一瞬とても嬉しそうな顔をした。
なのにすぐその顔が曇ってしまう。
何か悪い事を言っただろうか。それとも言葉が足りなかっただろうか。
ファズのように上手く女性を褒める言葉を知っていれば良かったのだけれど、経験の少ないダールにはこういう時にどう言って良いのか分らなかった。
ユリアは悲しげに俯くと震える声で呟いた。
「陛下……陛下は、私に、触れては下さらないのでしょうか」
思わぬ言葉に、ダールはぴくりと動きをとめた。
「陛下は実直な方でいらっしゃるので偽りを口になさるとは思っておりません。けれど……」
不安なのだ、とユリアは言った。
二週間たっても侍女のいる場所でしか話をしようとしない事が。
手にも触れない事が。
そして、思いを打ち明けてもはっきりとした言葉で返事をもらえない事が。
ユリアは艶やかな金髪の頭を揺らした。そして小さな声で問う。エキゾチックな黒髪と引き締まったスタイルのイーカル女性に慣れたイーカル国王にとって自分では魅力が足りないのだろうかと。
濡れた睫毛の間からぽろりと涙が零れ落ちる。
そんな事がわけがあるわけない。
拒否されるのが怖くて距離を縮める事ができなかっただけなのだ。
ダールは傍らに跪き、おそるおそる手を伸ばした。
頬の濡れた跡をそっと指で拭う。
ユリアの肌はやはり陶器のように滑らかで、それでいて焼きたてのパンよりもずっと柔らかかった。
掌で頬を包むと指先が小さな耳にまで届いてしまう。
衝動に突き動かされるままに淡い金色の産毛の生えたうなじをなぞり細い肩に触れる。引き寄せるとその体は思っていたよりもはるかに薄く――抱きしめたら折れてしまいそうな儚さだった。
オアシスの色をした瞳にから目をそらし、耳元に頬を寄せると、石鹸と香油の混じった匂いが鼻腔から脳の奥深くを刺激する。
「……貴女を……愛しています」
一生縁のない言葉だと思っていたのに、口をついて出たのはそれだった。
どれだけ自分がこの人を愛おしいと思っているのか、自分の言葉で思い知らされる。
頬に触れていたひんやりとしたユリアの耳が、かっと熱くなった。
「へ、陛下っ」
「私の名は、ダール・ウィゾア・ゼタ・サングオムです。――ダールと、呼んでいただけませんか」
「ダール様」
「『様』もなしで」
「だ、ダール……」
愛しい人の声で呼ばれる自分の名は、どうしてこんなに甘美なのだろう。
「あの……ど、どうか私の事もユリアと呼んでくださいませ」
「ユリア」
腕の中の人の名を口の中で転がす。
「ユリア……」
熱に浮かされるようにその名を囁く。
その時、唇に触れた冷たいものは、婚約の記念として彼女に贈ったネックレスだった。
薄く目を開けると愛しい人の瞳のような青い宝石がきらきらと輝いていた。
「このオアシスという石は……採掘時、必ずイーカルグリーンと呼ばれる鉱石に包まれた状態で発見されます。だからオアシスは、イーカルグリーンがその核を包み込み、岩山の圧力から守り育てたのだと言われています」
そしてそのイーカルグリーンは王家を――国王を象徴する色。
「私にも、その宝石と同じ目の色をした貴女を、一生傍で守らせてください」