第28話 面会
客室に案内すると言われても、質実剛健な印象のこの砦を見れば特に期待はしなかった。だが、案内されたその部屋はカーテンなども他の部屋に比べて多少華やかであったし、用意されたリネン類も柔らかく質の良いもの。この国としてはとても気を使われているのだろう。
まして昨晩の木の葉のベッドを思えば……ユリアに文句などつけようもなかった。
汚れを落とし、着替えを済ませると、カーネリアの淹れたお茶を飲む。
イーカル茶とよばれるこの国の名産のお茶だ。濃い褐色のそれは花を思わせる軽やかな芳香を持っていた。
お茶の香りと共に深く息を吸い、無骨なソファに寄りかかる。
ようやく……ようやく、長い旅が終わったような気がした。
カーネリアが足元に跪き、ルームシューズをそっと脱がせる。彼女が手にした香油は母国から持ってきた一番好きな香りの物。
カーネリアの暖かな手がユリアの足にそれを優しく塗り広げる。
四肢――特に腰から下が長時間の乗馬で悲鳴を上げていた。移動中は必死だったからあまり感じなかったが、太ももなどもう限界に近かった。
目を閉じ、カーネリアのされるがままに浸っていると、下肢からじんわりと血行が良くなっていくのを感じる。
穏やかな時間はうつらうつらしている間に過ぎてしまった。
足からすっとぬくもりが抜けていく感覚で目が覚めると、カーネリアが申し訳なさそうな顔をした。
「起こしてしまって申し訳ありません。すぐに休めるよう、私は寝着の支度をして参りますので……」
そう言いながら香油を片付け始めるカーネリアに、それを自室へ持っていくように言う。
「あなたも足が痛いでしょう。寝る前に使えばきっと楽になるわ」
「……ありがとうございます」
カーネリアがにっこりと笑う。
国を出て以来、一週間ぶりの彼女らしい笑顔だった。つられてユリアも微笑んだ。
二人きりになれてようやく私達は私達に戻れた。そう感じた。
そう、あまりに恐ろしい事が続きすぎて、ずっと表情の上に仮面を被っていたような気がするのだ。
――コンコン
扉を叩く音が二人の時間を遮った。
「はい」
ユリアは再び王女の顔に戻り、居住まいを正すとカーネリアに眼で合図を送る。扉はユリアの腰掛けたソファからは見えない位置にあるため、カーネリアと来客の声だけが聞こえて来た。
「お疲れの事と思いますが、お詫びだけでもと……」
よく通る声。聞き覚えがあった。
――陛下?
昼間の、冷たく見下ろすあの眼を思い出し思わず身震いをした。
何の用だろう。「お詫び」とやらは最初に散々聞いたではないか。睨みつけられながら聞く上辺だけの言葉などもうたくさんだ。
それとも謝罪など口実に過ぎず、別の用事だとしたら……いや、「婚約者」が湯浴みを終えた時間を見計らって来るなど、ソレしかないとも言える。
国で聞いてきた「噂」が頭を過ぎった。イーカル国王は元は第三王子。王位を手に入れるために実の父と二人の兄を手に掛けた――ああ。そんな欲望に忠実な男なら、こちらの都合など考える事もないだろう。
しかし相手はこの国の王。断る事など出来ない。
ユリアは戻ってきた侍女に了承の意を伝えた。
「お通しして」
強張る声ばかりは隠せない。
胸に手を当てて深呼吸をしていると、カツカツという足音と共に国王が入室してきた。
「こんな時間に申し訳ありません。
ああ、お疲れでしょう。そのままで結構です」
促され、ユリアは浮かしかけた腰を再びソファに下ろした。
すると王は三白眼を動かし、退室しようとしていたカーネリアを呼び止めた。
「貴女も、この部屋に居て下さい」
カーネリアはきょとんとした。
「いきなり私と二人きりにされては、ユリア王女も落ち着かないでしょうから……」
言い訳をするようにそう言って、再びユリアを睨み付けた。
「別に何かしようと思って来た訳ではないのです。少しお話をさせていただければと……」
王は、ユリアの前に立つと、頭を下げた。
「貴女を危険な目にあわせてしまって、申し訳ありませんでした」
「いえ、あの、お顔を上げてくださいませ」
ユリアは再び腰を浮かせた。
「陛下が悪い訳ではありませんし、私達はこの通り無事です。どうかそんなに謝らないで下さい」
初対面の時と殆ど同じ会話だ。
王が謝罪の言葉を口にし、ユリアが許す。
これはなんの茶番だ。
――でも、なんでだろう。
あの時よりも少し感情が篭っているような気がする。
ややあって、ようやく顔を上げた王の漆黒の瞳がユリアをうつした。
「貴女に何事もなくて、本当に良かった……」
やはり睨まれていたが、昼間とは違って目の奥に安堵の色が見える気がした。
「陛下、どうかおかけになってください」
勧められるままにユリアの向かいに腰掛けた王は、膝の上で指を組むと視線をそこに固定したまま淡々と話し出した。
「王位を継いでから今まで、表立った反乱は何一つ無かったのです。それで油断していました――暗殺者にさえ気をつけていれば良いと。まさかこんな大掛かりな攻撃を仕掛けて来るとは……」
「レオナ様のおかげで助かりました。彼女は……?」
王の表情に、少しだけ戸惑いに似た翳りが浮かんだ。
「医者に傷の手当てをさせて、今は薬で眠っています」
傷は見た目ほど酷くないと聞いてユリアは安堵した。
服を染めていた血の殆どは返り血で、大きな傷は肩の一箇所だけだったのだそうだ。
「彼――いえ『彼女』のことも、いきなりあんな場面を見せてしまって……驚かれたでしょう」
「……心臓が止まるかと」
ユリアはレオナが本当に殺されると思った。彼女は身を挺してユリアを救おうとしてくれた恩人だ。そんな人の命が目の前で奪われるなど許される事ではない。ファズに押さえつけられていなければ、きっと腕にしがみ付いてでも止めていた。
「けじめをつけておきたかったんです。
そうでないと、怒りを、どこにぶつけていいかわからなかった」
王は目を閉じ、深く息を吐いた。
「レオナは私にとって初めて出来た友人で……親友でした。少なくとも私はそう思っていました。
でも、レオナは私に何も相談してくれませんでした。
女性がただ一人、男だらけの軍隊に叩きこまれて、生き延びていくのにどれだけの恐怖を味わったのでしょう。ずっと辛い思いをしていただろうに、すぐ近くに居た私はそれに気づいてやることもできなかったんです。
だからレオナから『自分は女だ』と告白された時に、自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げました。悩みも恐怖も、その辛さを分かち合うことすら出来ずに何が親友だと――
もっと早く知っていれば、私の立場なら、匿うなり新たな戸籍を与えて逃がすなり、何かしてやれたはずでした。
それなのに彼女が何も話してくれなかったのは……心を開かせられなかったのは、私の怠慢と努力不足でしょう。それに……気がつけるチャンスは今までに何度もあったのです。
でも私は――兄のように接してくれる彼女に、甘えていただけだった」
握った拳が真っ白になって震えている。
ユリアは同じように握り締められた手を、つい最近見ていた。
「陛下……レオナ様も、後悔していらっしゃいました。
長い間偽り続けて来た事を。『罪に問われる事で、もう陛下に嘘をつかなくて良いのなら、その方が良い』とそうおっしゃって……多分泣いていらっしゃいました」
「……相変わらず……馬鹿だ……」
苦しげにそう呟く王の顔も、涙も無いのに泣いているように見えた。
やがて何かを払うように頭を振った。
「初対面だというのに、とんだ醜態をお見せしてしまいました」
「最初の印象と随分違ったので、少し驚きました」
「どのような印象をお持ちだったのですか?」
「大変お怒りになってレオナ様に剣を向けられたので……その……怖い方かと……」
「――そう見えましたか」
王は明らかに悲しそうな表情になった。
「国王として振舞う時は感情を表に出してはならないと――あの時も無表情を心がけていたつもりなのですが、ボロボロのレオナを見たら、彼女にあそこまでさせて、また何も出来ないでいた自分に腹が立ってきて――」
「怒りとは――ご自分に対しての憤りだったのですか」
王はそれ以外に何かあるのかと言う顔でユリアを見た。
――さっきからこの方はやけに色々な顔を見せる。
ユリアは気がついた。
ずっと睨まれていると感じていたのは本人の言う「怒り」のせいもあるのだろうが、むしろ目つきが原因で、きつい印象を与える顔立ちに慣れてしまえば、実はこの方はとても表情豊かな人間なのだ。
「いえ……私は勘違いをしていたようです」
ユリアの顔からふっと力が抜けた。
「私の身に危険が及んだ時――陛下は夜を徹して荒地を超え、ここまで駆けつけて下さったと聞きました。
陛下はあの時陛下に出来る全てをして下さったではありませんか。それで十分です。
レオナ様ならきっとそうおっしゃいます」
* * *
目付きの悪い国王が部屋を出ると、扉の前で待っていた側近が影のように寄り添った。
「陛下」
「ん?」
「――どこかすっきりした様子だったので気になりました」
「そうかもな」
ダールは相変わらずの目付きで楽しげに笑った。
「明日の夜にも三人でお茶を飲もうと約束してきたんだ」
「三人?」
「ユリア王女と侍女の……カーネリアさん、だっけ?」
「二人きりという発想が出てこないのですか貴方は」
「どう飾ったって、政略結婚だからさ。俺に出来るのはこんな事しかない。
明日はファズも一緒に……って誘おうかと思ったんだけど、お前カーネリアさんに手を出しそうだからなあ」
「信用ないですね」
「だってそうだろう」
ダールは一瞬廊下を振り返って――レオナの眠っているはずの部屋の方を見て、それから寂しげに付け加えた。
「お前の事だけはわかってるつもりなんだ」
* * *
就寝の支度を整えるカーネリアにユリアは聞いた。
「陛下をどう思う?」
「レオナ様のおっしゃっていた通り、お優しい方なのでしょう」
カーネリアの目にもそう見えたのか。
ベッドに横たわって、ユリアはそっと目を閉じた。
最初の印象が非常に悪かったが、内に秘めた自責の念や葛藤を知ってしまえば、苛立ちや舌打ちの理由も分ってしまう。
「――そうね。きっとお優しいの。そしてご自身に対してとても厳しい……」
「ユリア様」
カーネリアはランプの火を消す手を止めて言った。
「陛下は、私の事を呼び止めた時、『おい』でも『お前』でもなく――『貴女』とおっしゃったんです」
この国では侍女という肩書きしか持たないカーネリアには信じられない事だった。
「イーカルは……ヨシュアで聞いていたのとは、だいぶ違う国なのかもしれないわ」
ユリアが呟くと、カーネリアも頷いたようだった。
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」