第21話 身体
お休みと言って両親の部屋を出る。
薄暗い階段を上り、左の扉。色褪せたリースの飾られた扉を開いた。
母は毎日換気をしてくれていたようだけど、それでもどこか埃臭い部屋。粗末なベッドにかけられた下手くそなパッチワークのカバー。裁縫道具が乱雑に詰め込まれた籠。芯の短くなった蝋燭。
家を出て行った時と変わらないそれらを目にして、懐かしさが胸にこみ上げる。
両親は、戦に出たきり戻ってこない娘が「レオナ・ファル・テート」である事に気付いていた。
遠い王都から娘の噂が流れてくるたびに肝を冷やし、案じていたと、涙を流しながらそう話した。
だが村でその正体に気付いている者はさすがにいない。そりゃあそうだ。村から出征して帰ってきた者のない戦。安否不明のレオナも当然死んだと思われている。
ただ一人――レオナの剣の腕を知っている師匠を除けば。
彼は時々両親の元を訪れては、話を聞いてくれていたらしい。
「師匠には……会いたかったな」
遠く西の空を仰ぐ。
星々の途切れた辺り。村はずれの丘の中腹にその人の家はある。
目を凝らせば微かに見えるオレンジの灯りにほっと息を吐いた。
母の守ってくれたこの部屋と同じように、ここから見る景色も村を出た日と変わらない。ずっと、変わらない。そう、弟とはしゃぎながら新しい友人の家の灯りを探した日とも、求婚を受けて眠れぬ夜を過ごした日とも。
遠い昔の話だ。
でもその家は、レオナにとって特別な場所で。
今も目を閉じれば去来するのは切なさと甘さと、それから――
レオナは頭を左右に振ると、両手に力を込めてやや持ち上げ気味に窓板を引いた。この窓は窓枠が歪んでしまっていて閉めるのにコツがいるのだ。
蝶番の軋む音と共に暗闇が戻る。
数年前まで自分の全てだった小さな世界。それがこの部屋。
我ながら、よく生き延びることが出来たものだ。
周囲の助けがあったからというのも勿論ある。だが、一番助けられたのはきっと剣の腕。
幼い頃から弟や幼馴染と共に体に叩き込まれたお陰で、どんな乱戦の中でも死なずに済んだのだ。
だから、レオナに生き残る術を教えてくれた師匠には会って直接感謝を伝えたかった。もう一人の父とも言える師匠に、これまでの事を全て話してしまいたかった。
きっと師匠なら、最後まで話を聞いた後、黙って頭をなでてくれるだろう。そう。あの人とそっくりな大きな手で……
ざわめく鼓動を抑えようと心臓の辺りに置いた指が、ささやかな双丘に触れる。ずっと晒で押さえていたからとても久しぶりの感触だった。
――やわらかい。
大きいとはいえない。むしろ晒を外している今でも服の上からでは殆ど分らないサイズだ。
その上、鍛え上げられた体はどこも固く締まっていて、とても魅力的とは思えない。
だが、その感触だけは自分が女であると主張していた。
* * *
見張りを買って出たアレフを探して家を出た。
玄関からは見当たらなかった。だから壁に沿って歩いてみれば、すぐに家の横手の荷物置き場で村の方を眺めているのを見つけた。
レオナの家は村と山との間にあるため、ここなら村へ続く道を見渡せる。それに間にはそれなりの広さの畑があるため、誰かが近づいて来ても身を隠す場所がない。確かに見張りには最適の場所に思われた。
「何だ。親子水入らずはどうした」
近づいてくるレオナに気が付いたアレフが拍子抜けたような声で聞く。
「さすがにもう寝たよ」
レオナは湯気の立つマグカップを差し出した。目覚ましの効果もある薬草茶だ。夏も近いというのに、この村の夜は王都よりもずっと涼しい。
「老けたよなあ……」
三年。たった三年。
母の白髪はあんなに多かっただろうか。父はあんなに痩せていただろうか。
「寂しかったんだろ」
そう言ってアレフは、ずずっと音を立ててお茶を啜った。
何気なくその仕草を見ていて、カップを持つ手の中にあるものに眼をとめた。
白い紙、に見える。
ただ、そんなに白い紙はこの辺りではあまり手に入らない。
「何それ?」
アレフは少し考えてから答えた。
「……タイがな。ダウィからの手紙を届けに来たんだ」
タイはダウィの飼い犬。人間の言葉がわかるのかと言うほど賢い犬だ。レオナも過去に何度かその犬が飼い主からの手紙を配達する姿を見ていた。
「へえ。何書いてあったの」
「現状と追っ手の事だな」
追っ手の事と聞かされれば、レオナの表情が変わる。
「見せて」
「読めんのか」
「馬鹿にするな」
前は読めなかったけれど、これでも随分勉強したのだ。
アレフが差し出すその紙をかっぱらう様に取り上げた。
「……これ、暗号?」
「共通語だよ。だから言ったのに」
呆れた様に言うアレフにレオナは手紙を返した。。
イーカル語と大陸共通語は音や文法は比較的似ているのに、文字はまったく異なるのだ。そして、ただでさえ読みにくい上にダウィのそれはやや癖のある筆記体。レオナにはぐねぐねした記号にしか見えなかった。
「あいつはソメイク人だからこっちが普通なんだ」
そう言われてみれば、こんな字で書かれた本を読んでいるのを見た事がある。
「まずな。ファズやあんたのメイドたちは無事だそうだ。鉄の谷は制圧された」
「良かった」
「追っ手は一組――だが十人。街道沿いにそれらしい女を探し回っている。今はバルトルのあたりの森で野営をしているそうだ」
「思ったより早い」
坑道を抜ける道を使っている分、大回りの街道より分があるはずだったのだが……
「盗賊の類を使ってるらしい。土地勘があるんだろ。
しかし王女サマも疲れきっているし、ここからの距離を考えると今は馬も休ませておいた方が良い。明日の朝一に発って、一日休まず移動出来たとして……バシュタ城に着くのは明後日の昼過ぎだな」
「オレ達はあまり早く移動できないだろ。逃げ切れるかな」
「城までとなると正直厳しい。
だが、隣町に軍の詰め所があるんだろ。そこで助けを求めれば」
「軍内部に裏切り者がいる。特にあの詰め所に居る第五連隊――鉄の谷の警備を担当していた連中は怪しい」
そいつらに気付かれずにあんな大掛かりなトラップは仕掛けられないだろうから。少なくとも複数人……全員が関与している可能性もある。
今思えば将軍も何か怪しむ要素があったからこそ、本来王女の警護に向かうはずだった第五連隊を外してレオナ達をねじ込んだのだろう。
「……軍服を着てるからといって味方とは限らないってか」
「殿下の安全の為には、オレ達の手で確実に城まで送り届けないと」
「まあ、難しく考えるな。城に近づけばファズやお前の部下に拾って貰える確率があがる。あいつらは信用できんだろ」
「ああ」
それを考えればこちらにも勝機はある。
「幸いなのは、今使える向こうの手駒はそう多くないだろうって事だな」
「なんで言い切れる」
「坑道を出てから追っ手に遭遇していない。人数が多ければ、ゴンドラや大きな出口なんかの要所は押さえておくだろ。
つまりあの馬車を襲ってきたのがほぼ総攻撃だった」
「まあ。敵さんもできれば一戦で終わらせたいだろうからな」
「追っ手はあの戦いから落ち延びた連中だけ」
ダウィの言う十人というのがその人数なのだろう。
「ただ……あの場所から逃げ延びたって逃げ場は坑道にしかないんだよな。あの迷路を抜けられるのはあそこで働いた経験があるようなヤツだけだ」
「纏めると、追っ手は『人数は少ないが、土地勘があり、かつもう手段を選んでいられない連中』って事か」
怖い怖いとアレフは首をすくめた。
レオナは爪を噛み、闇に包まれた村の方――追っ手の居るという方角を睨んだ。
「何考えてやがる」
アレフがマグカップを弄びながら問う。それに対する答えは簡潔だ。
「追っ手を足止めする方法」
「命に代えてもはナンセンスだぜ」
「わかってるよ。でも――」
「寝とけ、お前も疲れてんだろ。夜明け前には起こしてやるから」
「お前はどうするんだ」
「寝ないのには慣れてる」
正直くたくただったのでその言葉に甘えたかったが、見張りは一人より二人の方が良いだろう。迷っているとアレフは「ほら」と肩に手を置き、レオナを家の方へ向かせた。
振りほどこうとその手に目をやって――レオナは何かを見つけた。
思わず肩に添えられた手を握り締める。
「なんだよ」
怪訝そうな声でアレフが問う。
「この怪我どうしたんだ」
ひっこめようとする手を両手で押さえ、袖を捲り上げると夜目にもわかるほど手首にくっきりと縄の跡。
強引に襟元を開くと打撲痕や無数の擦り傷まで出てきた。
どれも新しいものだ。
「なんでもねえよ」
「なんでもって――」
これは明らかにリンチか拷問だ。
傷を確認するため、アレフの肩の辺りを押さえた。
「――ッ!」
そこまで力を加えたつもりもないのに、大げさな仕草で顔をしかめるアレフ。
レオナは力ずくでシャツのあわせを広げた。
そこには思わず眼をそらしたくなるほどの生傷。
「……まあ、しばらく夜遊びにゃいけねえなあ」
「そういう問題じゃないだろ」
「もう大して痛くもねえし、骨もイってねえし」
「薬――」
家に戻ろうとするレオナをアレフが引き止めた。
「もう塗ったから必要ない」
「でも」
レオナの頑固さを知っているアレフは、すぐに諦めたように溜息をついた。
「それなら背中だけ塗ってくんねえ? 手が届かなくてそのままだったわ」
そう言って軟膏の入った容器を取り出した。
シャツが農具の上に放り投げられ、上半身が露になる。ファズと同様着やせするたちらしい。鍛え上げられた筋肉に月明かりが落ちて影ができる。
しかしその表面は、想像以上に傷だらけだった。生々しい大きな傷は少ないが、すでに瘡蓋に覆われた擦過傷が肩と腰周りにあり、転んだと言い訳するには大きな打撲痕が腕や腹を中心にいくつもある。
そして薬を塗れと向けられた背中側には、鞭で打ったような跡まで――
「染みる?」
レオナは傷の一つ一つを埋めるように薬を塗っていった。
「平気平気」
「なあ、アレフ」
しゃがみこんだ背中に話しかける。ここから見えるのはこの傷だらけの背中と真っ黒な髪だけだ。
「お前ってさあ。後腐れなく女抱けんだろ」
「……時々ヤな言い方するよな、あんた」
そうは言うが否定はしない。
「ああでも、姫様とかあの侍女みたいなのは駄目だぜ?
面倒臭え事になるから、初物と純情そうなのには手を出さねえって決めてんだ」
「ならさ、オレ、抱いてよ」
「は?」
アレフは体をひねってレオナを見上げた。
冗談という顔ではなかった。
しかし色っぽい表情でもない。
「何考えてんだよ、あんた」
「いざとなったら、こんな体でも武器になんだろ?
――嫌なら良い。気分の問題だから」
薬を投げて返し、背を向けたレオナの肩をアレフが掴んだ。
そして普段のアレフからは想像できないほどやさしく引き寄せられる。
「命の無駄遣いをしないっつーんならいい」
レオナの耳元で低い掠れ声がそう囁いた。