第20話 シェジーク
――追っ手か。
すぐ近くで止んだ蹄の音に、レオナは飛び出すべきか否かを考えた。
たった一人で王女を守る為にはできる限り交戦しない方がいい。だが、この場所で馬を止めたのが偶然でないとしたら。ここに隠れている事に気がついているなら襲われるのは時間の問題。ならば敵が抜刀する前の今が好機だろう。まずは気付かれないように相手の武器や力量を推し量って――木の陰から向こうを窺おうとしたその時、
「隠れてないで出て来いよ、レオナ」
静かな山道に響いたのは聞きなれた声だった。
所々掠れた様になるその声に「何故」と思いながら剣の柄をもう一度握り直し、そっと顔を出す。
レオナの予想通り、馬は二頭。そのうちの一頭は空の鞍を載せていた。そして、もう一頭に跨る黒い服の男は……
「アレフ! お前なんで――」
「あんたがこの道を来るだろうっつーから迎えに来てやったんだよ」
「そんな事、誰が言ったんだ?」
ファズにも部下たちにも、この道の事はおろかこの辺りに詳しい事すら言っていないのに。
この先にある村がレオナの故郷だと知っている者と言えば……
「そりゃ、あんたの戸籍を書き換えたヤツ以外いないだろ」
アレフはそう答えてから、一瞬「しまった」という顔をした。
「お前、ダウィと知り合いだったのか!?」
「……そこに居るのが王女サマか?」
質問をはぐらかして、アレフは岩陰からはみだす黒いスカートを指差した。
「途中まで送って行ってやるから乗せろ」
呆然と立ちすくむレオナを他所に、馬と馬とを繋いでいた縄が解かれていく。
今のこの状況が理解できない。
何がどうしてこの男がここにいるのか。
この男とダウィはどういう関係なのか。
だが、こんな奴でも貴重な助けである事には変わらない。確かにこの男は不審者ではあるが、ファズの親族であるのは事実だ。それに、以前レオナの立場が危うくなった時にアリバイを買って出た事もある。一応こちらサイドの人間なのだろう。そいつがレオナの恩人でもあるダウィに言われて来たというなら尚更。
息を吐いた瞬間に、視界が滲む。
王女の手前、ずっと表に出すことはできなかったがレオナだって不安だったのだ。
知った顔が目の前にあれば涙腺が緩んでしまうのも仕方が無い。仕方が無いのだ。
「……不細工」
「うるさいっ」
袖口で目尻を擦り、アレフを睨みつけながら手綱を受け取った。
「ユリア殿下はオレが乗せるからな」
「乗馬下手だって言ってなかったか」
「普通には乗れるよ! それにお前の馬なんかに乗せたら何されるか分ったもんじゃない」
「俺が何するっていうんだ」
「女と見たら誰彼構わず手を出す癖に」
「それはファズだ」
「お前だって似たようなものだろ」
最後に一睨みして口論めいたやり取りを切り上げる。そして、岩陰から不安げにこちらを窺っていた二人を呼び寄せた。
* * *
「山道なので揺れるかもしれませんが」
そう言いながら馬に出発の合図を出した。
勿論レオナの馬に乗せるのは王女だ。
侍女を乗せるアレフには「どさくさに紛れて触るなよ」ときつく言い含めてある。
罵りあいながら山道を登る二人を見比べ、王女が小さな声でそっと囁いた。
「あの方は、部下の方……ではないのでしょうか?」
確かに軍人には見えないだろう。
「私の部下にあんな下品な奴はいません。あの男は……」
声を潜めたやり取りなのに、地獄耳のアレフは口を挟んでくる。
「通りすがりの良い人です」
「いけしゃあしゃあと!
あー……あれは、信用してはいけませんが、敵ではないはずです」
「信用しろよ」
「無理」
視線をやらずに冷たく言い放った。
だがこんな事で堪える奴じゃない。アレフはレオナの隣に並んで無遠慮に頭の上からつま先までをじろじろと見た。
「――あんたなあ」
「何だよ」
「せっかく女装してんだからスカートの下にズボンはくのやめろよ」
「オレの勝手だ」
やっぱりこいつの事は信用するものか。
「あんたが生まれたのって、この先の村なんだって?」
アレフがそんな事を言い出したのは山の山頂を過ぎ、下り坂に差し掛かった頃だった。
なだらかな傾斜のその先に新緑の果樹園が広がっていて、まだ小さな点のようだがぽつりぽつりと人家も見える。
「良く知ってるね。それもダウィから聞いたの?」
二人の関係を聞きだしたいから水を向けたのだが、やはりそこは無視された。
「一度も戻ってねえんだろ。通り道だ。墓参りくらいしていけ」
「墓参りって誰の」
「あんたの」
<レオナ・ビル・ゲウィル>
そう刻まれた簡素な墓が山の中腹の墓地の片隅にあった。
母が時々来ているのだろうか。少し萎れたシェジークの花が手向けられていた。
「何で徴兵ん時にバレなかったのか、ずっと気になってたんだよな」
墓の前に跪くレオナの背中にアレフが言葉を投げかける。
「あんたはいつも『レオナ・ファル・テート』って名乗っちゃいるが、戸籍上の名前はレオナ・ビル・ファル・テート。養子に入る前の名前はレオナ・ビル・ゲウィル。そこの墓の主の名前だ」
返事が無くてもアレフは構わず続けた。
「その双子の姉が四年前に赤熱病の流行で死んでんな。レオナ・イル・ゲウィル――これが、あんただろ」
「……死んだのは、レオナ・ビル。弟の方だよ」
それは後で知った事だった。
レオナがテート家の養子になる事が決まった時、戸籍を確認したダウィから聞いたのだ。
弟ではなく、自分が死んだ事になっている、と。
姉弟は一文字違いのスペルな上に、自分の名前すら碌にかけない母が書類を書いたのだ。読み間違えられたとしても不思議はない。
「父がさ、子供にはどうしてもレオナってつけたかったらしいんだ。男ならレオナ・バルディッヒ公爵のように雄雄しく。女なら月の女神レオナのようにつつましくって。
だけど双子が生まれちゃったから、オレがレオナ・イル。弟がレオナ・ビルとつけられた。
……でも、性格は逆に育っちゃってね」
レオナはゆらりと立ち上がり自嘲した。
――レオナ・イル。君はもう少しお淑やかにした方がいいよ。
――レオナ・ビル。黙ってみてないでレオナ・イルを見習えよ。
まだ「三人」が揃っていた頃はいつもそう言われたものだ。
脳裏に蘇るその懐かしい声は、幼馴染の彼のもの……
<グウィン・クロムウェル>
弟の墓のすぐ隣。同じように簡素な墓にはそう刻まれていた。
墓標の前に添えられたシェジークの花の紫色がじんわり滲んで見える。
ルティアもファズも、もう過去の恋を引きずっていないだろうと言ったけれど、レオナもそれに頷いたけれど――そんなの嘘だ。
だってこんなに胸が痛い……
レオナはその墓の前に跪いて泣き崩れた。
「それが、あんたの恋人の墓か」
アレフの呟く声が背後から聞こえたが、頷く事すら出来なかった。
血塗れのシャツが一枚埋まっているだけの飾りのような墓。
レオナの知らない遠くの戦地で亡くなった婚約者。
普段は辛辣な言葉でからかってくるアレフも、事情を知らぬ王女と侍女も、露と消えた最愛の人を思って泣く背中を黙って見守っていた。
やがて号泣はすすり泣きに変わる。
ひとしきり泣くと、レオナはいつも身に着けている手首のチェーンを引きちぎった。
もう二度と離れないように。
そう祈って結びつけたチェーンだった。
「もう、終わりにするから」
四年間肌身離さず持ち歩いた彼の遺品に口付け、紫の花の脇にそっと置いた。
「もう、終わりにするから……レオナ・ファル・テートも、お前との事も」
長い沈黙のあと、レオナはかすれた声でつぶやいた。
「……ありがとう」
* * *
村外れのその家についたのは、日もだいぶ傾いた頃だった。
門柱代わりのシェジークの木から芳しい匂いが辺りに漂っている。
馬の嘶きに、何事かと出てきたのは質素なワンピースにエプロンを付けた小柄な中年の女。
女は扉を開けた所で、動きを止めた。
少し釣り気味の茶色い目が驚きで丸くなる。
「レオナ・イル!?」
女は悲鳴のような声で娘の名を呼んだ。
それはレオナの母だった。
「ただいま、母さん」
涙を流しながら抱きつく母の背を撫で、白髪の交じった茶色い髪に顔を埋めた。
久しぶりの母の匂い。
土の匂いとパンの匂いが交じったような懐かしい匂い。
ずっとこうしていたいけど、今は追われている身。そういうわけにもいかない。
レオナは母の耳元で囁いた。
「あのね。私、今はイーカル軍にいるんだ。事情があって移動中なんだけど、今晩泊めて貰えるかな」
「ええ……ええ……」
まだ混乱しているらしい母は頷くばかりだった。
レオナがそっと体を離すと、ようやく他の人間の存在に気付いたようだ。レオナの後ろに隠れるように立つ人影に眼を瞠る。
「この人達は……?」
例え侍女の姿に身をやつしていようと、田舎の女には侍女服ですら高価な物だ。
ましてそれを身に着ける人がユリアであれば……この国ではあまり見る事のできない金の髪に青い瞳のたおやかな女性であれば、只者ではない事は一目で知れる。
だが、説明する事は躊躇われた。今後この件がどう処理されるかわからない。レオナの軽挙で王家の悪い噂を流す訳にはいかないのだ。だから――
「匿って欲しいんだ」
レオナは軍隊で身に付けた有無を言わせぬ視線で押し切った。