第5話 襲撃
ダールは深く息を吐いた。
これから、だ。
あの角を曲がって三つ目の扉。
夜中に先触れもなく訪ねて来た息子にあいつは驚くかもしれない。だが、決して警戒させてはならない。こちらの緊張を見せてはならない。
話題は……そう、母上の墓参りなんかどうだろう。
先月の命日には行けなかったから、月命日の明日行こうと突然思い立った。ついては明朝早くに出立したいので、こんな時間ではあるが挨拶に来た……と。
大丈夫、あいつは「イイコ」の息子の事を疑ったりはしない。
ダールがもう一度深呼吸をし、歩き出そうとした。その時、
「何をなさるおつもりですか?」
背後の澱んだ空気の中から、聞きなれた――時折わずかに掠れる声が問うた。
燭台を向けると、そう離れていない場所で何かが動いた。衣擦れの音が近づいて来る。やがて質量を持つかのような闇をその身に絡ませ現れたのは、やはりよく知った人物――ファズだった。
「何を、なさるのですか?」
暗緑色のガウンのポケットに両手を突っ込んだままファズはもう一度聞いた。
「お前こそ、こんな時間に何をしている」
「『こんな時間』ですから。女性の寝所からの帰りという以外にどんな理由があるでしょう」
おどけた口調の割に目が笑っていない。
「近道のために中庭を抜けてきたら、渡り廊下の向こうに殿下の後ろ姿が見えましたもので、こっそりついて来てしまいました。
……それで、貴方はどちらへ?」
「俺は、母上の墓参りについて父上に相談をと」
「ああ~。そうなんですか」
ファズは白々しい口調で続けた。
「そう言えば先月が命日でしたね。亡き王妃様には僕もとても目をかけていただきましたが、この数年はなかなか墓所へ伺う事ができておりませんでした。今回は僕もご一緒させていただきましょう。これから陛下の元へいらっしゃるのでしょう? お伴致します」
「あ、いや――まて」
「……ねぇ、ダール?」
ファズはやはりポケットから手を出そうとしない。
そしてそのままの姿勢でダールに近づくと、自分より身長の低いダールの顔をのぞき込むように背をかがめた。
「僕は──僕とレオナは、貴方の友人です。だけど、友人である前に貴方の配下です。僕らにとって主は貴方以外にありえません。
貴方の為なら喜んで犠牲になると、その気持ちはあの日から変わっていません」
いつになく真剣な瞳で見つめられる。
忠臣としての彼と友人としての彼。二つの姿がぶれて見える。
普段とは違うまっすぐな視線に、ストレートな敬愛の情の表現に、思わず目頭が熱くなるが、溢れ出ようとする何かを無理矢理抑えつけ、王子は長身の従者の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ありがとう。ファズの気持ちは嬉しい。だが、やはりこれは……」
「いいえ、殿下が何と仰ろうと、僕はお伴致します」
ファズの瞳が燭台の炎で妖しく揺れる。
「それからですね。もしお二人のお話の途中で、僕の気がふれるか何かして暴れ出すような事があったとして、その結果誰かが怪我をしたとしても、それは殿下には関係の無いことですから」
「…………」
頷くことをしないダールをみて、ファズは用意していた言葉を口にした。
「参考までに。
モーリツ・ファル・ヴェレッシュという男をご存じですか?」
突然振って沸いたように出てきた名前。それは王宮に出入りする事は殆どない若い地方貴族だ。
「名は聞いたことがある。耳聡い者の間ではクーデターを企てているという噂があると」
「僕の祖父の再従兄弟の義弟です」
「遠いな」
ダールは苦笑する他なかった。
「一昨日、面識は作っておきました。調べて下さい」
何か起きた時には、その理由をこじ付けろという意味だ。ダールは元々鋭い目付きを更に鋭くさせる。
「だからお前を巻き込むつもりはないと――」
「そんな事、あの花の種を埋めた時から覚悟していた事です。
――あの日の約束、覚えていらっしゃいますか?」
「……『この国に、真の平和を』」
ダールの返答に、ファズは年の離れた弟を見るような目で微笑んだ。そして、我が侭を言う弟を諭す時のように続ける。
「例えば……王が突然崩御したら、この国は混乱するでしょう。それは『真の平和』ですか?」
「…………」
「『その後』のこの国にはまとめる人間が必要です。
それは、僕でもレオナでもない。そして親殺しの大罪を背負った王子でもない」
ダールは黙ったまま、ファズを見返した。
ファズはゆったりと微笑んだままだ。
「……俺は今、初めて俺が従者でお前が王子であったらと思ったよ」
「僕は、貴方のそういう所が大好きです」
* * *
ノックの音が闇の中で反響する。
一秒……二秒……随分待ったが返事は無い。
自らの心臓の高鳴りだけしか聞こえない静けさ。
緊張も相俟ってなおさら時間が長く感じられる。
「……寝ている……にしては、時間が早いか」
先程すれ違った従者に、王が自室に居ることを確認している。
留守でないなら何がしかの反応があるだろうとダールは首を傾げ、振り返る。
「行事が続いてましたから、お疲れなのかもしれません。
いかがいたしましょう? 起こして予定通り『お話』しますか、それとも、忍び込みますか?」
ファズが声を潜めて聞いた。
「忍び込むか──ああいや、それはまずいな。起こした方がいいのか」
緊張のため一瞬冷静な判断が出来なくなっていた。
控えているであろう護衛たちにダールは敵意を持って近づいたのではないという事を示した方が良い。
すこし落ち着いた様子のダールを見て、ファズがよくできました、と笑う。
「開けるぞ」
ファズが小さく頷くのを確認してから、ダールは扉に手を伸ばす。
カギは掛かっていなかった。
微かな音を立ててノブが回る。細心の注意を払い、扉を開いた。
扉の向こうは応接室であったが、そこにはもう灯りは無かった。
燭台を差し入れて様子を窺えど、やはり王の姿は無い。それどころか──
「……警護の者も誰もおりませんね……」
王は続きの寝室だろうか。
ダールが燭台を持ち上げて右奥のドアを指し示し、ファズがそれに応じて身体の向きを変えようとした、その時、
「──?」
「どうした?ファズ」
数歩前を行くダールは上体をひねってファズの顔をのぞき込んだ。
「しっ……何か、気配が」
それに、頬を撫でるように過ぎる風に嫌な匂いが混じっている。
二人は辺りを見回した。
それは二人が窓の外から聞こえる犬の声に注意を逸らした、一瞬。
「──危ない!」
先に気が付いたのはファズだった。
ダールの側に駆け寄りながら、ポケットから両手を抜く。
──キン!
頭に響く甲高い金属音。
そして、ファズの目の前には『何か』がいた。
まず目に入ったのは銀色の光。それが刃だと気が付いたとのは、自室を出る前にポケットに忍ばせておいた短剣で二度目の攻撃を跳ね返した後だった。
「くっ」
短剣を通して腕を伝わる重みに思わず息をもらした。
強い。技も速度もなかなかのものだ。しかしそれに関してはファズにも自信がある。恐れる程では無い。だが、相手はファズ以上に力が強かった。筋力の差は持久戦に持ち込まれた時に不利に働くだろう。
ファズは攻撃に出る事にした。
刃が三度目に閃いた時。ファズは腰をかがめてその切っ先を避けた。そして、そのままの体勢で右腕を跳ね上げ、刃を握った敵の腕を遠ざける。僅かにバランスを崩したその瞬間を逃さず、ファズは腹の辺りを思い切り蹴飛ばした。
よろけた襲撃者は背後のテーブルにぶつかり、上に乗っていた物が派手な音を立てて飛び散った。
腰でも打ったのか床の上でうめき声を上げる影にすかさずのしかかり、留めを刺すべく、短剣を握った左腕を勢いよく振り下ろす。が、それはギリギリのところで空を切った。
襲撃者は身をよじり、紙一重でかわしたのだ。そして次の瞬間にはファズの身体を押しのけ、窓を背に体勢を立て直す。
窓は、開いていた。
ファズがそれに気が付いた時には、影はその開いた窓から外に飛び出していた。
慌てて追い掛け、窓から身を乗り出して周囲を見渡すが、新月の暗闇の中では、さっき吠えていた犬の姿すら見つける事は出来なかった。
「ダール、怪我は?」
諦めて屋内に戻り、ダールの元に駆け寄る。
「いや、大丈夫だ。お前こそ」
「……ああ、ちょっと右腕を掠ったくらいです」
蝋燭の灯で照らすと、ガウンが濡れたように染まっている。
「掠ったってお前……」
ダールが口を開いたその時、
「何事ですか? 今の音はいったい……」
先程廊下ですれ違った従者が、騒ぎを聞きつけて入ってきた。
ランプの明かりが部屋の中をうっすらと照らし出す。
「ダール殿下! どうかなさいましたか、こんなに散らかって……」
ダールに近づいてくる、その途中で従者は立ち止まった。
「あ、あれは……あれは、一体何なんです?」
従者の見つめる方向に目を転じると、窓の側、ソファの蔭になった場所に、人の足とおぼしき物が出ている。
「……父上……!」
ダールは呆然としながら呟いた。
それは国王の変わり果てた姿であった。
切り裂かれた喉を中心に、辺りが粘性を持った液体で濡れていた。そして、見開いたまま瞬きもしない目。
それがとっくに事切れているという事は誰の目にも明かだった。