閑話 ジャガイモのチーズ焼き
そろそろこの荒地にも雨が降るという。
そんな話を聞いた頃、レオナは副連隊長のシグマに呑みに誘われた。
国王の身辺に不審者が現れるようになってから、何かと立て込んで足が遠のいていた行き着けのバーへ行こうというのだ。
断る理由は無い――それでも、少し返事を躊躇った。
ちろりとうかがえば、不機嫌そうな顔で見下ろされる。
一見いつもと変わらない様子だが、じっと見つめていれば目が泳ぐ。
「……何か裏があるよね?」
おかしいと思ったのだ。
偶然店で会って一緒に呑むという事は珍しくない。しかし、もともと誰かとつるむタイプではないこいつに誘われる事など今まで一度も無かった。
問い詰めたら、バーの女主人に「たまにはレオナを連れてきてよ」と頼まれたのだと白状した。最近顔を見せないレオナの事を心配してくれているらしい。
それならそうと最初から言えば良いのに。少し嬉しくなって、二つ返事で頷いた。
「もちろん行くよ!」
「夕方の鐘の頃に正門前で良いか?」
「あ、あー……今日は午後に剣術教室に行く約束があったんだ。先行っててくれる?」
「お嬢ん所か。わかった。じゃあバーで」
「悪い。ここんとこ忙しくて顔出せなかったからさ。まあそんなに遅くならないと思う」
そんな話をしながら、シグマに手を振った。
* * *
レオナは背後を気にしつつ扉を開けた。
重い扉が微かに軋む。
そしてその次に
――カランコロン
ドアベルが軽やかな音で新たな客の来訪を告げた。
カウンターの向こうの女主人と目が合う。手を上げて挨拶すると、満面の笑みで「いらっしゃい」と声をかけてくれる。
その声で、カウンターのいつもの席を陣取って居たシグマがこちらに気付いた。
「おせぇぞ、レオ――」
文句を言おうとしていた口が、途中でポカンと開いたままになった。
「お、お前! なんでお嬢連れて来てんだよ!」
シグマはレオナの背後を指差して叫んだ。
そこには煙草にけぶった店内に似つかわしくない華が咲いていた。
「いや、ルティアにシグマと呑むんだっつったら『連れてけ』って聞かなくて」
レオナの背後に隠れるように立っていたお嬢様がひょこりと顔を出した。
「こんな店に来る女は商売女だけだ! 育ちの良いお姫様の出入りするとこじゃねえ!」
シグマが怒鳴ると、店中の視線を一身に集めたルティアが頬を膨らせた。
「やだわ。私だって自分の身くらい守れるわよ」
「お嬢がチンピラくらいぶっ飛ばせる馬鹿力なのは知ってる! モラルの問題だ! 行くぞ!」
シグマは飲みかけのグラスをそのままに、こちらへ向かって歩いてくる。
すれ違い様に「どこへ」と問えば、荒げた声のまま答えが返ってきた。
「ここ以外のどこかだ!」
予想はしていたが、シグマの機嫌が最高に悪い。いや、この場合最低というのだろうか。
思わず余計な事を考えて現実逃避をしてしまう。
元々子供が泣き出すような顔のシグマだが、こういう時は大人ですらびびって道を譲ってしまう程凶悪な顔になる。そのシグマが先頭を歩いているお陰で、こんな人混みだというのにすいすい歩けるが、歓迎できる事態ではない。
レオナは、隣を行くルティアをちらりと見た。
可憐なお嬢様もまた、今は機嫌が最大限に悪く、桜色のほっぺたを膨らませていた。
「……だってレオナがいつも褒めてるジャガイモのチーズ焼きが食べたかったんだもの」
「そんなもんどこでだって食べれるだろ」
肩を怒らせたシグマが冷たく言い放つ。
しかし、ルティアも負けては居ない。
「あそこのがいいの!」
「ああもう、我侭なお嬢だ」
今度はシグマはレオナを睨み付けた。
「レオナもいちいち付き合ってないで振り切って来い」
「振り切ったらルティアは一人ででも来るだろ。繁華街を一人で歩かせる方が危ないじゃないか」
「まったくお前らはああいえばこういう――」
シグマは癖だらけの髪をぐしゃぐしゃとかき回し、盛大な溜息を着いた。
お説教タイムが終わったらしい。
この男との付き合いの長いレオナはもう大丈夫と判断し、口を開いた。
「とにかくお腹空いた」
「二人でどこかいって飯食って来い」
「シグマはどうすんだよ」
「馬鹿野郎。ただの軍人が貴族様の食うような飯食えるか。俺は一人でその辺の飯屋に入る」
別れを告げようとしたシグマを引き止めたのは口を尖らせたままのルティアだった。
「それはイヤ」
シグマは背の低いルティアを見下ろした。
「お嬢は俺の行くような店には行けねえ。俺はお嬢に似合う店には入れねえ。わかるだろ?」
シグマの言うのは正論だ。だが、レオナもこんな不機嫌なルティアと二人きりにされるのはたまったものじゃない。
「あのさ。それならオレの家に来る?」
そう提案して見たものの、シグマは即座に却下した。
「こんな時間に女を連れ込んじゃまずい」
「何もしないよ?」
「お嬢に変な噂が立ったら良い縁談も無くなる」
「……そうか」
それは確かに困る。
これ以上のアイディアは無かったのでレオナも黙る他無かった。
なのに、ルティアはポンと手を打って言った。
「私の家ならいいでしょ」
良い考えを思いついた、という風にルティアは満面の笑みで言った。
「お父様の所にはいつも軍人さんが出入りしてるもの。二人が来たっておかしくないわ」
「……ジャガイモのチーズ焼きだ」
出てきた料理を見て思わずレオナが呟いた。
ナイフで切り分けフォークを刺すと、ふんわりと温かな香りが広がる。
上質なバターもたっぷりと使われているのだろう。乳製品特有の癖は無いのにミルクの味がしっかりとする。
このジャガイモのチーズ焼きは、あれこれブレンドされた香草が素材の風味を引き立てる上品な味付けで、件のバーで出される物とはまったく違う料理のようであった。しかし、とても美味しい。
心から褒めるとルティアはにこにこと頷いた。
「私の大好物なの」
食前酒を飲んでいたシグマも、その言葉に触発されたのかフォークで芋を突き刺し口に放り込んだ。
「――ああ。味変わってねえな。まだ婆さん生きてんのか」
そう言って更にもう一切れ口に入れる。
「元気に台所で包丁振り回してるわよ。会ってく?」
「年寄りだから食い終わる頃には寝てんだろ」
そんな二人の会話を聞いていたレオナが疑問に思って口を挟んだ。
「シグマはここの料理人さん知ってるんだ?」
「爺さんがまだ連隊長だった頃には良く連れて来られたからな」
シグマの言う「爺さん」とは祖父の事ではなく、レオナの前の連隊長の事だ。ガルドーという名前だが、第二連隊の中で最も年長なので皆からそう呼ばれている。
「ガルドーさん、お父様とはチェス仲間なの」
ルティアが言うと、シグマも懐かしそうに応じた。
「チェス打ってる間はやる事無かったから、庭で素振りしたりここで飯食ったりしてたな」
「あの頃はチェスに夢中になって深夜までとか珍しくなかったものね」
「――で、俺が良く食うんで、飯炊きの婆さんに気に入られたんだ」
「シグマが来ると気分が三十歳若返るんですって」
「三十若返ったって六十過ぎの婆さんだ」
「失礼ね。もっとずっと若いわよ」
すっかり皿が空になった頃、シグマはおもむろに立ち上がった。
「どこ行くの?」
「便所」
「台所はもう火を落とすって言ってたわ。ご馳走様を言うなら裏の薪小屋ね」
「いかねーよ」
「素直じゃないわー」
シグマの背を見送りながら、ルティアはくすくすと笑った。