閑話 貴族の常識と劇場と
最後の方で若干性的発言があります。
苦手な方はご注意下さい。
王宮の最奥にある国王の私室へ入ると、ダールとファズが謎の言葉を口にして盛り上がっていた。
「『枸橘の陰に伏して』――何それ?」
レオナの問いにファズが茶器を並べながら答えた。
「王立劇場でやっているお芝居です。親に結婚を反対された二人が手に手を取って逃避行をするという物語で」
「へえー。神話じゃないんだ?」
「神話?」
ファズが首を傾げる。
しかし、レオナにとって劇と言えばそれの事だった。レオナの村から馬車で半日ほど向こうにある少し大きな町の神殿では神話をモチーフにした劇を定期的に公演していると聞いた事があったし、それに――
「村祭りの時は必ず大地の女神の生誕劇をやったよ」
彼らに言う訳にいかなかったが、レオナは一度主役の女神の役をやった事がある。その年に成人を迎える娘が演じるという慣例で、たまたま他に同じ年の娘が居なかったというだけだけれど。
「そんなのと一緒にしないで下さい」
「どう違うんだよ」
「今日はもう上がりなら、僕と行きますか?」
「え?」
「今晩チケットがあまっているんです」
元々ファズは、人気の芝居のチケットがあったのに同行するはずだった人が体調を崩して行けなくなってしまったという話をしていたのだ。
こうしてレオナは初めての観劇をする事になった。
「夕方テート家の屋敷へ迎えに行きますね」
「え、いいよ。歩いてすぐだし」
「……歩いて?」
ファズは片眉を吊り上げた。また何か間違えたらしい。この顔は田舎出身のレオナが『都会の常識』と違う事を言った時によく出てくる。
「劇場は社交の場です。だから盛装して馬車で向かうものです」
「げ。そうなの?」
「……何を着ていくつもりだったのかは聞かないでおきます」
「盛装かあ……」
領地での行事には領主として臨むのでそういったものを着る事もあるが、王都へは持ってきていない。
こちらで式典に参加する時は騎士として参加するので騎士の正装さえあれば間に合ってしまうのだ。
「相応しい服はありますか?」
「んー……以前下賜された夜会用の服は、この間領地に持ち帰っちゃったし、紫のは……あれも向こうかな……」
真剣に記憶をたどってみれば、衣裳部屋の奥の方に先代が遺した物が何着かあったのを思い出した。
「ええと、ボルディアー将軍の……」
「将軍のは年齢も体格も違うしデザインが古臭いんじゃないですか」
「……やっぱり?」
「適当なものがなさそうなら、騎士の正装で良いです」
「それでもいいの?」
「まだマシ、です」
* * *
着飾った男女の間で騎士服を纏ったレオナは確かに浮いていた。
その上、先日の肩の怪我が原因できちんと上着を着る事ができず、肩に羽織るだけという状態なので否が応にも人目を引いた。
「あの騎士はどなたかしら」
「まあ、レオナ・ファル・テート様だわ」
「え、あれがあの?」
そんな囁きがそこかしこから聞こえてくる。
こんなただの好奇の目ならもう慣れっこではあるのだが……
「あれは礼儀も知らぬ庶民だから高貴な者の集まりには来ないと聞いていたがね」
「その噂は本当のようですね。名高いテート家の当主を名乗る癖に相応しい衣装もお持ちでないようだ」
「噂といえば、剣の腕も先代に負けず劣らずだと言いますけど……ねぇ」
「おや。怪我をなさっているようですね。あれではそちらの噂は真実ではなかったのでしょう」
ああ。また始まった。
貴族達の悪口合戦。
レオナだって好き好んでこんな立場になったわけじゃない。
面倒臭くなってそっとその場を離れた。
ロビーには人が多いけれど、それを抜けた通路にはあまり人が居なかった。
通路の先には一階席利用者の為のホールがあり、庶民も多く訪れる。だから『高貴』な方々は近づこうとも思わないのだろう。
壁にもたれ、ほっと息をつくと聞きなれた声が耳朶を打つ。
「騎士さんがいると思ったらレオナじゃない」
ルティアだった。
数日前に市場へ行った時のシンプルなワンピースとはまったく印象の違う、腰から下がふんわりとひろがるドレスを纏っている。
その落ち着いたモーヴピンクが少女から女性へと開花していく年頃の美しさを更に引き立てていた。
「綺麗だなあ」
思わず口を突いて出たのは純粋な感想だった。
絵画に描かれる女神の使いのような容姿のルティアだからこそ。
ロビーで見かけたどの令嬢よりもルティアは魅力的だった。
「うん……すごく似合うね」
「ふふ。ありがとう」
言われなれているのだろう。笑顔ひとつで返されてしまう。
「そんな事より、その怪我どうしたの? 落馬?」
「あー。喧嘩を止めたらザクッと」
「まあ」
ルティアは心配そうに眉を寄せた。
「ちょうど腕の良いお医者さんが通りかかって治療してくれたからもう全然痛く無いんだ。傷口が開かないように大袈裟につってるだけだよ」
そう説明してようやく安心したと言ってくれた。
「それにしても、レオナがこんな所へ来るなんて珍しいわね」
「ファズに連れてきてもらったんだ」
「更に珍しいわ。あの色男が女連れじゃないだなんて」
「彼女が急に来れなくなったんだってさ。今日はデート?」
離れた場所からこちらを窺う視線に気づいてレオナが聞いた。
心配そうにルティアを見ているのはいかにも貴族然とした優男だった。
「誘われたから来ただけよ」
ルティアは最上級の笑顔で男に手を振った。
「小悪魔」
「なあに?」
「別にー?」
ルティアはレオナと眼が合うと楽しげに笑った。
そちらの笑顔の方が、さっき男に見せた笑顔より数段可愛かった。
「それじゃ、私行くわね」
「うん。また今度」
ルティアと入れ替わりに現れたのは、彼女をレオナに紹介してくれた張本人だった。
「お待たせしました。今日はルティアも来ていたんですね」
ファズは、優男の元へ戻っていく後姿を目で追っていた。
「誘われたから来ただけよ、って言ってたよ」
「でしょうね。あれは好みじゃなさそうです」
「ルティアの好みなんて知ってるんだ」
「幼馴染ですからね。初恋の人から今の恋人のことまで」
「恋人?」
初耳だった。
とりあえずファズの口ぶりからして、今彼女と一緒に居る男は違うのだろう。
――ん?
ちゃんとした相手がいるというなら、しょっちゅうルティアと外出している自分は間男という事にならないか。お互いにそんな気持ちは無いとしても、世間的にはちょっとまずいんじゃなかろうか。
「恋人と言っても正式に交際をしている訳ではないという事ですが――って知らなかったですか?」
レオナは頷いた。
「どうみても両思いなのですけどね。相手が煮え切らないというか、ルティアが貴族なのを気にして退いてしまうみたいですね」
「ああ、そういう事ってやっぱりあるんだ」
身分違いの恋だとかそういうのはお話の中でしか知らない。それこそ、これから始まるという劇の内容だ。
「ルティアはそういう事を気にしませんからね。『私の事が好きなら、かっさらっていけばいいのよ!』って言ってました」
レオナは思わず噴出した。
確かに彼女ならそういう事を言いそうだ。
「嫁き遅れ一歩手前なのだからそろそろ決着をつけるべきでしょうに、その気配はないですね。
個人的には、あちらを諦めてレオナとくっつけばいいのにと思いもしますが」
「オレ?!」
「仲よさそうですから。
レオナは彼女をどう思ってるんですか?」
「友達だよ友達。オレにはこいつがいる」
レオナは腕につけたチェーンをなでた。
「愛を貫く事は素晴らしい事ですが、それを言い訳に立ち止まるのとは違いますよ」
「うん?」
「最近はそんなに引きずっているようには見えないので」
「そう……かなあ」
そういえば、最近ルティアにも同じ事を言われた。
何気ない素振りでそっと耳元に手を伸ばす。
あの日ルティアに貰ったピアスが今日もそこにある。
「あ、あちらに知り合いがいるので挨拶をしてきます。ここで待っていてください」
「はいはい」
さすがにここで育ったファズは顔が広い。
さっきからずっとこの調子だ。
待たされてばかりではあるが、ファズもレオナが貴族の付き合いが苦手な事を知っていて紹介しようなどと言わないでくれているのだから、待つ事くらい構わない。
ファズはレオナの逃げ込んだ通路のすぐ正面にいる貴婦人に声をかけた。
「黒玉夫人」
振り返ったのは美しい黒髪を持つ三十代半ばの女性。肌を殆ど見せない一見ストイックなデザインのドレスは胸元だけが大胆にカットされ、きらきらと光る粉を散らされた谷間に自然と視線が行く。襟足の後れ毛やぽってりと紅を落とした唇、伏し目がちな真っ黒な眼に翳を作る長い睫……隅々まで計算されつくした色気を感じる女性だった。
「あら、ファズ。珍しい所で会うわね」
「貴女に観劇の趣味があるなんて存じませんでした」
「お互い様。
私も貴方が殿方と劇場に来ることがあるなんて思いもよらなかったわ」
そう言って貴婦人はとろりと溶けるような秋波をレオナに向けて飛ばす。
ファズはさりげなく体を動かして彼女の視線からレオナを隠した。
レオナの所へは二人の声しか聞こえなくなった。
「一緒に来るはずだった方が体調を崩してしまいまして」
「そんな時は花束を抱えて病室に駆けつける子だと思っていたわ。
――それとも、お見舞いにはいけないような相手?」
「ご想像にお任せします」
貴婦人の結い上げた髪がファズの肩から覗く。
「あの子は誰?」
「レオナ・ファル・テートです」
「じゃあ、ボルディアー将軍の」
「ええ」
「紹介してくださらない?」
ファズの腕の辺りから、好奇心を隠さない目がこちらを見ている。
少しづつ体をずらしてレオナを観察しようとしているらしい。
「今日はプライベートですから」
「あら、冷たい」
「男同士心置きなくと約束してしまったんです。
――それに、恋人が睨んでますよ。ローゼ」
「あらやだ」
「今度必ず紹介します。ではまた」
「何、あのおばさん」
社交界で男性に媚を売る女性は珍しくないが、彼女はなんだか毛色が違う気がした。なんていうか、露骨だ。
何より、ファズがレオナを守ろうとするような態度がいつもと違う。普段ならレオナに興味を寄せる女性がいれば「女遊びくらいするといい」とレオナを突き出すと言うのに。
「黒玉夫人です。知らないんですか?」
ファズはそうい言うが、貴族の世界にはさっぱり興味がない。
義務として行事には参加するし、ダールに無理矢理引きずられて夜会に出た事もある。そういった時に誰かを紹介される事もない訳ではないが、未だにその半分も名前と顔が一致していない程だ。
「黒玉夫人は社交界では有名ですよ」
「ローゼって名前じゃないの?」
確かファズはそう呼んでいた。
「それは本名です。
あの通り黒玉――ガゲートの首飾りをいつも身につけているので、黒玉夫人と呼ばれています」
石の名前などわからないが、真っ黒な玉をいくつも連ねたネックレスは見てとることが出来た。
よほどその石が好きなのか、耳飾や髪飾りも同じ石で出来ているようだ。
「夫人ってことはさ、あれが旦那?」
夫人の後を追いかけるのはレオナと変わらないくらいの年の青年。少し気が弱そうな印象だが、美形のくくりに入らなくもない、そんな印象だ。
「若いツバメを囲うのが趣味なのだそうです。レオナも気をつけた方が良いですよ。何も知らなそうなうぶな子が好みらしいですから」
「――オレってそう見えるんだ」
確かに男性としては小柄で、顔も中性的と言われるのはわかる。だが、うぶだとか言われるのは釈然としない。
「旦那さん、何も言わないの?」
「未亡人ですからね。彼女が二十七だか八だかの時に病死されたそうです。
それからは再婚する事もなく、男を――というよりは少年を、何人も囲っています」
「詳しいね」
「社交界では誰もが知っているような話です」
ファズはレオナを促して客席へと向かった。
廊下にいくつも並ぶ扉と、スタッフらしき女性。ファズはその中の一人にチケットを見せ、扉を開けさせる。
「おー?」
レオナは思わず声を上げた。
「……なんですか、その反応は」
「いや、扉を開けたら目の前に舞台があるのかと思ったんだけど」
そこは小さな部屋だった。広くは無いが内装や調度は凝った物が使われていて、いかにも貴族が好みそうな部屋。
「舞台はその向こうです」
ファズはカーテンを指した。
レオナは目を輝かせて聞く。
「見に行っていい?」
「ご自由に。でも、はしゃぎ過ぎないでくださいね」
呆れ顔のファズは小部屋のソファに腰掛け、あらかじめ用意されていた果実酒に口をつけた。
レオナはそっとカーテンをめくって向こう側を覗く。
その向こうは椅子と小さなテーブルが設置されたバルコニーになっていた。3階か4階の高さはあるだろうか。見下ろすような位置にまだ幕の下りたままの舞台が設置されている。
カーテンを戻して小部屋に戻るとざわめきも遠のき、薄暗い場所で二人きりになった。こんな場所なら確かに逢引には良さそうだ。
レオナはファズの向かいの椅子に座った。
「お前、いつもこんな所に連れ込んでんの?」
なにやら物思いに浸っていたらしいファズが、ワンテンポ遅れて応える。
「貴族なら普通です」
ファズは意味も無くグラスを回し、果実酒の表面を見つめていた。
「ああ、そういえば。黒玉夫人は良いかもしれませんね」
ふと顔をあげて呟く。
「何の話?」
「レオナ、彼女を抱けますか?」
「はあ?」
突然の言葉の意味が分らなかった。
「いや、無理無理」
色んな意味で無理だ。レオナは首を横に振った。
「年上は駄目でしたっけ」
「何なんだよいきなり」
「ほら、馬鹿王子……じゃない、もうあれも国王陛下でした。
ええと親愛なる国王陛下も嫁をとるとなると色々教育が必要になりますよね」
「教育ねえ」
「解っていない顔ですね」
今日はファズに溜息をつかれてばかりだ。いい加減、貴族や王族の事情なんか知るかと言いたくなるほどに。
「まあ、それに彼女が適任かと思ったんですが、レオナが嫌がるようでは――」
「だからオレと何の関係があるんだよ」
「相変わらず鈍いですね。
だから耳年間の癖に偏った知識しかない陛下の教育を二人に頼めないかと思ったんです。実践で」
「――はぁ?!」
ようやく意味の分ったレオナが、思わず大きな声を出してしまった。
「それって、ダールの前であのおばちゃんと、その――しろって事?!」
「まあ、有体にいえば」
「無理!」
「好みでないのなら無理強いはできませんけどねえ……ああ、ルティアなら良いですか?」
「いや、そういう問題じゃなくて! そういうのって人に見せるもんじゃないだろ!」
やっぱり貴族の常識は理解できないし、したくもない。
レオナは心から思った。
「じゃあ、どう教育すれば良いって言うんですか。
今の情勢を考えると貴族と繋がりの深い高級娼婦は反体制派の息がかかっている可能性がありますし、三代前の王が後宮を解体してしまったものだから、それに適した場所もないですし」
「いや、それはその――そうだ、お前がすれば良い」
「僕が? 黒玉夫人と?」
ファズは露骨に眉をしかめる。
「嫌ですよ、僕は。あんな人とは関わりたくもない」
その割にさっきは自分から声をかけていたような気もするが。
その時、開演を知らせるベルが鳴った。
「もう少し、考えますか」
ファズは弄んでいたグラスをテーブルに置くとバルコニーへ向かった。