閑話 耳飾 ――ルティアの場合
乾いた夕方の風が吹く頃、真っ赤なお日様に照らされて燃えるような色に染まった彼を見ていた。
――いつも。
決して美形ではない。
なのに、汗がきらめき、飛び散る様は美しく、幼かった私はいつもただその姿に見惚れていた。
私が居る事には気づいているのだろうけれど彼は決して話しかけて来ない。
こちらを見る事すらない。
大人になった今でも、好きなタイプを問われればあの頃の彼の姿を思い浮かべる。
――強い人。
強そうだけど、つつけば壊れる脆い心を隠した横顔。
あれが、初恋だった。
* * *
その日私はお茶会が続いて息が詰まっていた。
お茶会と夜会は貴族の義務。お茶会で情報交換をして夜会でより家に有利な殿方を射止めて跡継ぎを産む――それが貴族の娘の務め。らしい。
子供の頃から母にそう言われ続け、頭では、理解している。
それでも。ルティアは父に似た明るい茶色の目に空を映して溜息をついた。
「面倒臭いなあ」
「何が、とは伺いませんけどね。お嬢様」
ルティアを子供の頃から知るメイドがいつもの無表情のままで続けた。
「姿勢を正して下さいまし。お言葉も乱れていらっしゃいます。
それから、そろそろお召し替えのお時間ですのでお部屋にお戻り下さい」
今日もお茶会。雨の季節を前にした今は社交の季節だから仕方が無いけれど。今日はどこの奥様の所へ呼ばれたんだったかしら。こう毎日続くと思い出せない。
確か四日連続の最後の日だから――
そう、最後の日。
ルティアは素敵な事に気がついた。
「ねえ。レオナの所へ使いを出して」
「テート家へ?」
メイドは眉をピクリとさせた。最近彼女の鉄面皮を崩すのは彼の名前だけだ。でも、ここで引いたら負けという事も知っている。
「明日は何も用事がなかったわよね。レオナも休みのはずだから『明日付き合って』と伝えてきて欲しいの」
「当家へお招きする事以外は承服致しかねます」
「買い物に行くだけよ」
「それでは中央通りのお店を予約致しましょう。仕立て屋でございますか? 宝飾店でございますか?」
絶対に分っていてすっとぼけているのだ。
仕方が無いので、奥の手だ。
メイドの手をとって上目遣いで最近少し皺の増えてきたその顔を覗き込む。
「ソニア、お願い」
こう言えば、このメイドは絶対に逆らえない。
苦渋の色を浮かべる彼女の顔をしばらく見つめる。瞬きをしなかったせいで涙が出てきた。
泣き落としのような形になってしまった事は本意では無いけれど、彼女は渋々頷いた。
「……どうぞお気をつけくださいませ」
「大丈夫よ。彼と一緒にいて絡んでこれる暴漢なんていないわ」
「いえ――男は狼と申しますから」
* * *
――狼、ねえ。
ルティアは隣を歩く騎士を見た。
幼馴染に紹介された時は驚いた。『噂』で聞く恐ろしげな話から想像していた男とまったく違ったからだ。
背だってルティアと頭一つ分しか違わないし、筋肉質というより『しまっている』というような細身の体。
何よりその童顔と素直で豊かな表情は――
狼じゃなくて、仔犬だわ。
以前タルト店へ行った時には尻尾を振っているんじゃないかしらと思うほどの喜びようだった。
ルティアが無理難題を『お願い』してみた時なんて頭の上で犬の耳が垂れている幻覚が見えた。
本当にこんな穏やかな人がイーカル国軍の、あの第二連隊を率いているんだろうか。
そんな事を考えていたら、目指す水路通りが見えてきた。
水路通りは街を南北に縦断する水路が真ん中に走る市民の憩いの場。通りという名ではあるが細長い公園のような所。そしてそれを取り囲むように軽食店が並んでいる。
男女とも仕事を持つ事の多い王都では昼食は大抵外食だ。だから昼時になると水路沿いのベンチはテイクアウトした軽食を食べる人で埋まる。
今日は市場での買い物に夢中になっているうちに出遅れてしまったようだ。
「ベンチ、空いてないね」
レオナが諦め気味の声を出した。
「私はそこの花壇の所でも良いわよ」
「お嬢様がそういう事言わない」
真っ白な騎士の制服に身を包んだ彼は、辺りを見回すと広場の方を指差した。
「あっちならまだ空いてるかも。ちょっと見てくるね」
「ついていくわ」
デート、ではない。
幼馴染に紹介されたその日からすぐに意気投合して、よく二人で出歩いたりもしているが恋愛に発展する気配はさっぱりない。
レオナ・ファル・テートと言う人の評価は二分されている。庶民の癖に血縁でも無いボルディアー家を乗っ取ったと白い目で見るのは古い貴族たち。
一方で貴族でない者たちにとって彼の立身出世は憧れで、子供たちの目標。
更に軍部には猛烈な信望者を抱えている。なんでも武勲をあげて成り上がるということは軍人の中では誉れとされる事であるらしい。
そんな立派な武人なのに、細身で童顔という、特に年上の女性に人気のある容姿。出生はさておき名家の当主にして騎士。国王からの信頼も厚い出世株。
ルティアの家は家柄で言えば古い貴族に分類されるが、役職は代々軍関係に偏っているため、親族もレオナの事をどちらかというと好意的に捉えている。何より、武術に関してはこの国で一番厳しい王宮付き剣術指南役の父が、彼の剣技に一目置いているのだ。このまま友人以上の関係になってしまえば、両親も安心するだろう。
そうは思うのだが。
その気にならないのは、『好みのタイプ』とまったく違うからだろうか。
「今日は随分歩いたし、疲れてるならここで待っていてもいいよ?」
「大丈夫。体力だけは自信あるの」
彼は優しい。貴族の坊ちゃん達みたいな徹底したレディファーストはないけれど、だからこそ気を使ってくれてあれこれしてくれているのを強く感じる。
それに庶民の生まれだけあって変に気取った所がないのも気が楽だ。何より、他の人が「危ない」「貴族のする事じゃない」と猛反対する市場での買い物を止めないでくれる所がありがたい。
例えそういった場所へ行っても、騎士である彼と居ればチンピラが絡んでくる事がないし、何か起きても守ってもらえるという安心感だってある。
でも、利用してるだけ、でもない。
一緒に居て楽しいのは確かだ。
その感覚は、いつも我侭を聞いてくれる兄と近い物があるのだが、時々数年前に亡くなった親友と話しているような気になる事もあり、実に不思議な物である。
――あの子はどう見ても女の子っていうタイプだったのに。
騎士の証である白い上衣を翻し腰に重たい剣を下げた彼の後姿に、親友だった彼女と重なる物はやはり何一つ無い。
なのに親友と近い感覚。これが世に言う、友達以上恋人未満というものなのだろうか。
広場の木陰のベンチが奇跡的にひとつ空いていた。
近くのスタンドでお茶と軽食を買い、遅い昼食にする。
初めて二人で出かけた時に、この「ナイフやフォークも使わず噛り付く食べ物」を食べてみたいと言ったら彼は随分驚いた顔をしたが、それ以来何も言わずにこういった「粗野な」食事に付き合ってくれる。
実際の所、彼もこういう物が好きなようだ。
いつだったか、家の上品な食事は緊張するともらしていたのを思い出した。
確かに彼の言うとおり、マナーでガチガチに固められたフルコースを頂くより、青空の下で大きな口を開けて、肉や野菜を詰め込んだパンに齧りつく方が気持ち良い。
「ルティア、ソースついてる」
「え、どこ」
「口の横――反対側」
よく彼がやるように、指でぬぐってそれを舐める。
家でやったら母は卒倒するかもしれない。
「とれた?」
「う、うん」
そんな強張った顔しなくても、彼の前以外ではやらないのに。
「あ、そうそう。この間ね。お友達に『テート家の騎士様』を紹介してって頼まれたのだけど――」
正直、彼はモテる。お茶会などで話題に上る度に誰かしらから紹介してくれと頼まれる。
義理というのもあるので一応毎回レオナに意向を聞いてはみるけれど、彼は一度も会おうとした事が無い。それどころか、相手の名前すら確認しようとしないのだから、これはもう諦めるしかないと思う。だから今回だって、
「ごめん。無理」
「よねえ」
予想通りの反応だった。
「今回も『レオナはまだ亡くなった恋人を思っているから無理みたい』と話しておくわ」
「ごめんね」
彼は申し訳なさそうに謝る。けれどこの返事も毎度のことなので、友達にはすでに「聞いてはみるけど期待しないで」と伝えてあるからそんなに気にする事ではない。
ただ一つ思うのは……
「最近、それって言い訳よね」
以前から感じていたことをなんとなく口にした。
彼は思った以上に驚いた顔をする。やっぱり気がついていなかったのか。
「前は本当にそう見えたんだけど、今はあまり引きずってないみたい」
「……思い出すことは減ったかな」
彼が視線を落とした先には、手首に巻いた細いチェーン。
そこには恋人の形見だというペンダントトップが下がっている。恋人が身につけていた物には違いないのだろうが、これ自体はきっとレオナが選んで贈った物だと思っている。
小さなプレートが一枚だけというシンプルさが飾り気のないレオナのイメージそのものだ。
何気なくそれを眺めていたその時、何かが見えたような気がして、レオナの腕を取った。
「見せて」
前に見せてもらった時には気がつかなかったが、裏に文字が刻まれていた。
一段目には「レオナ」と。二段目には、
「イル……それが彼女の名前?」
それは優しさを表す女性名。この国の、特に辺境では珍しくない――悪く言えば田舎っぽい名前。
「可愛い名前ね」
「……うん」
困ったように頷く。そして広場を見回し、
「あ、あそこ、すごい人だかりだね」
あからさまに話を変えようとしている。やはり亡くなった彼女の話はあまり触れたくないらしい。
少し悪い事をしたかなと思いつつ、彼の指差す先を見た。
「話題のお店らしいわよ」
昨日のお茶会で友人から聞いたばかりの話を披露する。
「ほら、今度ダールが結婚するでしょう? それで式を挙げる愛の女神の神殿が人気のスポットになったらしいの。
その神殿の前の屋台で売ってるアクセサリーが恋愛成就のお守りになるのだとか」
その友人も召使に買いに行かせたと言っていた。
どこか気まずい空気を何とかするためにも、そこまで歩いてみるのは有効かもしれない。
「見に行きましょう」
すっかり空になった食器をスタンドに返し、レオナの手を引いた。
色とりどりの貴石のついたペンダントや指輪が並ぶ。小さい店の割に種類は豊富だ。
「ええと、確か――ピンク色の石が恋愛成就で、水色が浮気防止、緑色が本当の気持ちに気がつくという効果があるのだとか」
「色にまで意味があるんだね」
「せっかくだからどれか買っていこうかしら――」
貴石の品質は貴族御用達の宝飾店のものに遠く及ばないが、こうやってレオナと街を歩く時のために、こんな町娘が付けるようなものがいくつかあると良さそうだ。
まず目についたのは紫の花をモチーフにしたペンダント。
自分に似合うのはこんな淡い紫色だと自覚しているが、『危険な恋に落ちる』お守りだと聞かされていたのでさすがにそれは躊躇う。
「無難なのはピンク?」
「恋愛成就だっけ」
「相手はいないんだけど、似合いそうだから」
「レオナはどれが良い?」
「へ?」
「今日付き合ってくれたお礼」
「い、いいよ」
「大きいのは邪魔でしょうし、イルちゃんと被るのも悪いからペンダントやブレスレットは無しよね」
「いらないってば」
「女の子に恥をかかせるものじゃないわ」
ちょっとずるいが、そういえばレオナが黙る事は知ってて言っている。
「そうそう。ピアスの穴開けていたわよね」
「――良く知ってるね」
アクセサリーを好まない様子なので、最初に気づいた時はその小さな窪みをほくろか何かだと思ったくらいだ。
その後も一度もピアスをつけている姿を見ていないので、何か――例えば亡くなった彼女絡みの深い理由でもあるのかとあえて触れないようにしていた。
「さすがに埋まってるかもしれないなあ」
「じゃあ他のにしましょう」
他にも指輪やアンクレットもかなりの種類がある。細めのデザインのものなら邪魔にならないだろうか。
レオナなら何色の石が良いだろう。髪や目の色に映えるのは緑だけど、赤も結構似合うんじゃないかしら。制服の色に合わせて白も良い――
そんな事を考えていたら、隣で小さくうめき声がした。
「……いや、ピアスでいいです。穴ならまた開ければいいし」
値札を見たのか。値段は石の種類や大きさによっても変わるけど、一番リーズナブルなのはピアスだから。そんなに気にするほどの値段ではないのだが、そういう所はやはり庶民だ。
まあ、気後れされてもしかたないのでそこは譲歩することにした。
ピアスのコーナーをざっと見回したところ、白い花のが一番可愛い。
「これ、どうかしら」
「似合うと思うよ」
「レオナにという意味よ」
「それはさすがに……」
「似合いそうなのに」
しぶしぶそれを商品棚に戻して、今度は男性的なデザインの物を探してみる。
「じゃあこっち」
チェーンでぶら下がった細く尖った石は剣のようで、彼の職業にも合う気がする。
「本当にこれでいい?」
そう聞いたのは店の主人だった。
「彼氏――じゃないの?」
「違うわ」
「良いカップルに見えたんだけどなあ」
「残念ね」
そう応えてはみたものの、あまり残念とも思えなかった。
彼とは、カップルじゃなくて友達がいい。
「はい、レオナ」
「ありがとう」
彼はその場でつけてくれるつもりらしい。
「まだ開いてるかなあ」
少し手間取っているようだったが、なんとかつけられた。
やわらかい髪の隙間から白いピアスが見え隠れする。
ちゃんと見せて欲しくて断りもせずその髪に触れた。
日には焼けているがきめの整ったうなじが露になる。
「こんな可愛い騎士さんがいていいのかしら」
以前より少し伸びた髪を後ろへ持っていくと束ねられない事もない。
「こうすると女の子みたい」
「……髪、切ろうかな」
「もったいないわ」
本当に、そう思った。
もしかしたら本人はその容姿を女々しいとか言われて気にしているのかもしれないけど。
「そういえば聞き忘れたんだけど、この白い石ってどういう意味?」
「良い人にめぐり合える――今のレオナによさそうだと思ったの」
そう。だから白を選んだのだ。
「ご利益があったら教えてよ」
「あったら、ね」
* * *
屋敷に戻ったのは夕方だった。
ここまで送ってきてくれた彼の姿に、十年前のあの日を思い出す。
真っ赤な夕日を受けて、レオナもあの人と同じ燃えるような色に染まっていたが、やはりあの時のようなときめきを感じる事は無かった。
色は違えど服装は似てる。
レオナもあの人に負けないくらい強い人だ。
そしてあの人よりも条件ははるかに良い。
彼は私を恋愛対象と見てないようだが、それすらあの人とまったく同じ。
「何が違うのかしら」
思わず心の中の声が漏れてしまった。
「何って何が?」
「ううん。今日は付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ――ピアス」
「似合ってるわ」
お世辞でも無くそう言うと、彼は照れたように笑った。