第4話 侵入者
意識を取り戻したのは、夕日が最後の光を地平線に煌めかせる頃だった。
ゆっくり瞬きを繰り返す。
ややくすんだ色合いで繊細な筆致の花々が描かれ、華やかでありながら落ち着いた雰囲気の壁と、神話か何かの情景を描いた天井。それは見慣れた部屋の見慣れた光景。
「あ……れ……?」
全て夢だったのか、それともここが死後の世界というものなのかと思いながら身を起こした。
今朝目を覚ましたときと同じ。
どこかの国の民芸品だという遮光の効いたカーテン。彫刻の施されたサイドテーブルには磨かれたグラスに白い水差し。そして柔らかく暖かな布団。
やはりそこは紛れもなく自分の部屋。
いつもと違うのは、扉の側の椅子に腰掛けた黒い影──
「気が付いたか」
「お前は──あぅ!」
身体をひねると激しい突き刺すような痛みが鳩尾の辺りで爆発する。
「く──っ」
「俺の拳が入ったんだ。暫くは痛むだろうな」
黒衣の男がゆっくりと近づいてくる。
レオナは枕の下に手を伸ばし、いつもそこに隠している短剣を探った。
「探し物はこれか?」
男がマントから左手を出した。その手の中には見慣れた赤い革の鞘に包まれた小振りの刃。
「…………」
「一応預からせてもらったよ。
だが、これ以上の危害を加える気は無い」
短剣をテーブルの上に置き、男はレオナの元へ近づいて来る。
マントとフードに包まれているせいで口元と指先くらいしか見えないが、こうして近くで観察するとかなり背が高い事がわかる。
先程の一撃の重さといい、この体格差といい、膂力で勝ち目は無いだろう。
せめてなんとか隙を減らそうと、レオナは痛む体を無理矢理動かして向きを変え、男を睨み付ける。
しかし、男は余裕の笑みを浮かべて寝台から降りる事すら出来ないでいるレオナを見下ろした。
「お前……昼間ファズと話していた……」
「ああ。気づいてたのか」
「そんな怪しい風体の奴、ファズと知り合いじゃなければ即刻しょっ引いていた」
「これか?」
事も無げに言い、男は闇色のマントをゆっくりと脱ぎ捨てた。
あらわになったその姿に小さく息を呑む。
三十代前半くらいだろうか。やや癖のある黒髪や顔立ちなどは国民の大半を占めるイーカル族の特徴を備えているが、その瞳の色は違う。黄色味を帯びたグリーンはイーカル族にはほぼ見られない。異民族か混血だろう。
そして、問題はその瞳。やや垂れ気味の眼は柔和な印象を与えるが、宿る光が常人のものではない。生と死を知っている人間の眼だ──レオナは直感的に感じた。
そうだ。こういう眼を持つ人種を、よく知っている。レオナが長い間身を置いてきた戦場の、それも前線に長いこといるような奴らの目。こういう人種は、ためらいを持たずに他者を殺す事が出来る。
否。ためらいを持たないのでは無い。ためらいを感じるより先に『敵』の命を奪う事が出来る人種なのだ。……自分の命を守る為に。
レオナは静かに息を吐いて全身の力を抜こうとした。こういう奴らに対して緊張してはならない。緊張によって動きが鈍くなる事が即、死に繋がるからだ。
そんな意図を察したのか、男はなおゆっくりとした動きでレオナに身体を近づけ、観察する素振りを見せる。
「レオナ・ファル・テート――か。
東のアスリアにまであんたの噂が流れて来ていたな。農民の出でありながら、その鬼神の如き戦いぶりから騎士にまで上り詰めた男、と……」
「アスリア?」
レオナはその地名にピクリと眉を上げた。
「アスリアって、あのアスリア=ソメイク聖王国か? ……貴様、何者だ」
大陸の東端にある国、アスリア=ソメイク聖王国。古えの神の血を引く王の治める、神秘と自由の国。それは、レオナの友人でもある第三王子ダールが幼い頃から憧れ、目標としてきた国でもあった。
しかし現在は国交も無く、そんな国の人間が王宮に出入りする理由はない。
「おいおい、そんなに睨むなよ。せっかくの可愛い顔がもったいない」
男は最後の一歩を詰めた。
「俺はアレフ。ファズは俺の甥だ」
男──アレフの手がベッドの縁に触れる。
そしてそのまま体を前に乗り出し、レオナの顔を覗きこむ。
「信じてないって顔だな」
「聞いたことがない」
睨み付けたまま、少しでも距離を作ろうと身じろぎするが、殴られた後の痛みで体を捻る事すら出来ない。そんなレオナの様子を見て、アレフは嗜虐的な笑みを浮かべる。
「そりゃそうだ。とっくに死んだ事になっている」
「…………」
「まぁ、信じる信じないは自由だ。
──ああ。近くで見ると更に幼く見えるな。本当に男にしておくのがもったいない」
顎を掴んで無理矢理上を向かせるアレフの手を、レオナは思い切りはねのけた。腕を上げた瞬間、腹部に激痛が走ったが、それを表情に出さない様に更に強く男を睨みつける。
「オレに妙な気を起こして大怪我した奴は、今までもたくさんいたよ。さっきは油断していたが、今度はオレを生かしておいた事を後悔させてやる」
「まだ腹痛むんだろ。そんな怪我で何をするつもりなんだか。
いずれにせよ、これだけは言っておかなきゃな。
暴れるのも大人しく寝るのも自由だが、今晩いっぱいはあんたをこの部屋から出す気は無い」
アレフは手近にあった椅子に腰掛けた。
「なんか話そうか。それともあんたが話してくれるか?
例えば……女のあんたがイーカル国軍に潜り込んだ訳、とか」