第1話 婚約
それは、王兄シー・セアルの離宮へ行った三日後だった。
軍部にある第二連隊長執務室で苦手な書類仕事を片付けていると、ノックも無しに扉が開いた。
そんな事をするのは一人しかいない。
顔をあげると案の定、どかどかと足音を立てて入ってくる国王陛下と静かに扉を閉めるその側近の姿があった。
この二人が来てその後仕事に戻れるとは思わない。レオナは溜息をつき、今読んでいた書類にだけサインをしたら机の上を片付けると決めた。
だが、レオナが「ちょっと待ってて」と言うより先に、机の前に至ったダールが開口一番こう言った。
「レオナ。俺は結婚する」
思わずペンを取り落とし、書類にインクが散った。
「――マジで?」
「さっき返事が来たんだ」
「ま、まさかヨシュアの姫君とか言わないよな」
ダールは目を丸くした。
「何で知ってるんだ」
「……勘?」
勘で済む訳が無い。ダールの後でファズの眉が寄るのが見えた。
しかし、王兄シー・セアル殿下に「秘密ですよ」と念を押されているのでここはなんとか誤魔化す他無い。
「そ、その相手ってどんな人なんだ?」
「隣国ヨシュアの第二王女。
ええと、名前が――ユリア、と書いてあったっけか」
後を振り返って確認するダールに、ファズが
「ヨシュア王国第二王女ユリア・ブラーズディル殿下です」
と言い直した。
「……名前すら知らないのかよ」
「前王が侵攻して以来国交の断絶していたヨシュアへ和平を申し入れた。その象徴としての婚姻だ。名前と年しか聞いていない。そんなもんだろ」
政略結婚という奴なのだろうが、それにしても酷い。見合いをしたとしても精精隣村で相手は顔見知りというド田舎出身の元庶民には理解が難しい事だ。
「偉い奴ってのも大変なもんだな」
洩れてしまったつぶやきに、ダールは呆れたような顔をした。
「お前の所だってそうじゃないのか。年も年だし縁談まみれだろう。
イーカルで一番の穀倉地帯を有するセイダの土地は欲しがる者が多いし、古い貴族共が『庶民出身の当主のせいで地に落ちた』なんて言うテート家の名前すら新興貴族にとっては魅力的だ。ましてその当主が次期騎士団長と目されているお前ならな」
確かにそういう話が無いわけでは無いらしい。領地内の事を任せている男からは、領地に戻るたびに「せめて姿絵くらい見てあげて下さい」と泣きつかれるが……
「オレは結婚しないって宣言して断ってる。
しつこいのは先代の遠い親戚くらいだよ。『お前の存在は認めてやるから、ウチの娘と結婚してテート家の血を守れ』って」
「なんだお前。まだ死んだ婚約者の事引きずってんのか。
でもなぁ。結婚しないんじゃ、建国伝説にすらその名を刻むテート家がお前の代で断絶する事になるな」
「いや。養子を取ろうと思ってる。テート家はどうでも良いけど、領民の生活は守らないといけないからな」
「ふうん」
「実はオレの出した条件と領地を守ってる連中の条件がなかなか一致しなくて揉めてるんだ」
そう言うと、ダールががっかりしたように呟いた。
「――ああ。本気なんだ。
お前くらいまともな結婚して欲しかったんだけどな」
「あ?」
「俺が出来ない分、なんとなくお前に期待してた」
生憎性別を偽っているレオナはその期待に応える事は絶対に出来ない。
「悪い。ファズにしてくれ」
「ファズは無理だろう」
ダールが振り返ると、無類の女好きは苦笑いを浮かべる。
「後十年は気ままに居ようかと」
十年どころか一生誰にも縛られず遊んでいそうだ。
こいつが結婚する事があるとしたらいいとこのお嬢さんを孕ませたとかそんな事情くらいか。
言葉にしなくても視線で伝わったらしい。ファズはついと目を逸らした。
レオナは片頬だけで笑みを作り、それ以上追求するのはやめた。
それよりも気になるのは別の事。
「婚約が決まった所でこんなこと聞いちゃまずいのかも知れないけどさ。
お前、好きな女とか居ないの?」
ダールの返事はいともあっさりとしたものだった。
「子供の頃から将来は政略結婚をするものだと思って育ったから、後々面倒にならないように特別な女なんて作った事がない」
肉体関係を持つ相手が居ないという話は知っているが、レオナが聞きたいのはそういう事じゃない。
「気持ちの問題でだよ」
「感情だってそうなるさ」
そう言ってから、ダールは複雑な表情を浮かべた。
「――ユリア姫の方は、違うかもしれないけどな」
もしそうだったら……確かに、辛い。
「俺の為に誰かと引き裂かれたんじゃないといい」
まるで我が事のような顔をするダールの背中を、ファズがぽんぽんと叩いた。
ダールは昔から口では悟ったような事を言うが、中身はまるで自分の境遇に納得できていない、不器用で真っ直ぐな気性の持ち主なのだ。
「……ユリア姫が俺をどんなに恨んでいたとしても、俺は姫を愛せるように努力する」
今にも泣き出しそうな顔をしながら、ダールが小声で宣言した。
レオナも手を伸ばして頭を撫でてやる。
――ああ、本当に弟みたいな奴。