第3話 夕刻
そこは酒場だった。
と言っても、酒場なのは夜だけで、昼間は軽い食事が取れるレストランになっているようだ。
大して広くは無い。カウンターが一つと、テーブルが六つ。入り口から全てを見渡せる。だから目指す相手を見つけだすのは容易な事だった。
「ダウィ」
声を掛けると、テーブル席に座って何やら本を読んでいた青年が顔を上げた。
「ああ。久しぶり」
柔らかく微笑んで、青年は突然現れたファズに驚きもせず席をすすめる。
腰を下ろしながらちらりと見えた本のページには異国語が並んでいた。その章の題を見て思わず眉を潜めてしまったのは仕方ない。
「『議会制民主主義とゴルジ思想』――随分挑戦的な本を」
「どうせ共通語を読める人なんてこの国にはいないでしょ」
「その『共通語』も問題なんですけどね」
共通語――『大陸共通語』と呼ばれるその言語はあくまで大陸東岸地域の共通語であって、この国の公用語ではない。もっと言ってしまえばそれは敵性語だ。
その上内容が民主主義など、絶対王政を敷くこの国に歯向かう意思を示しているとしか思えない。しょっ引かれたところで誰も文句を言えない状況だ。
だがそんな事は当然理解しているはずのその青年はまったく意に介する事も無くふわりと笑った。
「よくここが判ったね」
「探しましたから。半年も」
「それは、光栄」
ダウィ――古い言葉で「石」――と呼ばれる青年のそれが本名であるのかどうかすらファズは知らなかった。どうやら東方の生まれらしいということだけは外見と話の端々から察せられたが、知り合って五年たった今でも「得体の知れない奴」という仲間内の評価は変わらない。
その原因はプロフィールが判らないからだけではないだろう。むしろ、二十歳そこそこの外見にそぐわない老成した雰囲気や、何もかもを見透かしたような口調にこそその原因があるのではないか。ファズは常々そう思っていた。
だが、いくら考えを巡らせても探りをいれても、まだ若い青年にそんな空気を纏わせる原因については知ることが出来なかった。
「今日はあの二人と一緒じゃないんだね。どうしたの?」
ファズが飲み物を注文するのをまって青年が口を開いた。
「二人って、ダールとレオナの事ですか?
ああ、それそれ! もう大変なんですよ」
「大変って何が?」
笑顔を崩さないダウィ。
ファズも世間話でもするような口調で続ける。
「ダールが……ほら、彼はお父さんと思春期の微妙な距離感だったでしょう? それがこの所急に悪化しちゃって、今はもう、一触即発という雰囲気で」
「へー。それは心配だね」
「そのうち血の雨が降るんじゃないかと僕も気を揉んでいるんです」
「そうだね。確かに難しい問題だ。
まあ、親子なんて、どこも仲が良いようでいて悪かったり、理解しているようでいて出来てないっていうものなんだと思うけどね。親はわかっているつもりでも、子供からすると何もわかってないなんて話はよく聞くし。その逆もね」
「あなたもそうだったんですか」
「あまり覚えてないな」
机の上に広げたままだった本を閉じ、ダウィはファズの顔を覗き込んだ。
「その喧嘩について、もう一人はなんて?」
「レオナはいつでもダールの味方ですからね。ダールよりもむしろ彼の方が暴発しそうで心配です」
苦笑いしながら肩をすくめるジェスチャーをして見せるファズ。それに対し、ダウィもどこか含みのある言い方で返す。
「あの子はどこまでも素直な子だから……」
「随分落ち着いてきたんですけどねぇ。――あ、お茶、こっちです」
飲み物を運んできたウェイトレスが去り、先に口を開いたのはダウィだった。
「それで? 君はどうして部外者の俺にそんな話をするの?」
また笑顔のまま問いかけるダウィに、ファズはお茶をすすりながら同じ表情を見せる。
「誰かに愚痴を聞いてもらいたかっただけですよ」
表面上穏やかな雰囲気のまま交わされる腹の探りあい。
この二人に『どこまでも素直』と評されたレオナがこの会話を聞いていたとしたら胃が痛くなったに違いない。外見だけならまったく相似点の無い二人だが、誰からも「食えないヤツ」と言われるという点だけはそっくりなのだ。
「あ。もうこんな時間か」
広場に立つ塔の夕刻の鐘が店内にも響き渡る。
「行くの?」
上着に手を伸ばしたファズに、ダウィが聞いた。
「ええ、あの二人が馬鹿をやる前に止めてやらないと」
「君は止めるだけ?」
「二人の安全の確保。それが全てです」
ファズの眼に真剣な光が宿る。
「その為になら多少の犠牲は」
そこにちらりと映るのは、丁寧な口調と柔らかな物腰に隠された彼の本性。長剣こそ持たないものの、体術と短剣の扱いに関しては国内屈指と言われる戦士の顔。
でも、それも一瞬。
数多の女性が騙される得意の笑顔が全てを覆い隠す。
「ダールの家の親子喧嘩が落ち着いたらまた会いに来ます。
――それでは、僕はこれで」
ファズは笑顔のまま一礼すると、そのまま背を向けた。
席を離れて、一歩、二歩、三歩。不意に彼は何かに気が付いたように立ち止まった。
「そうそう、遠い東の国には『正義の暗殺集団』があるそうですね」
ファズはどこまでも世間話の口調で。
「そういう噂はあるね。
だけど俺は『正義の暗殺』なんてあり得ないと思ってるよ」
答えるダウィもどこまでも笑顔で。
「それからね。ファズ」
「?」
「もし俺が君だったら、暴走しそうな友人を確保した上で、自分のアリバイだけは作っておくな」
軽く右手を振って別れの挨拶をするダウィにもう一度礼を返して、ファズは店を出た。
* * *
落ち葉があちこちに小さな山を作り、草花の枯れた茎がまるで墓標のように並ぶ秋の庭。
風が吹きぬけると乾いた音が随所から聞こえ、近づく冬を否が応にも感じさせられる。
そしてそんな茶色に埋め尽くされた地面から一本だけ真っ直ぐに伸びた緑。
丸みを帯びた葉が、微かに産毛を纏った茎を包み込むように広がり、その部分にだけ春が来たかのような光景。
レオナにはその植物が季節外れに芽生えたものか、それとも元々この時期のものであるのかわからなかった。
それは遠い東の国の花。
──ミラティスって言うんだ。知っているか?
得意げな顔をしてそんな事を言ったのは、どこからか種を手に入れてきたファズではなく、ダールの方だった。
そして彼は、その小さな黒い粒をこの場所に埋める事を提案した。
庭師達に相談もせず、こっそりと。
──「約束の花」とも呼ばれているそうだ。
儀式のように三人で土を握り、ぱらぱらと種の上に落ちていくのを見つめながら、囁くような彼の声を聞いた。
──この花が咲いたら……その時は……
春の日に芽が出た。
雨季には雑草に間違えて抜かれまいと庭師の手から必死で守った。
夏の終り頃に茎の先端が膨らみはじめている事に気がついた。
──蕾がついたな。
茎と同じ産毛に包まれた、葉の芽とそっくりな小さな蕾。
やがてそれはレオナの親指ほどの大きさになった。
──もう少し……もう少し……
そして今日、薄緑の膨らみの先端から僅かに白い色が覗きはじめて……
──限界……だな……
花が咲く前に彼の言った科白は最後通告だったのだろうか。
──お前達を国賊にするような真似だけはしないよ。
息が、苦しかった。
胸が締めつけられるようで。
そのくせ、心臓の拍動だけはどんどん早くなっていく。
「ダール、殿下……」
搾り出すように彼の名を呼んだ。
田舎から出てきて初めてできた友人であり、恩人。
彼はきっと一人で王を──自分の父親を討つ気だろう。それは間違い無い。なぜなら今の王を、この腐りきった体制を、打ち壊す事こそ、彼らがこの花に誓った「約束」。
その為になら命を捨てる事すら厭わないと思うのは、レオナだけではなくダールとファズも同じだろう。
だけど。
ダールが一人で動こうとするのは。
……国賊にしてはいけないのは、俺達じゃなくてダールの方だ。
王家の血をひき、今の王の「過ち」を過ちであると理解できる人物。
そしてそれを是正しようと考えられる人。
彼を守らなければならない。
彼だけは守らなければいけない。
その為に今、レオナはどうしたら良いのか。
ファズ……
ファズはどうする気なのか。
三人の中で一番温和なようでいて、最も血の気の多い男。彼の選ぶ道は……
「白いミラティスが花をつけるなんざ、珍しい事だな」
不意に聞こえた聞きなれない男の声。
勢い良く振り返ると眼前に黒い影が落ちた。
「だ、誰──ガッ!」
言葉を最後まで発する事は出来なかった。
腹に重い物が食い込む感触。開いた口から唾液と何か苦いものが溢れ出る。
そいつが『敵』だと認識した時にはもう遅かった。
乾いた落ち葉の上に倒れ込み、意識が一気に薄れていく。
最後にレオナが聞いたのは、夕刻を告げる鐘の音――
* * *
レオナの全身から力が抜けたのを確認すると、黒い衣装に身を包んだ男は、レオナを肩に担ぎ上げる。
鋭い舌打ちの音が辺りに残る鐘の余韻を打ち消した。
「軽いじゃねえか……ファズの野郎……」
人気の少ない通路を選んで、男はレオナを担いだまま城の奥へと姿を消した。