第13話 娘
「よしよし、ありがとうな」
ダウィが撫でると、馬は嬉しそうに顔を彼に摺り寄せた。
一般にイーカル馬と呼ばれる特に大きな馬で、鎧を着けた兵士を軽々運ぶだけのスタミナがあり、水が少なく寒暖差の激しい荒地でも活動できる。イーカル国軍の移動の主力を担っている馬だ。
最初のうちはその大きさや乗った時の視線の高さに身がすくんだものだが、こうしてダウィに甘える仕草をみていると可愛いとすら思えてくる。
「すっかり気に入られたようですな」
将軍が自分の馬を繋ぎならが言い、その脇でダールが笑う。
「そいつ、一番気性が荒くて誰も乗りこなせなかったんだぜ?」
「げ。お前、そんなの遣した訳?!」
レオナが顔をしかめ、悪戯が成功した時の悪ガキの様な顔をする王子を睨む。するとそれを見ていた将軍の取り巻き――レオナの所属する事になった第二部隊の男達が茶々を入れた。
「レオナは僻まれてんだよ」
「そうそ、いきなり中隊長だもんな」
「なんだよ! お前らもグルかよ!」
「いや、ホントはこいつしか残ってなかっただけ」
皆が笑った。
この街に着くまでの悲壮感はなんだったんだろう。
街は無事だった。
一日中馬を飛ばして、日の沈む頃。いつもと変わらないその様子に彼らは安堵のため息をもらした。
「ダウィ、乗せてくれてありがとうな」
レオナは馬の鞍を外そうとしているダウィの肩を叩いた。
「その台詞、こいつに言ってやれよ。肩が痛いのに頑張ってくれたんだから」
「肩――?」
「こいつ、この辺が生まれつき弱いらしいんだ。骨の形がおかしいのかな?
その気性が荒いっていうのも、多分それに気づいてやれなくて振り落とされた奴が言ったんじゃないの。性格は大人しいよ。気を使って走らせればさっきみたいに良い走りができる」
「そうか……お前も、ありがとうな」
長い距離を大人二人も乗せて走ってきた黒馬は、鼻面をくすぐられて嬉しそうに嘶いた。
レオナ達は夕餉の支度の匂いを嗅ぎながら街の中心にある広場についたばかりだった。響き渡るの蹄の音に何事かと顔を出し、それが兵士達だと気がついた市民達が慌てて走り出す姿がそこかしこで見られる。
サザニア帝国軍がこの町へ到達するのは明日の夕方以降になるだろうというダウィの予想と兵士と馬の疲労回復が最優先という将軍の助言に基づき、まずは避難誘導をする者と野営の準備をする者、見張りをする者とに分ける事になった。指示を出すため総司令官たる王子は副官のファズを探す。なのにいつも王子の側を離れないファズがどこにもいない。
「あいつどこ行った?」
「さっき馬に水飲ませてたぜ」
第二連隊の第四中隊長が答えた。やはり将軍の取り巻きの一人でレオナとも何度か話をした事がある男だ。
「どこで」
男が指し示すと、ちょうどファズが騎乗したまま近づいて来る所だった。
「ダール、僕は少し町の外に出てきます」
「ああ?」
「夜明けまでには戻りますので、必ず将軍と居らして下さい」
言うだけ言って、返事すら待たず馬首をめぐらせてどこかへ走り去った。ファズにしては珍しい態度だ。
あっという間に黄昏の中に消えていく後姿を見送りながらレオナは誰にとも無く聞いた。
「あいつ、どこ行ったんだ?」
それを耳にした将軍の取り巻き達は口々に好き勝手な事を言う。
「どうせ、また女の所だろうよ」
「ファズって王都からあまり出ないんだろ。なのにこの辺りにも誰か居るってのか?」
「居ない訳無いだろ。だってファズだぜ?」
男達は本人が聞いたら怒るであろう憶測を言い合いながら笑った。レオナも事ある毎に彼らからファズの女癖の悪さを聞かされてきたので、一緒になって苦笑する。
「お前ら、言いすぎー」
「レオナは知らないから言えんだよ」
「そうだよな。あいつの事だからこの街にだって長い黒髪で切れ長の目の美女を隠してるに違いない」
「は? あいつの好みは亜麻色の髪じゃなかったのか」
「そうかー? 先月連れてた女も半年前のも黒だったぜ?」
「胸が大きければ良いんだよ、あいつは」
「そりゃ言える」
そんな放っておけば延々と続きそうな軽口を閉ざさせたのは、消え入りそうな程小さな将軍の呟きだった。
「――エレナの所だよ」
その言葉に、将軍の取り巻き達は一斉に気まずい表情でよそを向いた。
首をかしげたのはダールとレオナだけだった。
「エレナって誰ですか?」
レオナの問いに、将軍は馬の世話をする手を休めずに短く答える。
「儂の娘だ。二年前に死んだ――な」
* * *
「男親っつーのは、いつも娘の幸せを願ってるもんなんだ」
夕飯を食べながら、将軍はいつになく饒舌だった。
誰も呑みすぎていることを止めようとはしない。止めたって無駄だろうし、何より話が面白そうだったから。
ダールなぞは強い酒ばかり選んで将軍に勧めている。
何せ、普段は若い連中の話の聞き役だったり酒癖の悪い連中を諌めに回る将軍が、自分のことを話そうとしてるのだ。こんな機会もう二度とないかもしれない。将軍も将軍で、久しぶりの街だ。酒場で手に入れてきた粗悪でない酒と、干し肉ではなく肉屋で買い上げてきた生の肉を使った旨い飯。その上ここは隙間風だらけの砦ではなくちゃんとした壁のある宿屋の食堂だ。自然ペースも上がるし回りも早い。
「エレナはな、小さい頃からよく笑う娘だったんだ。あの子が生まれた時、儂も四十を過ぎてたからな。可愛かったよ。そりゃあもう、眼に入れても痛くないくらいだった。
たった一人の娘よ。いつかあの子に見合った貴族でも見つけて婿に――そう思っていたのよ」
将軍はまた杯を呷った。
ちょうど酒瓶を手にしていたレオナは、空になった杯にもう一杯注ぐべきか迷った。将軍も年だし、さすがにそろそろ止めた方が良いのかもしれない。しかし、ダールとダウィは『注げ』と眼で訴えてくる。この二人は明らかに面白がっていた。断りたい所だが……断れば後が怖い。
レオナが迷っていると、将軍は無言で杯を突き出した。
眼が据わっている。完全に。
たくさん呑ませて潰した方がマシかもしれないと思いなおし、乾いた杯に琥珀色の液体を並々と注いだ。
「ありがとよ、レオナ。
ああー。なんの話をしてたんだっけか。そうだ。儂ぁなあ。エレナの為にずっとあいつに相応しい相手を探してきたのよ。
それが、あいつが十六ん時だ。いきなり結婚したいなどと言い出してな」
……え?
「そんでな――あぁ? レオナ、どうかしたか?」
「い、いえ。何でも」
「そうかあ?」
笑って誤魔化すレオナに首を傾げ、将軍はレオナの顔を覗き込む。
「本当になんでもないんです」
……ただ、少し昔を思い出しただけだ。それだけ。
レオナの心中を察することはさすがになかったのだろうが、それでも老将軍はなんだか分ったような顔をして「そうか」と言った。
そしてまた杯を舐めると、何事もなかったかのように亡き娘の話を続けた。
「――でな。そんな事突然言われたって困るだろうが。だからまずはその相手を連れてこさせた。それが、ファズだったんだ」
「は?!」
声を上げたのはダール。
「本当か?! 俺は聞いてないぞ、そんな話!」
「あの頃のファズは純だったからな。全て決まってから言うつもりだったんだろ」
将軍は杯を――今度はちびっと舐めた。
「しかしなあ、儂は許さんかったのよ。
そりゃ儂だって一人娘が可愛いよ。あいつが望む相手なら認めてやろうと思っていたさ。だけどクレーブナー家の人間だっていうなら話は別だ。
ファズは確かに貴族だよ。頭も良いし、王の覚えも良くて将来も安泰だろう。その上次男だから婿に取ることだって出来る。だけど、クレーブナーなんだよ。あいつは。
今はただの貴族でも、あれは元々暗殺者の一族。そんなヤツに大事な一人娘を――」
将軍は言葉を閉ざした。
「……いや。あれは嫉妬だったんだろうな。
儂は手塩にかけた娘を突然掻っ攫われたような気になった。きっとそれだけだ。
だが、言っちまったんだよ。『クレーブナー家なんかにやれるか!』ってな。
エレナは泣いたさ。ファズが何か言おうとした時には話も聞かずにサーベルでぶん殴った。
それでも、ファズは何度も儂の所へ来た。
儂は意地になって、ファズが何を言おうが、エレナが眼を合わせてくれんようになろうが、二人を会わせなんだ。
そしたら――ほれ、一昨年の赤熱病の流行」
覚えてんだろ、と将軍は水を向けた。
――ああ。
確かによく覚えていた。一昨年から去年まで一年間も国中で猛威を振るった伝染病だ。原因不明の高熱で一週間ほど苦しんだ挙句にバタバタ死んだ。レオナの村でだって八人が犠牲になった。
「あれでなあ。娘はイっちまった。結局最後まで『お父様』って呼んでくれなかったよ。熱に浮かされても、周りが判らんようになっても、ただ『ファズ……ファズ……』ってな。
それから……あれも嫉妬だったんだな。娘が死んだ日も、葬儀の日も、儂はファズを追っ払った。こいつが全ての原因だっつー勢いでな」
「ああ……そういや、あの頃ファズが沈んでいたな」
ダールが眼を伏せ、そう呟くと、将軍は今度こそ杯を呷った。
「――ファズには申し訳ないことをした。二年も経ってやっとそう思えるようになった。
だから今の儂の全てはあいつへの償いにあると思っとる……」
消え入るように、将軍は口を閉ざした。
そして再び杯を仰ぐと、酒瓶に手を伸ばし……中身が空なのに気がついて舌打ちした。
やがて重苦しい空気を払ったのは、それまで黙って聞いていたダウィだった。
「将軍は、ファズが好きですか?」
突然の問いに、将軍は面食らったような顔をしたが、すぐに相好を崩す。
「好きだよ。今じゃ息子のように思っとる。あいつぁ許してくれないだろうがな」
「彼も、きっと同じ気持ちだと思いますよ」
金の瞳の青年は、いつもより優しく、いつもより柔らかく、極上の笑顔で微笑んだ。
照れ隠しか、将軍は隣に座っていたレオナの杯を奪い、一息に飲み干した。
「……ありがとうよ」
「いえ、こちらこそ」
「あぁ?」
「『男親っつーのはいつも娘の幸せを祈っている』……でしたか。良い言葉を聞かせていただきました」
そういって、ダウィはちらっとレオナの方を向いた。まるで、君のお父さんだって心配してるだろうにとでも言うように。
――やっぱり、この眼は全てを知ってる――
レオナは他の者に気づかれないように目線を外した。
「……実ぁな、ダウィ殿」
幸い、すっかり酔いの回った将軍はレオナの方なんて少しも見ていなかった。
「儂にはずっと考えていた事があったのよ」
「なんですか?」
「ずーっと、ずーっと考えていてな。サザニア軍が儂の領地に攻め入ろうとしているって聞いた時、ようやく決心がついたのよ」
「はい」
「実ぁな、ダウィ殿」
「はい」
「ええと、その……なんだ」
「言い辛い事なんですか?」
「いや、そんなこたあないんだが。実ぁな。これを……」
――バタン!
将軍の言葉を遮ったのは、荒々しく扉を開く音。
レオナはついついいつもの癖で、こんな音を立てて入ってくるのはダールだろうと思ったのだが、馬鹿王子はここにいる。大分酒が回っているのか眠そうに料理をつついて。
じゃあ――?
振り返ると、風のように駆け込んでくる白い影。
ダウィの愛犬、タイだ。
まっすぐに主人の下に駆け寄ると何かを訴えるように鼻をならす。
ダウィが顔色を変えた。
「……しまった!」
小さく叫び、珍しく焦った様子でダールの名を呼ぶ。
「サザニア軍が進路を変えた。ここじゃなくてカルティエッタに向かっているらしい!」
その言葉に、酔いも眠気もふっとんだのか、ダールと将軍は慌てて腰を浮かせた。
「なんだって! そりゃ将軍の城のある街じゃないか!」
そう。そして交通の要所だ。そこを押さえるメリットはレオナにだって判る。
顔面蒼白になった将軍はダウィを見つめた。そのダウィはいつもの笑顔を引っ込めてうつむいる。そして何かを考えるようにぶつぶつと口の中で呟いた。
「……カルティエッタなら、やつらの位置からだとそう遠くないな。仮に今と同じペースで移動を続けたとして……奴らがあの街に着くのは昼前」
「昼前か――どうなさる、ダール殿」
さっきまでただの娘を亡くした老人だった男は、『将軍』の顔で王子に問うた。
当の王子はアルコールが入っていようと頭の回転にはさほど影響を与えない性質らしい。真っ赤な顔の割に言葉はしっかりしていた。
「伝令を援軍に。それから第二連隊と第五連隊以外はカルティエッタに向かえ」
その言葉を聞いて、側に控えていた従者の一人が動き出そうとする。
しかし、将軍がそれを引きとめた。そしてダールを正面から見つめ、唸る様に問う。
「第二と第五はどうなさる」
「俺が率いてファズを迎えに行く」
「なりません」
将軍は強張った声で反論した。
「あの場所は、やつらがカルティエッタに向かうルート上ではないですか。死にに行くようなものです!」
「ならばファズはどうなる!」
「時に一人を見捨てるのも戦術」
「けれど!」
必死の声で訴えるダールに、将軍は『将軍』の顔からいつもの表情に戻った。
「ファズは強い。その上暗殺者の家系よ。……たとえ今はそうでなくとも、な。
大丈夫。ファズ一人なら逃げ延びられる」
「…………」
ダールは下唇を噛んだ。
「全隊、カルティエッタへ。伝令は援軍ににこの件を報告。目的地の変更を要請」
今度こそ、従者が走った。
それを見送ると、ダールは一度浮かしかけた腰を下ろし、大きく息をつく。
腹の奥からもやもやした物を追い払うかのような、深いため息だった。
「水、いる?」
ダウィが差し出すグラスを一息に呷り、落ち着かない様子で腕を組んだ。
「……戦術とは、嫌な物だな」
やっと搾り出した言葉がそれだった。
金の瞳の青年はいつもの笑みでダールの背中を慰める様に叩く。
「そんな嫌な事、国王になったらもっと沢山あるよ」
「ああ……」
ダールは限りなく無表情に近かったが、普段表情豊かな方なのでそれが逆に悲壮感をかもし出していた。
レオナも将軍もかける言葉が思いつかず、黙ってその場に座っていた。出立の準備が出来たら誰かがここに呼びに来るだろう。それまではきっと気まずい時間が続く。誰もがそう確信していた。
そんな時突然、ダウィが立ち上がった。
「俺が行って来ようか。ファズを迎えに」
言うが早いか、呆気に取られるレオナ達を脇に、一人荷物をまとめ始める。
「――って、おい! お前ファズの居場所知らねえだろ!」
そう多くない荷物を肩に引っ掛け、ダウィが振り返った。少し長めの金髪が揺れて広がる。悪くない造作とその色合いの所為で、顔立ちだけならまるで神の使いの様に見えるのに、薄めの唇が形取る皮肉気な笑みが妙に人間くささを感じさせる、あの表情。
「知ってるよ。将軍の――テート家の墓地だろ?」
「お前なんで……?」
ダウィが何か言うよりも早く、将軍が口を挟んだ。
「葬式の時に来て下さいましたからな。木の苗を持って」
「――覚えていらっしゃいましたか」
眼を丸くする青年に、老将軍はあの唇の片端だけを吊り上げる笑みで答えた。
「去年も秋に黄色い花を咲かせてましたよ。今年もそろそろですかな」
ダウィは、嬉しそうに微笑んだ。
「ファズも墓も、俺が守りますよ」
ダウィはそういい残し、愛犬とともに背を向けた。開け放ったままだった扉をすり抜け、遠ざかる影はやがて街の暗がりの中に溶けていった。
【後書き】
*作中の国(イーカル王国)の法律には飲酒に年齢制限はありません。
*日本の法律では飲酒は二十歳を超えてからです。法律は遵守しましょう。