第10話 危機
裏手を流れる川はいつも兵士達の水浴びの場となっている。
しかし、ダウィと話し込んでいる間に殆どの者は上がってしまったらしく、レオナが着いた時にはすでに人の姿はまばらだった。すっかり薄暗くなった川べりを見回し、人の居る所から少し離れた場所に抱えていた剣や荷物を置いた。そして靴を脱ぎ、足首まで水に浸かる。疲れ切って火照った身体に染みるような冷たさが心地良い。
背を屈めて流れに手を浸すと、両手をすりあわせて丹念に洗った。指の間の乾いた泥を、爪の隙間に入り込んだ血液を、全て洗い流すまで。
女性としてはやや大きめな……それでも他の兵士たちと比べればほっそりとした印象の指が元の白さを取り戻すと、レオナは両手で水をすくい、顔を洗った。
「お。あそこのあいつ――レオナ、だっけ?」
不意に知らない声に名前を呼ばれ、振り返ると男が4人。
その顔には見覚えがあった。レオナが入隊する以前からこの軍に居るという一般兵だ。
「やっぱり『レオナちゃん』だ。どうしたの? 一人でこんな所にいるなんて」
人を小馬鹿にした、子供にでも話しかける時のような口調で語りかけてくるのはリーダー格の三十路過ぎの男。
水浴びをしている最中だったらしく全身から水を滴らせている。その他の男も似たり寄ったりで、素っ裸な者こそ居なかったものの、それでも上半身は裸かサラシだけという姿だった。
半年以上もこの戦場で戦っているという彼らの身体は日に焼けているばかりでなく、全体に引き締まっている。更に、ひきつった古傷や赤く盛り上がった真新しい傷口があちらこちらに有り、彼らの闘いの凄まじさを想像させた。
そして皆、一様に眼をぎらつかせていた。
これは戦士としての眼光の鋭さとは違う。
これは町の娼館を物色する時の男の目だ。
「何?」
レオナは彼らの目に宿る欲望に警戒をしながらも努めて冷静に問いかけた。
「『レオナちゃん』はいつも『王子様』達と一緒だからさ、たまには俺達とも遊ぼうって誘いに来たんだよ」
リーダー格の男が言うと、打ち合わせでもしていたかのように、男達はレオナを取り囲む。
「な、何を──!」
一番体格の良い大男が後ろからレオナの腕を掴み上げた。
「離せよ!」
睨みつけても、大男は怯む事もなく、口の端に嫌な笑みを浮かべながらレオナの二の腕を掴んだ手に力を加える。
「──くっ」
男達は暴れるレオナを押さえつけ、岸へと運ぶと茂みの陰に押し倒した。
すかさずリーダー格の男がのしかかり、レオナは組み敷かれる。
「本当に女みてーだな。こんな顔で啼かれたらたまんねえぜ」
そう言いながら、右手をシャツの裾から侵入させる。サラシの上からとは言え、腹の上を這い回るおぞましい感触に息を呑む。
いや、それどころでは無い。このままでは、いずれレオナが女である事がバレてしまう。
バレれば大罪。レオナ自身も村に居る両親もただでは済まないだろう。
レオナは身をよじり、全身の力を振り絞って自分を押さえつける力をはねのけようとするが、びくともしない。のしかかる男をどかすどころか、手を動かす事すらできなかった。
「何をする気だ!」
「わかってんだろ」
「テメエが毎日ジジイ共にしている事を俺達にしてくれればいいのよ」
男達が卑下た笑いを交わす。
「サラシが邪魔だな。はぐか」
男の手が再び胸元へと動き始めた。その時、
──ウォン!
獣の吠え声と同時にレオナを組み敷いていた力が緩まる。
廊下においてきたはずのタイが、レオナにのしかかっていた男に体当たりをして突き飛ばしたのだ。
タイは男達との間に立って唸った。
「無事か?!」
聞き覚えのある声に安堵を覚えながら身を起こすと、向こうからダウィが駆け寄ってくる所だった。
タイは主人の姿を認めると、自分の役目は終わったというように身を翻してどこかへ消えた。
「──なんだ。お前らか」
ダウィは男たちの前に立ちふさがり、吐き捨てるような口調で言った。いつもの笑顔ものんびりとした口調も今はどこにも見えない。これがあのダウィかと耳を疑うような言葉が、彼の薄い唇からもれる。
「失せろよ、クズども」
「それはこっちの台詞だぜ、ダウィ。俺達はこの『レオナちゃん』と遊ぼうとしただけだ。胡散臭え余所者は引っ込んでな」
ごつい男達が肩を怒らせて詰め寄っても、ダウィは怯む様子も見せない。
「合意の上なら止めないんだけどな」
「正義の味方ぶろうってのかぁ、おい」
「そんなまっさらな人間に見える?」
「まぁ、まてよダウィ」
割り込んできたのは、先程タイに突き飛ばされた男。打ち付けた腰をさすりながらようやく立ち上がったようだ。
「テメエも俺達と一緒に遊ぼうぜ。それなら文句ねえだろ」
「強姦に荷担する趣味はない」
「いーや、合意の上だよ。テメエが俺達にヤられるんだ。
聞きゃあテメエは毎晩テメエの天幕に戻らねえそうじゃねえか。どこで何してるんだ、ああ? あの老いぼれ将軍やら王子様やらにケツ貸してんだろ。じゃなきゃ、逃げ回ってるだけで戦いもしねえ傭兵がこんな所にいる訳がねえ。
……テメエも十分美人だしな」
リーダー格の男は、ダウィの顎を掴み顔を上げさせようとする。無理矢理視線を合わさせられた本人は疎ましげに目を細めた。
「それは侮辱ってものだろう?」
ダウィが口元だけで笑みを作ったのが見えた。そして彼はゆっくりと左手をあげ、男の手を払う。
「ぅわあ!」
はたかれた男は、軽く触れただけなのに何故か叫びながら大きく退いた。
「なんだ?!」
暴漢達は口々に言い、再び尻餅をついた男の様子を窺う。
やがて、弾かれた箇所を押さえていた男の指の間から深紅の液体が伝い落ちる。
「血ぃ ?!」
それも、ちょっと切れたとかそんな量じゃない。刃物か何かでザックリといったような。
レオナは驚いてダウィを見た──が、彼が刃物を持っているような様子は無い。駆けつけて来た時と同じ、手ぶらのまま、慌てる男達を見下していた。
「だ、ダウィ! テメエ何しやがった!」
叫んだのは、最初にレオナを羽交い絞めにした大男。自慢の筋肉を誇示するように全身に力を入れ、足音をたてて前に進み出る。
ダウィは少し眉を動かしただけで、そんな威嚇は通じないという風に男をまっすぐに見つめていた。体格差にも恐れる様子はない。冷ややかな視線には嘲りすら浮かんでいるように見える。
大男は雄たけびを上げ、丸太のような腕を振りかぶってダウィに殴りかかった。彼は一撃でしとめるつもりだったのだろう。上方から叩き落す構えは、そこから次の攻撃に続けるには不向きだ。
実際、ダウィは上背こそあるものの全体に細身で、打てば吹き飛びそうにすら思える。男の判断は間違っていないはずだった。
――初撃が当たりさえすれば。
男の拳はダウィの頬を掠めた。
いや、拳がダウィにあたるよりも先に、ダウィが男の懐に一歩踏み込んだのだ。
ダウィは男の腕を抱えると、殴りかかってきたその勢いを利用して巨体を投げ飛ばした。
今度はレオナにも見えた。
ダウィが腰に巻いた帯の間からすばやく短剣を抜き取るのが。
ズダン!と重たい音が耳朶を打つ。
投げ飛ばされた男はただ呆然としていた。彼に馬乗りになられるまで、自分の身に何が起きたのか分かっていなかった。
それくらい、ダウィは速かった。
レオナにしたって、少し離れた場所にいたからその動きを見ることができたのであって、それ以外の者たちからは何も見えなかっただろう。
狼狽し、何も出来ずに居る彼らを尻目にダウィは逆手に握った短剣を振り上げた。
「――ヒッ!」
静かな川岸に、獲物となった大男の息を呑む音が響く。
太陽の最後の光に刃が閃いた。
「やめろ!ダウィ!!」
レオナの叫び声が届いたのか、ダウィの振り下ろした刃は男の喉下を掠め、地面に突き刺さった。
無表情に振り返った彼の双眸が、夕日を受けて不思議な色に煌く。黄金色の瞳の奥に緑の炎が揺らめくような――
……緑?
レオナは眼を瞬かせた。
気のせいだったらしい。真っ赤な夕日を受けてオレンジに染まったダウィがレオナに問いかける。
「いいの?本当に」
レオナは言葉を発することも出来ず、ただ首を何度も縦に振った。
「そう……」
短剣を収め、ダウィは立ち上がった。
しかし、
「――てめぇ!」
そう叫んで、呆然と見守っていた男たちが弾かれたようにダウィに襲い掛かってきた。
ダウィは驚いた様子も無く、次々と繰り出される拳を、脚を、ギリギリでかわしていく。
彼らは決して弱いわけではない。いや、前線で半年以上も生き延びてきた猛者たちだ。武術としてはなって無かったとしても実践で鍛えられたその技は、普通の人間なら嬲り殺すこととてたやすいだろう。
それでも彼らはダウィに一撃も中てる事が出来ない。
焦れた一人がポケットからナイフを取り出した。
ダウィの目付きが変わる。
手近にいた一人の腕をつかんで投げ飛ばし、ナイフを持つ男の元へと走り寄った。
右手には先ほどの短剣を握ったまま。
「はっ!」
小さな気合とともに、刃が繰り出される。
「ぅあっ !!」
悲鳴と同時に、男の握っていたナイフが地面に落ちた。
「ああああああーーーー !!」
搾り出すような声が鼓膜を震わせる。
男の右手首のすぐ上がざっくりと切られ、その滴る血液がズボンに大きな染みをつくった。
「レオナが殺すなって言うから手加減したけど」
ダウィは無表情に男を見下してポソリと呟く。
「次は――『首』だよ」
男達の顔に戦慄が走る。
「――ひっ」
上ずった声をあげ、最初に逃げ出したのはあの巨漢。
腕を押さえたままのリーダーがそれに続くと、残りの二人も後ずさるように逃げ出した。
「……ふぅ」
ダウィは右手首に巻いていた白い布を解き、それで刃についた血を拭った。
続けてもう1本。瞬きする間に手品のように取り出したのは、掌に収まるほどの小さなナイフ。
なるほど、これが最初にリーダー格の男を切りつけたものなのだろう。あの時には顎を掴む手を素手で振り払ったかのように見えたが、これなら隠し持つ事ができる。
ダウィは二本ともを手早く拭くと、布に包んで帯の隙間に押し込んだ。
ひどく手慣れた仕草が、普段の読書好きな知識人という印象と違って生々しい。
しかし、振り返る笑顔はいつもの彼のそれだった。
「大丈夫、レオナ?」
ダウィは軽い足取りでレオナの前に立つと、芝居がかった仕草で手を差し出す。
「立てる?」
「あ……ああ」
その手を握ると、ダウィは大した力もかけずにレオナを引き上げた。
「軽いね」
「ま、まだ成長期だし」
レオナは取り繕うように言った。体重が軽いのも背が低いのも本当は女であるからなのであって、今後伸びる予定など無いのだが。
そんなレオナをじっと見つめ、ダウィは小首を傾げた。
「力もそんなにある方じゃないよね。やっぱキモチの問題かな」
「何が?」
「君の強さ」
そう言うとダウィは側に投げ出されていたレオナの剣を拾い、鞘を払った。
「これ、将軍からもらった剣? やっぱり、悪くはないけど良い剣って訳でもないね。
もう少し体重の使い方を覚えると良いよ」
「――体重?」
「剣術だけじゃなくて体術でもそうなんだけどさ。俺や君みたいな、体格に恵まれなかったヤツはどうしたって力負けするだろ。だから打撃力を増すためには体重を乗せるしかない。例えば、打ち込む時に利き足で更に踏み込んで、それに合わせて重心を移動させるとかね。
――こういう風に」
ヴン!
大きな風切り音。
ダウィは眼にも留まらぬスピードで中空を薙いだ。
「君は戦場じゃ強いね。それは普通なら守りに入っちゃう場面でも君は踏み込んでいくから。
だけど、そういう強さはもろいよ。
さっき君は自分の身を守ろうとしたでしょ? そしたら全然歯が立たなかった。
君の強さは、死んでも良いと思う気持ちがあるからこそなんだよ。そんなんじゃ生き残れない。
――俺や将軍みたいな物好きが側で見てなかったら、ね」