第17話 王姉
豪奢な扉が開かれる。
居並ぶ使用人たちはピタリと同じ角度で頭を下げ、その向こうに高貴な装いの方が立っていた。
一人だけじゃない。三人。
そこには、面会の約束をした公爵夫人だけでなく、他に二人の男性が居た。
――屋敷の主である公爵が同席する可能性は考えていたけれど、もう一人は誰だ?
内心首を傾げながら立派なホールに足を踏み入れた。
ユリの飾られた花瓶の脇で笑顔を浮かべる白髪の老婦人が、王姉であり公爵夫人でもあるカタリナ・アランバルリだろう。だが、正面に居る夫人と同世代の男性二人のどちらが公爵であるのかわからない。
来客であるレオナが先に名乗るべきなのに、戸惑いによる虚を突くように左側の男性が口を開いた。
「本日はご足労頂きましてありがとうございます。そして、ようこそウォーゼル王国へ。
私はオスワルド・テシト・イブラーツァ・エト・アズロシア・ル・アランバルリ。ウォーゼル国軍では大将を務めております」
イーカル人のレオナからすると、どこからどこまでか名前なのだかわからない長い名乗りだった。
一応予習した所によるとこの長ったらしい名前の中に公爵を意味する言葉や領地の名が入っているらしいが、もう覚えきれないから「公爵」で統一しようと心の中で決める。
レオナは片足を一歩引き、鳩尾のあたりで手を組んで膝を屈めた。この国でもっとも丁寧な婦人の礼だ。
公爵は軽く目を瞬かせた。服装がイーカル風であるから礼もイーカル流を貫くと思ったのだろう。だが実はこの辺は昨日のうちにダウィに教えられた駆け引きというやつだ。
「このような若輩者に身に余るほどの歓待、かたじけなく存じます。イーカル王国セイダ領領主レオナ・ファル・テートと申します」
ここだけはダウィによってきっちり発音矯正された大陸共通語で言い切る。
しかし、これ以上はボロが出ないように通訳を介するつもりだ。何せイーカル語と共通語は母音の数が違うせいでレオナの発音が少し幼稚に聞こえるらしいのだ。どれくらい幼稚なのかと尋ねればすっと視線を逸らされ、なお食い下がれば「……『ですよ』が『でちゅよ』に聞こえるくらい」などと言われてしまった時にはもう公式の場で共通語を使う勇気など強風の前の塵となる。
「セイダは緑豊かな美しい土地であるそうですね」
《公爵様にご存知いただけるとは恐悦至極にございます》
公爵の共通語をダウィに訳してもらい、イーカル語で答え、更にそれを訳してもらう。
この程度の会話なら聞き取れてはいるがパフォーマンスというのも必要らしい。それに、通訳を待っている間に返答を考えることもできる。気の利いた会話やら咄嗟の機転やらに乏しいレオナにはありがたい時間だ。
公爵は隣できらきらと好奇心に満ちた視線を送る女性を示した。
「こちらが妻のカタリナです」
紹介が終わるやいなや、夫人はレオナの前に進み出てその手を取った。
「お会いできて嬉しいわ。お手紙をいただいてすぐに返事を書きたかったのだけど……遅くなってしまってごめんなさいね?」
少し砕けた雰囲気のある方だった。
《こうしてお目にかかれただけで光栄にございます》
「ああもう! 私こそ、ジアード様のお嬢様にお会いできるなんて夢のよう!」
《あの、娘と申しましても私は養女で……》
「ええ、ええ。聞いているわ。でもジアード様が貴女を選んだ理由がわかる気がするの。彼の奥様にそっくり」
レオナは戸惑った。
「ねえ。そのブローチ、彼女の物だったのではなくて?」
公爵夫人の言うのは、首元のショールを留めるブローチだ。
これを用意してくれた男――テート家に古くから仕える従者は先代の遺品の中にあったと言っていたが、男性が好むデザインではないだろうから、やはり先代の奥方の物であったのだろう。レオナは曖昧に頷いた。
「やっぱり! このブローチは私が彼女に結婚祝いとして贈ったものよ!」
《結婚祝い……?》
「あら、ご存じなかった? ジアード様の奥様はウォーゼル人よ。私のお友達だったの。
それでね。ジアード様は――私の初恋の人だったの」
爆弾発言に驚いたのはレオナよりもむしろ夫人の後に居た二人だった。
公爵は目を白黒させながら夫人を引き寄せた。
「いやだわ。子供の頃の話よ。今は貴方一筋」
夫人が宥めるように胸に手を寄せるので、公爵は咳払いをしてその場を誤魔化した。
醜態を晒したと気まずげな顔を作っているが、目は笑っている。
――公爵はウォーゼルとイーカルが国境争いをした時に出兵していたと聞いていたから、イーカルを敵視しているかと思っていたが、認識を改めるべきだろうか?
少なくともレオナ個人に対して敵意を向ける事はなさそうであるし、敵軍の将であった先代の名前を聞いてもどこか楽しげな表情を浮かべたままだ。
距離を掴みあぐねながら三人目の人物に目を向けた。
服装や佇まいからして貴族だ。比較的整った顔立ちで半分ほど白髪の交じった黒髪を後に撫で付けている。
レオナの視線に気づいたのだろう、公爵が口を開いた。
「こちらは――ああ、いや。彼を紹介する前に、私がお礼を申し上げなければ」
公爵は姿勢を正し、まっすぐにレオナの顔を見つめた。
「【萌花の欠片】の輸送に関する責任者は私でした。
あのまま【欠片】が戻らなければ責任を取ろうにも私の辞任程度では収まらなかったでしょう。
――全てレオナ・ファル・テート殿のお陰です。
【萌花の欠片】を取り戻してくださった事に関して、ウォーゼル王国軍大将として感謝の意を表します」
感謝と言っているが、深く腰を折り頭を下げる公爵の態度は謝罪の礼だ。おそらくは事件に巻き込んでしまった事に対しての。
「そして、こちらにおりますのは、私のおとうとです。
【欠片】の警備責任者は私でしたが、彼は式典の運営の方の責任者でありましたのでレオナ殿に直接お礼を申し上げたいとこうしてまかり越した次第です」
「テオバルドと申します。
レオナ様のお陰で今年も無事式典を執り行う事が出来ました。ありがとうございます」
テオバルドがレオナと握手を交わすのを待って、公爵はレオナを応接室に案内した。
大きな窓のある部屋だ。薄いレースのカーテンの向こうに庭園が広がっている。砂漠の国に生まれたレオナが一番興味をひかれたのは、その庭園をつっきるように設置された水路。きらきらと輝く水面に夏らしい鮮やかな色彩の花々が映りこんでいる。
《綺麗……》
思わずぽかんと口を開けたまま見入ってしまった。
はっと我に返って振り返ると、そんなレオナを全員がほほえましげに見つめていた。
《す、すみません!》
「自慢の庭を褒めてくださってとても嬉しいわ」
そういって公爵夫人はおっとりと笑う。
「ウォーゼルではね、庭はその家の妻の評価を決めると言われているの。お客様に庭を認めてもらえる事がウォーゼルの主婦の一番の喜びなのよ」
公爵夫人はレオナの手を取って窓辺へ向かい、そこに咲く花々の名前などを教えてくれた。
トピアリーや木々の剪定、それにアーチやオベリスクの設置といった力仕事は使用人が行っているらしいが、どこにどの花を植えるかであるとかどんなタイルを使うかであるということは夫人が決めるのだという。そして花苗を植える作業も殆ど全てを自らやると話していた。
こんな上品なご夫人が地べたにしゃがみこんで手を土で汚すなど想像がつかないが、この国ではそれも女性の嗜みの一つであるらしい。
夫人があまりに楽しげに語るのでいつまでも園芸の話が続きそうになったが、さすがに途中で公爵が止めに入った。
勧められるままにソファに腰を下ろすと、通訳であるダウィがレオナの隣に座った。
向かいに公爵が、その隣に公爵の弟が座り、公爵夫人はなんと手ずからお茶を入れてくれた。
花に似た芳香を持つお茶だが花びらなどは交じっておらず、ウォーゼル王国北部で栽培されている肉厚な葉を蒸したり揉んだりして加工したものだという。味は飲みなれたイーカル茶に近い渋みを持ち、ほのかに甘みがある。
レオナがカップをテーブルに戻すのを待って、公爵は口を開いた。
「ご用件の前に、一つ伺いたい事があります」
《はい》
「今回私達兄弟はレオナ・ファル・テート殿に助けられました。是非お礼をさせていただきたいのですが、何分浅学なためイーカル王国の方の礼儀というものを存じません。
不躾とは存じますが……何かご希望はありますか?」
公爵はエルネストがよくするように、目の奥の感情を読もうと言う顔をした。
これは文字通り「贈り物を用意しようとしたが思いつかなかった」という意味ではないのだろう。
おそらく、「借りを返すからそっちの要求を言ってみろ」という意味だ。
ならばレオナの言う事はただひとつ。
《この書状を、ウォーゼル国王陛下にお渡しいただけませんか》
レオナはイーカル国王の印の押された細長い箱をテーブルの上に置いた。
厳重に封印された箱の中身は見ていないが、イーカル国王からウォーゼル国王へ国交正常化を求める手紙だと聞いている。
そしてその隣に添えたもう一つの箱は手土産と称した宝飾品。今回は非公式の訪問故に多くの贈り物を持ち込む事は出来なかったが、あしらわれた貴石の価値は相応の物だそうだ。
「渡すだけ――ですか」
《ええ》
「口添えしろとはおっしゃらないのですか」
《していただけるならお願いしたい所ですが、お立場もあるでしょう。
それに私の役目は言質をとってくる事や条約を締結する事ではありません》
「しかし、例えばもし何某かの条約締結などという事になれば貴女の手柄が増えるのでは」
《私にそのような期待はされていません》
言い切るレオナを、公爵もその弟も不思議そうな顔で見つめた。
「期待されていないなどと卑下される割りに自信に満ちた目をなさいますね」
《自信……があるとするなら、それはイーカル国王陛下が私を必要として下さっているという確信くらいのものです。
私は剣を振るう事しか能の無い軍人で、先走って条約締結などと言うことになっても要点すら理解できません。
しかし、我が国には優秀な文官がおります。彼らなら私のような者が口出しするよりも我らが国王陛下のために良い結果を齎してくれるのでしょう。
だからイーカル国王陛下が私にお望みなのは、その足がかりとなる手紙を届ける事――そして何事もなく陛下の下へ帰る事です》
正直すぎたかと思いつつ、本音を言って笑ってみせた。
レオナがウォーゼル王国に行くと言い出した時、彼は国益と友人の命を天秤にかけたのだろう。
国王としては国益を最優先させなければならないから同意したが、本来の彼は友人を一人で敵国に送り込むような事を許せる人間ではない。だから無事に帰ってくるよう厳命する事がぎりぎりの譲歩だったのだ。
レオナをウォーゼルに送り出す為の書類にサインする時だって彼は「無理も無茶も背伸びもするな」と言ってくれた。
レオナには、そのように友人として彼に案じてもらえる事が何より嬉しかった。
それはレオナの誇り。
だからただのお使いという立場でも自信を持っていられるのだ。
公爵はレオナの笑みをどう捕らえたのか、ひどく真面目な顔で頷いた。
「……私から国王陛下に話をしましょう。
必ず何某かの返事を貰って来ます。だから何日かお待ち頂きたい」
《はい! お願いします!》
「色々と支度もあるので、五日はみて下さいませんか」
五日はかなり長い日数だが、謁見だけでもこの国ではそれなりの手間があるのかもしれない。
レオナ自身には特に用事もないので承諾の返事をした。
すると、それまで完全に通訳に徹していたダウィがおもむろに口を開いた。
「それでは一週間後でいかがでしょうか」
「一週間後?」
「それまでの間彼女を我が家へ招待したいと思いまして」
突然の提案に当のレオナが目をぱちくりさせている間に、話はなし崩し的に決まったようだ。
* * *
長い事緊張状態が続いていた隣国からの客人がお帰りになった。
遠ざかる馬車を見送り、カタリナは再び応接室でお茶を入れた。
三つのカップの一つをまずは弟に、それから夫と自分の席に。
柔らかなソファに腰を下ろし、向かいに座る弟を見つめた。
「レオナ様をどう思いまして?」
「腹芸のできぬ娘だな。貴族だと言うが政治には関わって来なかったのだろう。領地の管理も怪しいものだ。駆け引きも交渉も何もあったものじゃない。愚直すぎて罠の可能性を疑うほどだ」
「手厳しいですわね」
「我が国にとっては良い事だ。それに性根は悪くない」
テオバルド――正式にはウルベリアス・テオバルド・クィネッサ・エト・ウォーゼル・ル・ゲットルと名乗る男は迷いの無い言葉で答えた。
「『イーカルとの国交正常化を前向きに考える』と、こちらからイーカル王都に特使を派遣する」
それを聞いて公爵は即座に立ち上がり、臣下の礼を取った。
「陛下。その特使、私にお命じ下さい」
「未だ敵地。危険な場所だ。そして優秀なお前は国の宝――それに、家族の情としても義兄をそんな場所に送り込む事はできない」
「国宝を奪われ、警備を担当する私は死罪を――それがならずとも自死をと覚悟しておりました。
あの娘に救われた命です。命をもって恩を返すのがウォーゼル人というもの」
公爵の意思は頑なだった。
テオバルドは深く息を吐き、ソファに沈む。
瞑目し考え込んでいたのはどのくらいの時間だったろう。
ゆっくりと目を開き、礼を取った姿勢のままぴくりとも動かぬ公爵の姿を見つめた。
「それはお前の戦いか」
「――はっ」
「ならば止めぬ。一週間のうちに支度せよ」
ウォーゼル国王はイーカル国王からの書簡を手に取り、封蝋を撫でる。
「私とて聖王ラズ・ゲットルの末裔。相応しい戦いをして見せよう」