第1話 始まり
雲の一つも無い空の下で、少女は一人墓標にとりすがって泣いていた。
小さな山の中程の、緑のぽっかり空いたその場所に。新しい墓が一つ。
中身は、無い。
ただ血に染まったシャツが1枚、墓標の下に埋められていた。
乾いた風が少女の枯葉色の髪をまきあげる。
少女は握った拳で涙をこすった。
その拳の中には鎖の千切れたペンダント。
それは暑い夏の日だった。
* * *
パタパタと軍靴が軽い足音を立てる。
昼食後に行くと伝えてあったのに、時刻はすでにティータイムだ。
前庭を早足で進みながら、レオナはふと自分の服装がこの場にふさわしくない事に気がついた。
隙無くきっちりと着こなした軍服は正装として通用するものなので、一応問題となるものではない。ないのだが、万一、口煩い将軍や気位の高い騎士団長に見つかったら叱られる。きっと叱られる。
――さて、彼らから文句の出ない服はどこだ。
騎士の制服は軍の自室に置いてきてしまったし、貴族としての正装は屋敷のクロゼットの中。
「うん。無理」
今から取りに戻っていたのでは何時になるかわからない。要は彼らに見つからなければそれで良いのだ。
レオナは渡り廊下に向かっていたつま先をくるりと転回させ、人通りの少ない中庭へと続く道を選んだ。
通用口を警備する部下に片手を上げ、秋を感じさせる色彩の庭へ下りれば軽い駆け足になる。
意匠の凝らされた剪定の植え込みは紅葉の様も計算されていて、王家の栄華の象徴でもある水路に浮かぶ一枚の落ち葉すら職人の仕業なのではないかと感じるほどだ。
南国からもたらされたという蔓植物のアーチを潜ると、冬支度のために刈り込まれた裸の木々に囲まれた小道がある。凝った彫刻も目ぼしい花もなく、使う人も殆どいない抜け道だ。
ここを真っ直ぐ行けば目的の人物の待つ王太子宮まであと少し。だが、レオナはその途中で一度足を止めた。
周囲の植栽とやや趣きを異にする草がそこに一輪生えている。
ふわふわと短い毛の生えた葉と、それに包み込まれるようにすっと伸びた茎。そしてその先で膨らむ小さな蕾に目を留め、軽く口角を上げた。
願掛けかおまじないかでもするように柔らかな葉にそっと触れる。
いや、それは真実願掛けであった。
「――あと少し」
小さく呟き、名残惜しげにゆっくりと指を離す。
軍人としてはやや細い手首で、短い鎖のブレスレットが揺れた。
レオナは、彼らが『約束の花』と呼ぶその草に別れを告げて立ち上がった。
約束は約束でも、今はお茶の約束の方を違えてしまいそうなのだ。
怒ってるだろうなあと友人の顔を思い浮かべて苦笑する。急がなければどんな罰ゲームを課せられるかわかったものじゃない。
だがすぐに、行く先から近づいてくる人影に気がついて踏み出しかけた足を元に戻した。
目に飛び込んできたのは、ふわりとしたドレープと薄布を幾重にも重ねて作られた紫のグラデーション。ドレス姿の小柄な女性が東屋の向こうから姿を現した。
彼女もこちらに気がついた。
大きな目を軽く見開くと、少女性を残した満面の笑みを浮かべ――そして、
「レオナ!」
「ちょ―ーっ!」
慌てて制止しようとしたが間に合わず、彼女は案内の侍女や護衛を振り切るようにして駆けて来る。
ドレスの裾をたくしあげて。
「ルティア! 『淑女の慎み』はどうしたの!」
眼前でぴたりと足を止めた親友に思わず叱るような口調で言うと、彼女は小さな手を口元に添えてきょとんとした顔を作った。
「――あら、これはレオナ・ファル・テート様。ご機嫌麗しう」
化けの皮がはがれるのも早いが猫をかぶるのも早い。
あっけに取られた様子のお付達に同情した。
「レオナは今からダールの所に行――らっしゃるの?」
取ってつけたような敬語に吹き出しそうになりながら、レオナは応えた。
「うん。約束の時間は過ぎちゃったんだけどね。もしかして、ルティアもダールの所に用事だった?」
「ええ。母から届け物を頼まれまして。
今日はレオナ様もいらっしゃると伺っていたのでしばらく待っておりましたのですけど」
「あはは。ごめん。会議が長引いちゃって」
レオナはイーカル国軍でひとつの連隊を率いる連隊長である。
例えそれが一番規模の小さい連隊だとしても、抱える兵の数が二百と少ししかいなくても、レオナは立派な連隊長であり、定例の会議では最後まで座っていなければならない義務がある。
「それは大変でしたわね。これからゆっくりできると良いのですが」
ルティアのどこか含みのある言葉に眉をひそめる。
「どうかしたの?」
「ダール殿下が今日はやけに落ち着かなげだったの」
「いつもの事じゃない?」
「それは、おっしゃる通り、ですわね……」
どこか様子がおかしかったという事だろうか。
有力貴族の娘であるルティアは年が近い第三王子の遊び相手を務めていた事がある。もしかしたら幼馴染だからこそ感じ取れる何かがあったのかもしれない。
レオナはちらりと『約束の花』に視線をやり、彼女を安心させるようにふわりと微笑んだ。
「ありがとう。ちょっと気をつけてみるよ」