チャックチェック
おいおいこれはどうしたものか。
俺は今さっき大変なことに気がついてしまった。
俺は電車の中、6人がけの長い座席に腰をかけて本を読んでいた。休日とはいえ、朝七時の車内は人と人が触れるか触れないかという微妙な距離感のまま詰まっている。俺はいつものように読書にふけっていたのだがある駅についた時、隣のスーツの男が降車してその前に立っていた女性が座った。スカジャンにジーンズ生地のショーパンを着ていて、髪は毛先の方が明るくなっている長髪だ。それから角張ったキャプを被っている長身の人だ。
初めは気にも留めながった。
電車の中は本を読む為の空間だ。隣にどんな美人が座ろうと、どんなに気持ち悪いおっさんが座ろうと、何とも思わない。否、まずもって隣にどんな人が座っているのかということさえ気にならない。
気になる時は、居眠りをしてもたれ掛かってくる人が隣の時と、やたらに香水の匂いがきつくて酔いそうになる時だけだ。
さっきまでいたサラリーマンを認識したのは居眠りをして何度も何度も俺の肩に頭を乗せてきて不快だったからだ。
本当か気持ち悪かった。あの薄くなっている頭皮をオールバックにした髪で隠すために大量に付けられたオイルが肩にぶつかる度に、背に冷たいものが走った。今でも肩が汚染されているようにも思う。
そのサラリーマンが立った時俺はやっと助かったと思った。やっと、自分の安全保障が確立されたと喜んだ。
しかしそれは違った。次に座った女の香水がやけにきつかったのだ。
そんの女がたっている時は特にそんなことは感じなかったが、隣に座った所で、ひどく強い香水に匂いに気分が悪くなった。
座ってすぐ、その女は手にもって何やら操作していたスマートフォンをポケットに突っ込み、左足を上にして足を組み、それから頭を下に向けて手も組んだ。多分寝たのだろう。
俺はそれを一瞥したあと、なるべく気にしないようにしようと文庫に目を戻した。
その時、俺は違和感を覚えた。スカジャンにジーンズ生地のショーパンという何方かと言えば暗い色遣いの服装からは考えられないような色が一瞬目に飛び込んできたのだ。
白だ。
彼女の服装の一部分が白かった。具体的にいえば体より少し大きいスカジャンの間から見える黒いティシャツが終わり、そのスラッと伸びた長い足を小さく覆うショートパンツとの中間ぐらいの所。チラッと白い部分が見えた。
ベルトではない。
ベルトならばもっと上にあるだろう。
その少し下だ。
俺は何故だか気になった。何故かはわからない。只、気になっあのだ。だから俺はもう一度その女性の方を見た。
すると、すると、それはそれは真っ白な、純白のおパンツ様が、おパンツ様が顕現しなさっていた。その白はあまりにも白く、眩くて俺には真正面から直視することは不可能であった。一度目を向けてからすぐに目を外した。しかしである。とは言ってもその眩さから逃れることなど出来ず、視界の片隅にその白き御姿を感じる所に追いやるのが精一杯である。
本当にそれはおパンツ様なのか。
そんな疑問が一瞬頭をよぎった。けれどそんな疑問は浮かんだ時の一瞬よりも短い、ほとんど感じることも出来ないくらい短い一瞬で消え去った。疑いの余地など無いのだ。
あれはおパンツ様である。
ショートパンツのチャック、社会の窓とすら言われる、文明を生きる現代人にとって死守しなければならないチャックが惜しみなく開き、そこから純白がさも当然のように、見えていることが当たり前であるかのように顔をませ、あけすけになっている。
ん?まてよ。
僕に見えているということは他の乗客からも見えているということではないのか?
もしや、この女性の純潔にとっての危機が訪れているのではないだろうか。
今、ことの時もどこかからの卑猥なる視線や、近年小型化を辿っている映像機器によってこの女性を汚さんと虎視眈々と狙っている狼藉者がいるのではあるまいか。それは断固として阻止しなければならない。
俺はそう考えいつもは一切気にとめない周囲を見渡す。
するとほんの俺の向かいの学生が、それの斜向かいの席をじっと眺めているのに気が付いた。
俺は学生を睨む。
そいつはすぐに俺のことに気が付いた。すると何だか申し訳なさそうに、恥ずかしそうに目を背け、反対側の座席に向きあうように移動した。
悪気があったようではない。
恐らく男の持つ性というやつなのだろう。男という野生の本能を理性で抑え込むのは大変なだ。俺にもわかる。自然と体が反応するのであろう。俺とは少し違う反応であるかもしれないが、本質的には同じだ。俺の持つ理性が無ければ目をそらす事など不可能である。
俺は他にもそういった者がいないか辺りを見渡す。二、三の狼藉者を眼力で追い払う。
うん。これはまたどうしたものか。
とりあえずの危機は去ったように思う。しかし、まだ原因たる状況は変わっていない。早く、そして必ず、この今の状況を革新しなければならない。
起こして言うか。
否、そんな事など出来ない。只、自然にいえば相手も問題なく受け止めてくれるかもしれない。しかし、俺にそんな事が出来るわけがない。声を揺らして、言葉に詰まり、相手を不快にさせる自信がある。そうすればどう見ても変態である。これは互いに不利益しか生まない。
では近くの人に頼んで言ってもらうか。
否、俺が人に話しかけられるわけが無い。知らない人に話しかけるなどもう何年もしていない。かと言って今近くに知人などいないし、そもそも、そんな事頼んでやってくれる人ならもう既にこの女性に救いの手を差し伸べているであろう。
どうするのが正解か。
ここはまずこの女性に起きてもらおう。
電車はもうすぐ橋の上を通過する。その時の揺れに乗じて軽く体当たりをかまそう。
あと少し。
うん。
もうすぐ。
今。
俺はそのタイミングに合わせて女性の肩に俺の肩をぶつける。まあまあ、いや、強く当たることができたと思う。
女性が起きた。
それからすぐにこちらを睨んでくる。
やめて欲しい。その目怖いから。
俺は知らんぷりをしてそっぽを向く。
気付け。気付け。
そう心の中で念じながら文庫本に目を向けているが全くそんな様子はない。無理に起こされたことにばかり気になってを睨むばかりだ。早う気がついてくれ。
女性は少し俺の方を見ていて、それからため息をついて視線を変えた。けれど、下の方を見ず、 スカジャンのポケットを探り、スマートフォンを取り出して操作し始めた。
どうせ隣に座ってる奴がぶつかってきた癖に謝らない。まじウザイ。みたいな事を呟いているのだろう。
そんなことは別にどうでもいい。早く自分の状況に気がついてなおしてほしい。
だめだ。このままでは気がつく様子がない。
どうするか。
次の一手をどう出そう。
どうやって気がつかせるか。
そうだ。俺がチャックが開いているということにしてそういう仕草をしてみよう。さすれば自分のことも気にしてくれるかもしれない。
俺はそう思って小さな声で
「やっべえ、チャック開いてた。」
と小さな声で隣には聞こえるように言い、閉める仕草をする。
どうだ。これで気が付いたか。
俺はそう思って隣の女性の方を見る。
すると女性は
「フッ」
と鼻で笑う。そしてまたすぐ、スマートフォンの画面に向かって操作し始める。
次はどうせ、隣のヤツがパンツ露出してた。キモ。マジありえね。みたいな事を呟いているのだろう。
いや、見えてるのはお前だからな。早く気がつけ。
早く気がつけ。
そんな一人相撲を俺がしているうちにまた、その女性を汚そうとしている不埒者が現れた。
俺はまたそれを追い払う。
やはり、まだこれからも危機は訪れるだろう。どうにか早く除かねばならない。
ふと何か嫌な視線を感じた。
俺が辺りを見回すとさっき視線で追い払った男がこちらを睨んでいた。往生際の悪いというか、意地の悪いと言うか、正直気持ち悪いと思う。この後、何か返礼なんかがあったら俺では抵抗できない。それは困る。
ん?
そうだ。
いいことを思いついた。もういっその事その女性の純白に視線を集中させれば気が付いてもらえるかもしれない。俺がさっきの男の視線に気が付いたように、気がつく可能性は案外あるだろう。
よし。これしかない。
俺はそう思って女性の純白に目を向ける。俺が見る分にはまあ女性からしたら男に注視されるよりか幾分ましだろう。だから、汚す訳では無い。大丈夫。大丈夫。
だめだ。
やっぱりすぐに目を話してしまう。
俺には耐え続ける事ができない。
あのように眩いものを見つめ続けるなど出来ようか。
ではどうするか。
よし。
目だけ瞑って顔を向けよう。
そうすれば俺は女性は視線のような何かを感じてくれるかもしれないし、自分を守ることも出来る。
俺は顔を固定して目を瞑る。
しかし、何だか目を瞑っていると悠久の時の中に落とされたような、いつになったら終わるのかがわからない不安に陥る。まるで宇宙の開闢から観察をしているようだ。だから俺は時々薄目を開けて確認する。
しかしすぐにその眩しさにあてられて目を閉じる。
そういうことを幾度と繰り返し、今もう何度、目を開けたであろうか。体感では既に宇宙が開闢し、崩壊するというのが二、三度繰り返したくらいだ。
けれどまだ何も変わっていない。
また目を閉じる。
そしてまた開ける。
また閉じる。
恐らくもう既に俺の中では約二十の宇宙が滅びた頃、やっと目を開けた時の視界の様子が変わっていた。
純白がなくなり、ただのジーンズ生地に戻っていたのだ。
よかった。
本当によかった。本当に。
長い戦いは終わったのだ。これで俺の中で滅んだ沢山の宇宙も報われるというものだ。俺はいくつもの宇宙が滅びるのを何も出来ずに見守ることしか出来なかった。けれど、けれど今回は違うのだ。
やっと戦いは終わった。
俺は英雄になったのだ。
平和への道は開通した。
変態の汚名を被らずに女性を守る事ができた。
ふと俺は女性がどんな顔なのかということが気になった。
今までにない感情が湧いているように思う。
俺はその横顔を見るために視線をゆっくりと上げていく。
しかしそこには横顔は無かった。
そこにあったのは真正面から見た顔だった。
その顔は、驚く程に小さく、目はぱっちりとしていて左右対称で美しく。あでやかなのに下品さを感じない芸術品のようなものだった。
目が合った。
どうしよう。
気まずい。
俺はすぐに目をそらそうとする。
しかし、彼女はそれをさせなかった。
彼女はニヤッと笑って口だけで言ったのだ。
へ・ん・た・い
絶対にそのよう文字だった。
そうか。俺は変態なのか。
もうそれでもいいかもしれない。そういう気持ちになって彼女の顔に見とれていると彼女は、言った。
「何この子面白い。」
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