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未熟なメモリ

 黒塗りの少女と教室で二人きりにさせられたのはあの男の計らいに違いない。そもそもおれが、あの男に秘密を漏らしてしまったことが全ての原因なのだ。当時は彼を、我が県立T高校二年E組のクラス全員の中で、最も信頼に値する男だと信じて疑わなかった。面と向かっていると、思った通りの反応をしてくれて、話しやすかった。だからまんまと、あることないこと全部喋ってしまったのだ。あの男は周りから聞いたあらゆる個人情報をファイルに保存し、状況に応じてその何項目かを、必要とする人間に売り渡し、うまうまと利益を積んでいるのだろう。このことはおれを含め誰もが知るところなのだが、被害者としては、自分から奴に、面と向かって気持ちよく話してしまったわけだから、どうにも彼を責め切れない。あの男は普段は温厚そのもので、誰に対しても人当たりの良い、天使みたいな奴だから、決して人から恨まれたことがない。外見の良さもあり、誰かから弾劾を受けたことが一度もない。彼の仕業だということは明らかなのだが、証拠物は巧妙に隠蔽されるため、そういった理由もある。何にせよおれも、皆の例に漏れず、どうして秘密をクラスの全員に暴露して、しかも皆で画策して、自分と黒塗りの少女の二人きりの状況を作り出してくれたのか、非難できないでいるのだ。その真の原因が、今挙げたもの以上に、自分自身、こういう状況を生み出してくれたことに、奴に密かに感謝しているからなのかもしれないが。


 それはそうと、まずは気まずい空気を何とかしたかった。黒塗りの少女は決して日差しを浴びることがないため、窓側には立たず、常に廊下側の壁にぴったり寄り添っている。おれは窓側で、外のクラブ活動を観察している。たいして興味もない野球の練習風景を、あたかもその手の専門家のごとく熱心なふりをする。ときどき我慢がならず、ちらりと少女を覗き見するのだが、彼女は依然として動かず、だがいつか動こうという気配は残しつつ、でもやはり動かない状態を保っている。顔は漆黒の髪に隠れてよく見えない。自分と少女との距離はほとんど教室の端と端だが、この距離が縮まるかどうかは今のところ怪しい。


 そろそろ夕陽が眩しくなってきた。時計を見やると、そろそろ十分は経とうというところだった。風が気持ち良かったが、その風は少女のところまでは届かず、どこかで不可解な旋回をしつつ、元のところに戻ってきて、新しい風とバトンタッチしていた。黒塗りの少女の周囲では、空気すら彼女の存在に気後れしてしまうようである。あるいはあの黒塗りの少女は、自身をも呑み込むほどの力の塊、コアみたいなものを抱えていて、それがあらゆる物質を遠ざける要因になっているのかもしれなかった。他人と話すのをあえて避け、まるで独自のアルゴリズムに従う機械人形のように、常に単独行動を心がけ、会話も最小限にとどめるというのも、自身のその力を考慮してのことかもしれない。だがそうであったとしても、それがすなわち、彼女がこの世のあらゆる存在を嫌っており、自分すら消し去りたく思っている、なんてファンタジーめいた話にはならないはずだ。現に彼女は、ここを離れないでいる。たったそれだけでも、彼女が機械人形でないことの証しになるのだし、さらには彼女自身、クラスの一生徒であるおれと、言語でもって交流してみたいという欲求の表れと受けとることもできる。とすれば、まずはおれたちの間にある「ほぼ初対面」という名の障壁を取っ払わなければならないはずで、そしてそういうことは男の役目であろう。


「あの、明日の一時間目って、何だっけ」


 おれの口から出たのは、何かそんなくだらない言葉だった。だが少女はようやくこっちを向いてくれた。彼女の顔面がここにきて明らかになったわけだが、その瞳は幻みたいな透き通りようだった。それから少女は申し訳なさそうに、黒板の横の時間割表を見る。曜日という概念を知る限り、わざわざ訊ねる必要はない。しかしそれでも質問しなければならない時があると、自分は思っている。これで彼女も、話しやすくなったはずだ。黒塗りの少女はしばらくしてから、「明日は……数学が最初」と言ってくれた。


「そうだったっけ。ごめんね、ちょっと、今日が何曜日か忘れちゃって」


 これも苦しい言い訳だったし、面倒で退屈な男と思われかねない。だがこの際勢いでいくしかないと思い、自分の失言を不問にする。そしておれは考えるよりも先に、黒塗りの少女に接近していった。机と机の間が、いつも以上に狭く感じる。自然な風を装ったつもりなのだが、顔はよほどこわばっていたようで、少女は近づくおれに対して後ずさりした。それでおれは悲しくなってしまい、結果中途半端な接近しかできなかった。


 ところで、どうしてこの少女は逃げようとしないのか。怖がって何も言えない可能性が無きにしもあらずだが、今までの十五分間で何度もチャンスはあったはずであり、「あ、私、急に用事を思い出したんだった、じゃあね」とか何とか言って、こんな厄介な状況とはおさらばできたはずなのだ。しかし彼女は、まるである目的が確固としてあり、それを達成するまではここを離れまいと決心しているかのように、今も踏みとどまっているではないか。彼女はどこまで知っているのだろう、もしあの男が、おれの少女に対する想いまで、ほのめかしていたのだとすれば。だとすればおれは、この少女の真摯さ健気さに涙を催さないわけにはいかなかった。一体全体この世界に、黒塗りの少女のような人間が存続していること自体、驚くべきことだった。自分はこれまで、相手を想っていることを、つい雰囲気として発してしまい、そのせいで、想いを伝える前に、相手に察知され、よそよそしい態度を取られ、うやむやなまま諦めなければならないパターンがほとんどだった。あの男はそこまでおれのことを知り尽くしており、だからこそ、こういう逃げられない状況を作り出して、密かにおれを応援してくれたのだろうか。それを思うと黒塗りの少女に対する遠慮の気持ちが薄れていくようで、彼女への接近をこれまで以上に大胆に行なうことができた。あの男に対する憎しみも、多少は助けになったのだろう。おかげでおれは、この少女を初めて真正面から見つめることができた。


「実は、話があって」


 少女は髪に半分覆われた顔でこちらを見上げた。こうしてみると、少女はやけに小さい。今までおれの心を占めていた黒塗りの少女像ともいうべきものとのギャップはすさまじく、眩暈がするほどだったのだが、それでも倒れないように踏んばって、現実の目の前の、一人の女の子だけに集中する。


 彼女は胸に添えた手を、なおさら強く自身に押し当てていた。顔は下を向いているが、視線が上向きであることから、彼女の意思の強さが垣間見える。呼吸は強い風のせいで聞こえなかったが、唇は何かを言いたそうに、ちょっと開かれていた。背中は壁にめり込みそうで、もう少し校舎が古ければ危ないところだった。ストッキングに包まれたごぼうみたいな脚は、じっと見つめているとたまらない気分になってくるが、逃走しようとする意図は感じられず、どちらかといえば正面を志向しているようでもあった。


 ここにいるのがおれでなく別の誰かだったならば、このまま押し通すこともできたはずだ。しかしやはり、おれはおれだった。おれは言うべきことを何も言えず、かろうじて手紙を渡すことしかできなかった。アドレスは知っていたが、連絡する勇気もなく、手紙形式の方が、言いたいことを素直に言えるだろうという苦肉の策だった。返事をどうしたらいいかで相手を悩ませてしまいかねないが、書いている最中はそんなこと全く意識していなかった。この時も当然考えることができず、果たしてきちんと渡せたのかどうか、「じゃあおれ、急いでるから」式の言い訳をしたい気持ちをぐっとこらえて教室を後にしてしまう。汗がすごかったので、その臭いがかなり強烈だったので、これが原因で嫌われなければいいがということを、廊下を歩きながらずっと考えていた。最低限の目標は達成できたので、ひとまず清々しい思いだが、とりあえずその時は、誰とも会いたくない心持ちだった。


 後ろを振り向くとあの少女が立っていた。教室よりもさらに大きな距離を取って、おれたちは向き合った。だが、どちらから言い出すこともできず、その日はどうなったのか、ただ、赤黒く染まる廊下で彼女の思い切った顔をしていたことだけがやけに記憶に残っている。そして気がかりなのはそれだけではなく、彼女があの男の言ったことを素直に信じ、彼を信頼した上であの状況が生まれたのだということを思うと、あの二人が実は仲がいいのではないかという疑いも込み上げてきて、彼らが楽しそうに喋っている光景も、それがまやかしであると知りながら捨てきれないでいる。






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