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潰-kai-

 男は謎めいた飛行をした後で地に墜ちた。地上一五〇メートルの断崖は最後まで行き着くのにさほどの時間を要しなかった。地表に接触する寸前、男の身体は既に崩壊していた。四肢は大気の刃に伐り割かれ、耳は繊維のような筋を揺らしながら空中を漂った。ちょうど頭から落ちたところだった。墜落は呆気なく、音はすぐに鎮む。


 これを見届けた女はすぐにその場を離れた。振り向くもそこに男はいなかった。女は狂ったように頭を振り続けたが、それは男の味わった苦痛を自分も味わおうという魂胆からだった。やがてそれすらも中断して、しょんぼり帰路を辿った。形見として男は靴を残していった。七万はしたと言っていた。だいぶ使い古されており、どの程度の価値が残されているのかは疑問だった。少なくとも女には無用の長物だった。それでも女はこの靴を持って帰り、息子が大きくなる頃にまた棚から出そうと思った。


 それから八年の時を費やして男は唐突に戻った。女はその時たまたま不在で、家には誰もいなかった。一人息子も学校に行っているところだった。家には鍵がかかっていた。しかし、たった一つしかない鍵を女がいつもどこに隠しているのかを男はきちんと憶えていた。庭に侵入し、花壇の周囲に埋められた煉瓦の列を全体として眺めた。ここのどこかに必ずあるはずだった。だがしばらく探しても見つからなかった。俺がいなくなってだいぶ経つから、その間に何らかの変化があったのだろうと男は受け入れることにした。時刻はもうすぐ午後の四時、そろそろ帰って来るであろう一人息子に代わりに開けてもらうことにした。


 息子はなかなか帰って来なかった。腕時計ではちょうど六時を回ったところだった。一人息子はどこかで不幸な事故に巻き込まれたのかもしれないと男は心配になってきた。居てもたってもいられなくなり、男は花壇から離れた。中腰の作業は男の腰を傷めつけていた。脚を慣らすにも一苦労で、一歩進むたびに転んでしまうほどだった。それでも男は帰宅したいがために、頑張って脚を動かし続けた。長い時間をかけて玄関に辿り着くと、しかし、そこには一人息子だけでなく女までが待ち構えていたのだ。


「ただいま。帰ってきたよ」と男は口にしていた。唇がわなわな震え、うまく話せたのかどうかがわからなかった。


「うん」と女は一応返事をし、ほとんど同時に一人息子に覆い被さった。暴漢から子どもを守るようなその反応に男はたじろいだ。だが女は間違いなく俺の帰ってきたことを返事で以って認めたのだ。男は何の不安もなく、再び接近を試みる。


「いや!」女は叫んだ。女の手は男を的確に拒んでいた。さすがに男は数歩手前で止まってしまった。わけがわからないと言いたげに二人を見つめた。


「おい……」

「どうして戻ってきてしまったの、ねえ! あのまま消えてしまえばよかったのに」

「そうは言ってもね。戻ってきてしまったのだから仕方がないじゃないか」


 男は弁明するも、だんだん無駄に思えてきた。女は男のことを他人として取り扱うことに決めたようだった。男の言葉に耳を貸す様子はなく、ただ一人息子の耳元でひたすら何かを呟いていた。それが男に対するあらゆるあくどい噂を吹聴していることくらいは男にも予想がついた。男は先ほどとは別の理由で唇をわなわな震わせ、しまいには何も言えなくなった。


 そのうち二人は玄関を開けて中に入ってしまった。鍵は女が自分で徹底して管理していたようだった。息子は女が帰って来る時間になるまで、近所の小母さんに預かってもらっていたのだろうと男は想像した。このまま立ち尽くしていても仕方がないので、男は別の侵入経路を探すことにした。住宅の基礎部分において床下換気口が設けられていたことを思い出し、そこから侵入しようと企んだ。再び庭に立ち入るといくつかの格子を発見した。その際リビングの窓をちらりと眺めるも、全てにカーテンが敷かれており、中の様子はわからなかった。


 男は格子を破壊すると、四角く開いた換気口に己を入れようとした。だがどう考えても、男の隆々とした身体は穴に対して大き過ぎた。飛行を遂げた際にいくらかスリムになったものの、未だに男は健全な肉体を保っていたのだ。他の格子でも試してみて、全てが失敗に終わったことを認めると、男は南の方角に目を遣った。庭を抜け、垣根を越えた先には果てしない一本道が続いていた。大地にはぽつりぽつりと民家が建っていたが、そのどれもが夕闇に耐えきれず蛍の光を放っていた。


 男は花壇に咲いていた青くて美しい花を踏み潰し、勢いそのままに垣根に突っ込み、一本道をひた走った。腕は以前の飛行でだいぶまいっていたと考えていたが、格子を破壊できたことで男は自信を取り戻していた。脚ともなればなおさら、体育大学の強化選手並みの実力はあるはずだった。現に男はいい走りを見せた。腕はぷらぷらしており、いかにも素人と云った感じだが、下半身はぶれなかった。上半身とは別の機構で動いているようだった。あるいは実際にそうなのだろうと男は思った。自宅には帰ることができなかったものの、ああして無事に手前まで歩いてこられたのは、ひとえに身体がチタンで補強されていたからだったのだ。ばらばらに伐り割かれた腕やどこかに飛んで行ってしまった耳は、工場で新たに作成してもらい、入念な動作チェックの後で取り付けてもらった。脚の損傷も酷かったため、これも一から作ってもらったのだが、崖から家までの長い道のりを通じて、その使い方を完全に会得していた。こうして走っている間、男自身これが鋼鉄製だとは到底考えられなかった。もう少し体が軽ければさらなるスピードを求めることも可能だった。男は途中でそのことを悟り、重すぎる両方の腕を地面に叩きつけて身体から外した。以前の数倍増しの速度を得たことで男は一つの流星となった。あらゆるものを置き去りにしながら野を越え山を越えた。


 辿り着いたのは地上一五〇メートルの断崖だった。男はここで女に最期の別れを告げた後、形見としての七万はした靴を女に委ね、遺書をその場で認めて、同じく女に渡し、一思いに離陸をしたのだった。男は当時のことをしみじみと思い出した。あの頃は自分も若かったし、女も若かったし、一人息子だってまだ赤ん坊だった。それが今は、あんなに大きくなって……それを思うと飛行のためらわれる感覚だが、しかし飛行するためにここまで来たのだからそれは本末転倒というものだった。男は五分の休憩の後で助走をたっぷりつけ、ここぞというタイミングで崖に突っ込んだ。足元のなくなるほんの手前、走り幅跳び選手並みの跳躍を試みた。あわよくば天まで届けという願いを込めて。しかし腕がないために早々にバランスが崩れた。今回も地表に到達するのにほとんど手間を要しなかった。男はその間何も考えなかった。考えずとも過去の記憶が勝手に浮かんでくるからだった。大気の刃の攻撃が始まるとそれらは肉体と共に切り刻まれた。脚は瞬く間に崩壊し、肉片までしゃぶりつくされた。手足を失いダルマになったことで男の身体は回転運動を始めた。脳機能は停止し、目は潰れた。新しく付けてもらったはずの耳は既になく、鼻は削ぎ落とされた。首は何重にも捻じれ、頭の分離は時間の問題だった。服は散り散りになり、風に乗って上空を舞った。完膚なきまでに痛めつけられてから男の墜落は潰えた。その衝突音は自宅まで届いていたはずだが、だからと云って女に何かしらの影響を及ぼすには至らなかった。




 男は再び戻ってくるだろう。今度は四肢や耳だけでなく、大部分の肉体を装甲で固めてくるだろう。それでも女は一人息子と共に男を否定するしかなく、男は発狂し、崖から飛び降りるしかないのである。やがて息子は中学生になり、高校を卒業し、華の大学生活に入るだろう。そうでなければさっさと地方公務員の試験でも受けて安定した生活を送ることだろう。そしてついに彼も一人の男として家庭を持つことになるのだが、彼の試練はここから始まるのだ。彼も父親と同じく、飛び降りては肉体を固めた上で帰って来るだろう。家から鎖め出されて飛行と修復を繰り返す日々が続くだろう。最期には飛び降りることすら止めて、もはやかつての自分を失ったまま、外を彷徨い続けることだろう。女がどういう気持ちで男を見送り、子どもの行く末についてどのような考えを抱いているのかなど聞く耳持たないまま、己の都合ばかりを身勝手に考えて。






「かきあげ!」第7回イベントのために書かれたものの、完成度においてもうひとつ劣っていると判断された作品の一つ。

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