中尉さんが訪ねてきた
中尉さんは部屋に上がると、僕に真正面から言った。
「お前の一番大事なものは、なんだ。それは壊れやすいものか。あるいは丈夫で、そんじょそこらのハンマーじゃとても壊せない代物か。第一お前には大事にしているものがあるのか。人間である以上、それぞれの好みに従って、大事にしようと望むものは、生きていくうちに自然と見つかるものだろう。だが! お前にはそういったものをついに見つけられなかった顔つきをしている。私にはわかるぞ。私はこれまで多くの人間を見てきたからな。お前の顔には、なにかを守ろうという気概がまるで感じられない。だからこそ、訊いてみたいのだ。お前が大事にしているものはなにか。あるいは、なにも大事にはしていないのか。さあ、どうなんだ」
中尉さんが話している間、僕はどこに目をやったらいいのかわからず、彼が話し終えたことにようやく気づいたのだった。ぼんやりと僕は、彼が自分にどういう興味があり、どういった種類の質問をしてきたのかを頑張って反芻した。大事なものはなにか。
「そうですね」と僕は無意識に呟いていた。そうですね、は相手の会話と自分の会話を繋げるのに便利だ。一旦相手の言ったことを全面的に肯定する、が、最後に「ね」を入れることで、こちらになにかしら、相手の言ったことに対して意見したいことがあるということをそれとなく伝えられる。そもそもナ行は柔らかい音であるぶん、他の音韻と繋がりやすい。「なあ」と相手に呼びかけるときも自然と音は間延びするのだし、「にいさん」よろしく特に母音と接続しやすい。「にく」など、ナ行+子音である場合、発音は逆に難しくなる。赤子が初めに覚える言葉がナ行やマ行などの柔らかい音、またそれに付随するなんらかの母音、であるとすれば、「にく」と発音できるようになるということは、より高次の知能を持った、ということだろう。
そうですね、から次の言葉にバトンを渡すまで、ざっとこんなことを考えていた。口には出さない、頭だけの思考だったから、思考の運びは銃弾よりも速く、光の屈折する瞬間的な速度よりは遅かった。
「おざなりな答えになってしまうかもしれませんが、やはり親を大事に思っています。こんな僕をここまで育ててくれた人たちですから、感謝は尽きません。父親は基本、放任主義ですが、いざというときは雷のように唐突に、しかし正当な理由によって僕を叱ります。ときには頬をぶったりもしました。今はそんなことはないですが、それでも時として、頬を叩かれるようなとげとげしさを、彼の言葉の端々から感じることができます。父親は皮膚感覚の強い人なんですね。論理的な理由はあるのでしょうが、解決方法まで論理的なわけじゃない。いいや、ここでは倫理的、と言った方がいいかもしれません。彼は高校を中退してそのまま社会に出た人間ですが、論理的な人間です。真っ当な教育を受けた人間というのは、論理ではなく倫理を重んじるのかもしれない。論理も倫理も人間としての基本的な能力です。しかし一方は科学に、一方は生き物全般に属します。倫理は負い目として、全ての生き物に対して直接的な責任を求めてきますが、論理は人間との関係に、媒介物として科学を置くんですね。だから、人間は論理に対してそれほど責任を感じない。責任を感じるとしたらそれは科学の方にでしょう。しかし科学は媒介物でしかなく、観念でしかない。ゆえに責任を求めようにも求められない。こうして論理的な人間は、他者に対して一方的な責任を押しつけるだけで、そのうえ自分は責任を取ろうとはしなくなるのです。そんな父親ですが、最近は変わり始めてきたように思えます。良い出会いがあったのか、自ら悟ったのか、それはわかりませんが、彼もようやく倫理的な人間として成長したような気がします。倫理には直接的な責任が伴います。これこそ教育されるべきものですが、残念なことに、倫理は教育の難しいものです。しかし真っ先に教育されねばならないものである。教育は必然的に内部矛盾を抱えた不完全な機関なんですね。新しい教育が始まるとすれば、それは倫理を生徒に確実に教育可能になった時でしょう。……とにかく父親はそういう人です。過去は純産の論理的人間であり、今はどちらかと云えば倫理的な人間である。しかし、いつまた論理に戻るかわからない。人間というのはあくまで責任を回避しようとする利己的な一面を絶対に捨てきれないものですから。論理というのは甘い蜜です。これに縋るということは論理中毒になることを意味します。これは大学を出ているとか出ていないとか、そういう社会的な地位とは関係ありません。論理が科学という観念を媒介に人間にもたらされる以上、論理的な人間になってしまう可能性は誰にも平等に備わっています。ただ、倫理というもう一つの、対極的なのかどうかはわかりませんが、それが教育機関によってかろうじて学ばれることで、一時的、うまくいけば半永久的に封じ込めることができるというただそれだけのことです。西暦897年になにが起こり、そのときの天皇は誰だったのかだとか、二点が交じり合った二つの放物線の面積を求める公式はなにかだとか、そういうことを学ぶために教育機関があるわけではないんです。より善く生きるために学校に通うのだとすれば、学ぶべきはそこにはない。そうでなければどうして集団生活を営まなくてはならないのか。論理的に、効率的に勉強するためであれば、集団生活はかえって障害となります。どうしてさまざまな人間に対して、学校は門徒を開いているのか。その意味を、学習期間の間にどの程度考えることができたかで、その人間の価値体系は変わってきます」
ときたま中尉さんの方から、「ああ」とか「なるほど」とかいう相槌は聞こえてきたが、だいたい今のような話を僕は一息に話した。ところどころ失敗したなという箇所は、思い出してみて、いくつか見いだせたが、話し始めた以上、このまま直進するしかない。話している間、中尉さんの口は半開きだった。目は僕を見ていたが、それは突然、自分の部屋に季節外れのコスモスが咲き乱れているのを発見した目にそっくりだった。半笑いも浮かべていた。
彼が絶句しているので、僕はまた話し出すしかなかった。
「しかし、そんな父親が僕にとって大事な存在であるということは否定しがたい事実です。はっきり言って僕は、父親を憎んでいます。しかしそれと同じくらい、僕は父親を尊敬しています。気づいた時、僕は自分が、父親と同じ考え方をしていると思うことが何度もあります。特にこの年齢になってから、そういうことが多くあった気がします。僕は父親に反抗すべく、彼とは逆の生き方をしようと決意していました。そのために、暴力を嫌い、もっぱら読書に励みました。それが強迫観念となっていたのか、あるいは父親自身、そういう弱気なところがどこかにあったのかもしれませんが、僕は人になにか強い言葉を掛けることができなくなってしまった。相手が間違っているということは確実だ、しかし、それを注意しようとすると、僕はどうしても涙ぐまずにはいられないのです。言葉は覇気を失い、しどろもどろになります。論理はめちゃくちゃになり、かえって悲しいという感情のみが前面に出てしまいます。しまいにはどちらが怒られているのかがわからなくなります。倫理として間違っている向こうが悪いのか、それとも論理を徹底できなかった自分が怒られるべきなのか。あるいは自分がそういう状態に陥ってしまうというのは、倫理の力に依るものが大きいのかもしれません。こういう風に話していると、自分がまるで、倫理を完璧に会得した立派な人間であるというように自らを過保護しているみたいに聞こえるかもしれません。しかしそうでもしないと僕は自信をもって生きることができないのです。だからそのへんはどうか許していただきたい。このように話しているとますます、自分が倫理的な人間であるということを実感します。僕は暴力が嫌いです。しかしそれは、なにか別の目的があって暴力を嫌うのではなく、理由があるとすればそれは、父親への反抗心があるからだとか、殴られると痛いからだとか、暴力を振るおうとすると、なんとなく悲しい気持ちになってそういう状態になるのが嫌だからとか、いくらでも考えられますが、そういう理由がまずあって、だから暴力を嫌うのではなく、僕は純粋に暴力自体が嫌だから、暴力を嫌うのです。けれどもそうして嫌えば嫌うほど、僕は暴力を尊敬してしまう、それは否めない事実です。現に僕は、過去にいくつかの暴力事件を起こしています。ものを蹴ったり殴ったりすることも多い。しかしそれでも僕は、暴力が嫌いだと言い張ることができるのです。何故だと思いますか? それは、暴力を振るったことのある人間にしか、暴力を嫌いになることができないからです。実際にそれをやったことがあるというのは、間接的に得た「知る」よりもより深い「識る」として人間に刻まれます。だから嫌いになれるんです。逆に暴力を好きになることができる人間というのも、本当の暴力というものをやったことがあるからです。大半の人間は、本当の暴力というものを知らない。ある人間は、それが論理とは正反対の、理不尽で感覚的なものだと思ってやまない。喧嘩などで殴る蹴るの暴行を受けたことのある人間であれば、あるいはそういう物理的な打撃を想像するでしょう。またある人間は、暴力を論理に属するものだと言うかもしれない。よく言うでしょう、言葉の暴力と。言葉は実際に人を殴ったりはしません。論理が人を殴るんです。論理的な暴力は人を殴ることができるんです。実際に言葉による、括弧つきの「暴力」を受けたことのある人間は、あるいはそういう暴力を想像するでしょう。しかし、真の暴力は、論理に属する属さないの次元のものでは全くないんです。本当の、原初の暴力というのは、実は倫理に属しているものなんです。……こうして話していると、自分がなんだかプラトンの書物かなにかの登場人物になって話しているような感じがしないでもないですが、ある一つのミュトスとしてご理解いただけたらと思います。そもそも僕がプラトンの代弁者などと言い張るつもりはありませんし、望んでも叶わないことですからね。僕はプラトンにはなれません。彼と同じ土俵に立つことすらも許されていません。それは彼が歴史に名を残す人物だからだとかそういう理由ではなく、彼に接近し得る可能性が、そもそものところから既に断ち切られているからです。僕は彼のような整合的な文章を書くことはできません。いっときは彼の文章に憧れたことはありますが、所詮は砂上の楼閣です。幻でしかない。僕には僕の書く文章しか書くことができません。模倣は楽しいですが、それでも彼とそっくりになることは許されず、許される時が来るとすれば、それは僕が今の僕でなく別の誰かに組成し直された時でしょうね。しかし今のところそのような予定はないので、僕はプラトンにはなれません。そんな人と僕とを並べてミュトスという言葉を使うのはおこがましいですが、そうとしか形容のしようがないのでそう言わせていただいているだけです。だからあまり気になさらないことをお勧めします。……太古の昔、まったきはじめに「暴力」という概念が生まれた時、それはまだ、「論理」の生まれていない時代でした。しかし「倫理」はそもそもの昔から存在していた。倫理とは言ってしまえば人間関係そのものです。人間が単数で存在できない以上、人間が二人以上存在しており、子を産むことで繁殖していった事実を鑑みる以上、処女が子を産めず、パートナーを必要としていた以上、倫理は人間が人間として地球上に生きるようになったその時から、あらかじめ既に存在していたんです。倫理があるからこそ、暴力というのも発生し、その対極である非暴力も発生した。それはどちらも、人間同士の争いに関して自然と発生したものです。隣人との食べ物の領有をめぐって、暴力という手段に頼り、足りない分、もしくは単にその隣人が気に入らないという理由で以って人は暴力に訴えかけてきた。無論動物も、暴力を振るいます。ここまで話せば中尉さんもお気づきだと思いますが、倫理とは動物も同等に、それも人間よりもずっと早い段階から所有していたものなんです。論理のみが、人間が後天的に獲得した真の人間らしい能力と言えるでしょう。しかしそれを用いるということは、動物であることを止めて、類としての動物を離れ、自分たち人間こそが類の頂点として君臨するということを意味することのほか、なにもありません。それが論理の持つ恐るべき能力なのです。責任を回避できますし、それはまさしく人間のそもそもの気質によく合う特権なのです。責任は動物に属する能力です。動物は子を産むという責任を抱えているからこそ繁殖せざるを得ないのだし、飢えを満たすという責任があるからこそ、ものを食べ続けるのです。しかし人間は違う。人間は責任を回避する論理という能力を発達させてきてしまった。だからこそ、子を産むことなく死んでいく、たとえばプラトンのような「偉大な」人物が出てくるのだし、自ら食を絶ち餓死する者まで出てくるのです。論理にはなにかそういう力が潜んでいます。暴力は論理ではないのです。言葉の暴力という言葉がありますが、それは倒錯した考え方なのです。言葉が暴力を振るう時があるとすれば、それは立場の上の人が、立場が下の人に向かって、絶対に言い返せないような論理で以って言葉を構築し、その論理を強制的に相手に施行し、彼をやり込める、彼はそれに歯向かおうとするのだけれども、それは論理に反逆すると同時に論理に服従するということですから、歯向かうことはそもそもの前提からできないことになっている、だから暴力と呼ばれ得る、そういうような場合ではまったくないのです。これは論理が倫理を上回った時に出現する、まさしく論理的な思考方法です。本当に、真に言葉が暴力を振るう場合というのは、自分と同種であるはずの人間が、他者として、理解不可能な一つの存在として目の前に現れ、しかも隣人として生活せざるを得ないような場合でしかありません。自分と彼とは出自も血縁も異なりますから、相手の話していることがわからない。それは相手も同様で、あちらもこちらと同じように相手に向けて暴力を振るっているのですが、自分にはそれがわからず、「自分だけ、相手の言っていることがわからない」という自己本位の考えに陥ってしまう。姿形はそっくりですから、とても他人とは思えない。しかし理解できないのだから他人としか言いようがない。こういう場合に陥って初めて、真の暴力というのは登場するものなのです。暴力を振るうことの出来る条件の一つに、暴力の対象が自分と同じであると同時に異なる存在である、というかそもそも、「同じ」だとか「異なる」とかいう修飾すらも拒んでしまうような、ただ近くにいるという「場」としての関係しか持っていない全き他者である、というものがあります。他にも条件はありますが、第一の条件はこれです。動物が暴力を振るえるのは、相手が自分と同じであると同時に他者であり、理解が可能であると同時に不可能だからです。動物の縄張り争いがありますね、あれは相手が同じ動物、自分と似通った動物でありながら、しかし自分ではないという理由で以って相手を他者だと直感し、追い出そうとするからです。他者に対して優しく振る舞うことができるというのは、相手が自分と同じ形をしている、だから理解可能なはずだという論理、あるいは倒錯によって可能となることなのです。実際は、人間にも原初の暴力性は無意識的な記憶として残っていますから、自分とは出自も話す言葉も全くわからない人物が目の前にいた時、暴力を振るいたくて仕方がないはずなんです。しかし論理的思考により、それを封じることができる。このことは、先ほど申した真の教育機関についての話とは矛盾するものかもしれません。その時に話したことによれば、人間は集団生活をすることによって論理の力を封じ込め、倫理的能力を養うことができる、というものでした。しかしもしも、倫理が暴力と関係があるのだとすれば、倫理を勉強すればそれだけますます、他者に暴力を振るうようになる、ということになりかねません。とすれば、集団生活を営むことはできなくなってしまう。逆に論理的な能力を発達させることこそ、集団生活において、他者に対しても優しく振る舞うことができるようになる第一歩である、ということになります。しかしそうではない、そうではないんです。倫理を論理に服従させるのではなく、論理を倫理に服従させる教育が必要になるということなんです。この二つの項目はどちらも暴力に繋がり得ます。一方は倒錯した、世間一般に言うところの言葉の暴力であり、もう一方は原初から存在する真の暴力です。教育機関はこのどちらの暴力も封じ込める必要があります。しかし同時に、彼らに暴力を振るわせるための場も提供しなければならないのです。集団生活を経験しない限り、人は暴力というものを理解することは絶対にできません。論理的な暴力、つまり教師の生徒に対する暴力と、倫理的な暴力、つまり生徒同士の動物的な縄張り争いとしての暴力を、生徒自ら対比させることもできません。こうした関係性があって初めて、暴力というものを理解し、それらを自分のうちに両立させることができるのです。ところで、こうした集団生活を通じて、ただ論理的な暴力のみを知った、つまり教師に怒られてばかりで、そのくせ縄張り争いに関しては巧みで、あらゆる工夫をこなしながら集団生活を乗りきった人物、それから、教師にはまったく怒られず、つまり論理的な暴力を知らないまま、しかし他の生徒に、全き他者として暴力を振るわれ続けた人物、この二人の人物を想定してみることにしましょう。前者はおそらくこの先も、論理的に、つまり社会的にあらゆる人間と人間的な関係を築くことができるでしょう。それは時に友好的なものとして、また時に敵対関係として、多少の違いはあるでしょうが、彼はついに、真に他者であるところの人間を知ることのできないまま、自分はあらゆることが理解可能であり、満たされているという心意気のまま死んでいくでしょう。それはそれで一つの生き方です。そもそも教育の段階で、そういう生き方しかできないようになってしまっているのだから仕方がない。元来の気質だとか、環境の置かれ方だとか、いろいろ理由はあるでしょうし、そのどれとして決定的なものとみなすことはできませんから、そのへんの考察はさておき、論理的な人間はそのような生き方をすると、とりあえずみなすことにしましょう。一方後者の、倫理的な暴力のみを身に受けてきた人間に移ります。彼はさしあたり、周囲と他者としての関係しか持つことができない。あるいは関係自体持つことができないかもしれない。彼と周囲の生徒とが関係を持つことができるのだとすれば、それはただ、偶然同じ学年だったからだとか、席が近くだからだとか、そういう場当たり的な理由によるものでしかなく、彼らは絶対にお互いを理解できないのです。論理的な人間も倫理的な人間も、互いに同じ考え方を有しているからこそ、論理的な人間は論理的な人間を、倫理的な人間は倫理的な人間を理解可能となるのですが、相手が論理的な人間であり、しかしこちらが倫理的な人間であれば、お互いになにを言っているのかがわからず、他者として在り続けるしかなくなります。倫理的な人間はしかし、その「わからない」という状況こそ心地良いものですから、特に問題はありません。問題なのは論理的な人間で、彼は「わからない」という状況に非常に苛立ちます。時として暴力を振るうこともあるでしょう。ここです、ここで彼は初めて、倫理的な暴力を振るうことになるのです。倫理的な人間は、論理的な暴力を振るうことが出来ませんが、論理的な人間は、倫理的な暴力を振るうことが出来る、という一つの法則が、ここで明らかになります。とにかくこのようにして、倫理的な人間自らもまた、論理的な人間に対して、控えめではあるでしょうが、相手への自然な抵抗という形で倫理的な暴力を振るいつつ、集団生活を営んでいくことになります。時として彼は、自分と同じ倫理的な人間を見つけることでしょう。それは多くの場合、周囲から孤立した独特な人間であることが多いでしょう。彼はそういう人間に近づいていき、あくまで論理的な関係を結ぼうとします。彼もまた論理に憧れるんですね。しかしこの後、倫理的と思えた人間が、どこかのタイミングで実は論理的な人間であり、単にコミュニケーションが苦手だからだとかそういう理由で、周囲と関係を結べなかっただけであり、一度周囲との協調が取れてしまえば途端に倫理とは無関係になり、論理の世界へと颯爽と羽ばたいていくであろう、ということが発覚した時点で、彼はついに倫理的な存在となることができるでしょう。彼は今後、周囲を他者としてしか認識できなくなります。そのようにして孤独に生き続け、孤独に死んでいくことでしょう。この両極端の中間、つまり倫理的かつ論理的な人間を育て上げることこそ、教育機関の第一の目的でなくてはなりません。そのためにあらゆる方策が提案され、そのいくつかは実行されてきたことでしょう。しかしながら、そのどれもが成功したとは言えず、ほとんど理念のみに執着しており、真にそういう人間が誕生する瞬間というのは、残念ながら教育機関外の出来事でしかない、という事実が常態化しているように思えます。今では教育機関は、反教育機関としての役割しか果たすことができていません。真の教育というのはそういうものではないと僕は思っています。自分を倫理的な人間であると、僕が僕自身を評価することができるのは、まさしくそういう被害にあったというきちんとした意識があるからです。これは時として、論理的な観点からすると、まるで狂った人間の発言に聞こえるでしょう。しかし僕が、自分が父親と同じ道を歩んでいることを知り、その時に自分という存在を見直してみて、自分の奥底に論理と倫理の激しいせめぎ合いがあるということに気づいてしまった以上、こうした社会の倒錯状況について思いを馳せないわけにはいかないのです」
いつのまにか中尉さんは帰ってしまった。彼は一体なにが目的で、どんな成果を期待していたのか。聞きたいことがあったようだが忘れてしまった。僕は誰に向かってしゃべっているのかわからないままそれからも話し続けた。その多くは大気に触れた瞬間に霧散してしまうようなものばかりだったが、時たま自分でもびっくりするような発言をすることがあり、それについてはよく記憶に留めておき、寝る前などに思い出して良い気分になろうと思った。