反省
ぼくが、机に向かって書き物をしている。暗くそして大層広い部屋だ。学校の教室かどこかだろう。だがぼく以外は照らされていない。漂う雰囲気がここを教室であることを告げているが、整然と並べられた他の机や、ベランダに続く窓、学生服を着た人間が全く見当たらないので、実際に確認する手立てがない。にもかかわらず、ぼくを遠くで見つめる僕は、ここを教室であると合点している。奇妙なことには思わない。一旦そう信じてしまった以上は、最後まで貫き通すしかない。
ぼくという人間は、いつまで書き続けているのだろう、そもそも何を必死になって書いているのか。ぼくが例えば、映画の出演者でもなければ舞台役者でもなく、平面に描かれた一枚の人物画であったとすれば、ぼくはあの小さな机に向かって延々書き物をしていなければならなくなる。果たしてシャープペンシルが紙に筆跡するガリガリした音は聞こえてくるだろうか。何とも言い難い。なぜならぼくという存在は、いざ僕がぼくに向かって何かしらの行動を起こそうとすれば、巧妙に逃げ去ってしまうからであり、むしろそうしていない時、気を抜いている時の方が、ぼくの姿は僕にとって明瞭に見えてくるからだ。幽霊の類いなのかもしれない。つまり、その正体を自分の目で確かめるべく、墓所だったり廃病院なんかを訪れるのだけれど、一向に現れず、むしろ何も現れないことに対して恐怖感を抱き、現れた方がよほど楽になるかわからない、けれどもそれは最後まで現れず、出会わずじまいでそこを後にするしかないのだが、そんな努力をするよりも、家で普段通り生活している時、ふと物陰に目を走らせると、何やら覚えのある顔がぬっと浮かんではすぐに消え、それからはどれだけ顔の現れた辺りを探ってみても、ついに発見できない、こんな現象に似ており、僕の視界に映るぼくなる存在者は、僕とは別の形式で存在しており、姿をきちんと捉えることは一生出来ないのかもしれない。そもそも僕がぼく自身を観察できてしまうこと自体がおかしなことだ。なぜなら僕は、僕一人しかいないのだから。であればあれはぼくではないのだろうか。確かめるべく、もう一度はっきりとその姿を捉えようとするのだが、やはり上手くいかない。あれの姿を意識しようとすれば、もう二度と僕の視界に姿を現してはくれない。
そこで僕は、一旦ぼくなる存在を忘れることにする。
するとぼくなる存在が見えてきたので、僕はなるべく意識を向けないよう観察を続けることにした。いわば心の眼というやつである。
音も何もない一瞬間の映像に過ぎないけれど、ぼくが熱心に書き物をしていることには違いない。であれば何をそんなに熱心に書いているのだろうという問題になる。これを知ることはよほど困難なことに思える。なぜなら僕は、あのぼくを真横から眺めることしかできないからだ。どれほど意識を集中させまいとしても、僕の視点は一か所に留まるばかりで、その視点というのは、ぼくから一定の距離を置いたちょうど正面の位置にあるのだ。加えて僕の姿勢は若干低くなっている。集合写真を撮る際、前でしゃがんでいる人と一緒に写ろうとして、上半身を傾け、彼の肩に手を置き、こういう時くらいいいじゃないかといった図々しさで以って顔を恋人みたいに近付ける、だが集合写真では大抵、男は男、女は女で固まるものだから、接近した二つの顔は不可避的に同性同士であり、男同士であったら後でちょっと気持ち悪がられたり、からかいのネタになったりして、顔を近づけた本人が、そういうからかいに対して耐性を持っていれば問題ないのだが、普段は男同士でも盛り上がらないようなやつで、物静かに読書をしているのが好きな青白い感じの青年だった場合、こういう場の対応というのが初めはよくわからず、小説やドラマその他メディアを記憶から掘り起こし、集合写真を撮る時はどういうテンションで行くのがベストなのかを即座に計算、そうしてにこやかに顔を近付けるという柄でもない行動に及ぶわけなのであるが、であればその次に発生するであろう出来事にしても、彼ならぬ身振りを引き続き演じなければならなかったのであるが、そちらには全く頭が回っていなかったこの青年は、写真家からの「はい、オッケー!」という掛け声と共に、一挙に普段の調子に戻ってしまい、とてもからかいの対象にはなり得ない、しかし周囲の人間からしてみたら、からかうまでがワンセットなのだから、ぜひとも彼をからかわなくてはならなかったのだが、彼がいつもの青白い青年に戻ってしまったのだから、対象を失ったも同然、だからして青年のあのいつもならぬ行動はなかったこととして処理されてしまうのであるが、青年からしてみたらそれはホッとしていいことなのかどうか、演技を続けてからかいの対象となり、そのまま彼ら集団の仲間入りを果たすべきだったのか、しかしそれは彼の本当の姿ではなく、無理をするのもよくないから、演技を止めて結果的には良かったのかもしれないが、ともかくそういう青年の如く、僕の視点は直立の時よりも若干低めになっている。別段立ち上がっても問題はないはずだが、ぼくを心の眼で観察しようという時、視線は固定されて動かせない状態なのだ、だから必然的に、この視点を受け持つ僕の肉体もまた、その場にくぎ付けにされ、近づこうにも近づけない状態だった。
もしも僕が、という小説を考えてみる。もしも僕が、あのぼくに近づいたとしたならば。きっと僕はぼくに向かって手を伸ばすことだろう。そうして声を掛けるのだ、お前は何を書いているんだ、と。けれども或いは、現実的にそう上手く事が運ぶわけがないから、ぼくに声を掛けようというそぶりは見せるものの、直前でそうするのをよしてしまい、机の横を素通りし、何の接触も為されないままに、ぼくが何を書いているのかを一生懸命探るに違いない、斜め後ろからノートを盗み見たりなどして。だがこの方法は、ぼくにとっては想定内に違いない、素通りした時点で、ぼくは警戒するはずだ。だからぼくは、そうされる前に、ノートを閉じるなり、書きかけの文字列を上からぐちゃぐちゃに書き乱して判読不可能なものにしてしまうに違いない。ぼくは誰にも知られたくない秘密のノートを作成している最中なのだ、たとえ目の前に現れたのが僕自身だとしても、条件反射的に、まずはノートを隠蔽するはずである。
けれどもその後で、自分の行ないを反省し、斜め後ろに立つ人物が立ち去らないのを気配で感じ取ると、何気なく再びノートを取り出し、秘密の作業を今度は公けに続けようとする、という展開は果たして現実的だろうか。あるいはそうするかもしれない。誰かに見られているということを知った上で、誰かに見られてはまずいものを書くという行為、さらに相手に、こちらはお前のことなど全く気付いていないのだぞ、だから思う存分眺めていてくれたまえ的なテンションで以って、一人でいる時と同じ調子でものを書き続ける、でも実際は背後に立つ人物の気配を敏感に感じ取っているのだし、彼がこちらを舐めるように見つめているのも承知しているのだけれど、その恥ずかしさをぐっとこらえてペンを動かし続ける、そんな快感を提供してくれるような状況に身をやつすことが、僕にとって習慣づけられていたのだとしたら、ぼくはそうするに違いない。そうしてしばらく書き進めた後で、ため息の一つでもついてノートをそそくさと机にしまい、次の授業が始まるまで時間があるから、代わりに教科書を取り出して、予習を欠かさない優等生を演じてみたり、読みかけのファンタジー小説をバッグから出して読み耽る作業に移行するなりするはずだ。一見落ち着いている風を装っているけれど、現に表情は普段通りなのだけれど、耳は真っ赤に染まっており、それを見た背後の人間は、ぼくの子供じみた一連の行為を母親の浮かべる微笑みで以って処理するのである。そして何も言わず、自分もまた自分の机に戻るのである。
でもぼくは、そんな彼を呼び止めて、自分の書いていたことについて話したかったに違いない。誰にも気づかれないよう書き物をしているくせに、誰かにそのことを指摘してもらいたいのだ、さっきは何を書いてたの、と親しげに質問してもらいたかったのだ。彼は周囲との交流を誰よりも望んでいる、だが彼にとって、交流とは自分の世界を他人に押しつけることに他ならず、それを誰かに無条件で承認してもらうことを意味していた。自分が他人の世界を承認することは怖くて出来なかった。彼は自分の世界を守り通すのに必死だった、だから今も、この真っ暗な教室の中心で独りきりにならなければならなかったのだ。おそらく周りでは多くの人間がおしゃべりをしているに違いない。だが彼にそれは見えていない。自分に声を掛けてこない人は存在しないも同然であると彼自身確信しているのだから。
どうして僕によく似た人間が、暗い一室で一人、書き物をしなければならなかったのか。謎は以上をもって解決したわけであるが、彼はこの先どうなるだろう。このまま永遠に書き物を続けるのだろうか。僕としては知る由もないけれど、彼が明るい世界に脱出することを強く望む。そのためには自分から動かなくてはいけない。他人を待っていては絶対に抜け出せない。彼がいつそのことに気づくか、最後まで見届けるのも一興だが、このまま前屈みで眺めているのも疲れるので、ここらで止めにしておく。