ぬいぐるみ、クマの
彼はクマのぬいぐるみである。茶色で、モフモフしている。その内に秘めているのは、野望ではなく、白い綿である。動けば小さな埃が舞うし、目には見えないがその身にはダニが巣くっている。目は黒いビーズであり、鼻は黒い糸が散々縫い込まれている。口は、残念ながらしゃべる機能を与えられなかった、笑顔の一文字。
彼はキャサリンと呼ばれている。男なのに、だ。彼が男であることを、人間は知らないのだ。人間はぬいぐるみに性別はないと思っているのだ。肉体は両性具有もしくは両性無具有だとしても、そこに宿る精神は必ず、男か女に別れるのがこの世のルールだと言うのに、人間はその事実に気付かない。
また、キャサリンという名前に、特に意味はない。幼い魂は、その愉快な響きだけで、一生……いや、死後も付きまとう名前を決めてしまった。責任・無責任という概念すら知らない幼い罪。その罪の唯一の救いは、彼はそのキャサリンという名前を、表面上は嫌っているが、内心、ほんの少しだけ、気に入っているということだ。
彼はクマのぬいぐるみであるが、どこか人間臭い精神をその白綿の中に宿していた。彼は思った。「人間になりたい」
彼は、その身の中にある綿こそ白いが、腹は黒かった。姑息な取引を神に持ち掛けるほど、腹黒かった。
「やい、神様やい! おれっちを人間にしておくれ! じゃないと、ルールを破っちゃうぞ! ぬいぐるみの定義をぶち壊すぞい! やいやい!」
彼はそのぷりちーなお尻をぷりぷりと振り子のように振りながら、神と対峙した。神は見下ろし、彼は見上げる。
「キャサリンよ。ぬいぐるみの禁忌を犯すでない犯すでない」
「やいやい。犯してやろう犯してやろう!」
「あいわかった。お前を人間にしてやる……ことはできない。残念だが、それがルールだ」
「えー、けちんぼ!」
「だが、一つだけ、お前に授けよう」
「え? 何を? なにをう!」
彼は踊る。クマのヌイグルミのポンポコダンスを。右に左に毛玉が揺れる。目には見えないが、振り落とされるダニが2,3匹いたとかいないとか。
「人間らしさを、一つだけ、お前に授けよう」
「ニンゲンラシサ?」
彼はわざとらしく片言で思いを伝える。やはり彼の精神は人間臭いところがある。
「好きなのを選べ」
「やいやい! 決めたぞ決めたぞ!」
彼は、瞬間、恐怖した。自分が変わることを恐れた。だから「あ、えっと……」流々な語調は失われ、たどたどしくなった。間が開いた。彼は気持ちを飲み込んだ。深呼吸をした。再び「変わること」を恐れた。でも、もう後戻りできないほどの加速が自分にあることに気付いた。だから、観念した。腹をくくった。最後にもう一度だけ、今の自分を抱きしめた。モフモフしていて、気持ちの良い毛並みだった。自分は、存外高級なぬいぐるみだったのかもしれないと思った。大量生産の、安っぽい素材でできたぬいぐるみではないと思った。彼は今一度深呼吸をした。恐怖はなくなっていなかったが、彼は思いを伝えた。
「くしゃみを……ぜひに」
「あい、わかった。へっくっしゅん!」
神は天上からくしゃみをした。その飛沫は空を舞い、雲に冷やされ、雨となり、彼の頭上に降り注いだ。
「やいやい、きたねぇなぁ」
彼は悪態をついた。やっぱり彼の精神は、人間だった。
彼にとっての人間らしさとは、くしゃみだった。それは、ぬいぐるみには手の届かない、素敵な事象だった。人間は、くしゃみの素晴らしさを知らないのだなぁ。彼はそう思っていた。そう思いながら、くしゃみをした。
「へっくしゅん」
五臓六腑の白綿が震えた。無遠慮に繁殖していたダニの多くが吹き飛ばされた。平穏を破壊されたダニたちは戦々恐々して、ダニダニ震えた。
彼はとても、人気者になった。世にも珍しい、くしゃみをするぬいぐるみだ。
人間は彼を見て、楽しんだ。そのかわりに、愛撫をしなくなった。
彼は愛情あるバイオレンスを享受するぬいぐるみから、見世物になったのだ。
それが幸せか不幸か、それはあなたが決めればいい。ただ彼は、得意げだった。満足だった。
だって、くしゃみができるようになったのだから。
彼はぬいぐるみ、クマの、ぬいぐるみ。
~了~