ポスター
その日は酷く蒸し暑い日で残業帰りの足取りも重かった。不景気でリストラが続き仕事の量は増えたが給料は増えない。アパートで独り暮らしをしているから愚痴を言う相手もない、既に二十五歳に手が届こうとしている私は午前一時という非常識な時間に女一人で暗い路地裏を歩いていた。
ぽつぽつと置かれた街灯が照らしているのは昼間の熱気がまだ残っているアスファルトの路面。私の他には誰も歩いていない。
あと家まで数十メートルというところまで来たとき、左側の板塀にポスターが貼ってあるのに気が付いた。
確か、昨日までは参院選の剥がし忘れたポスターが貼られていた場所だ。ちょうど街灯の近くなのではっきりと見えるそのポスターは、たぶん子供が学校で描かされたものなのだろう。板塀が左側にあり、街灯がぽつぽつと置かれたまっすぐ続く道が描かれている。
どこかで見たような道だと思ってはっと気が付く。これはこの道だ。ちょうど私が立っている位置からアパートへ向かう景色と同じだ。このポスターもちょうど同じ位置に小さく描かれている。
いったい何のポスターなのだろう。絵の上のほうには赤いかすれた字で右の端に「して」とだけ書かれている。気になって絵の下を見ると白い紙が貼ってあった。
『〇ねん〇くみ』雨で流れてしまったのか下に書かれている名前は読み取れない。ちょっと気味が悪い。
その時だ。人の気配に振り向くと小さな子供の影のようなものが見えた。その影は少し首を傾げ、ぎくしゃくした足取りで近寄ってくる。街灯の下へ来た時、その姿がはっきりと見えた。女の子だ。全身血まみれだった。手や足が折れているようであり得ない方向へ曲がったまま、かくかくと首を揺すっている。その顔は笑っている。
思わず悲鳴を上げ、アパートへ向かって走り出し、部屋に辿り着いた時には心臓がばくばくと高鳴っていた。鍵がかかっているかどうか確かめてから部屋に入る。
急いでテレビをつけて、それでも気になってまたドアを開け、そっと外を覗いたが人の気配はなかった。
『〇〇山中で見つかったバラバラ死体は、未だに身元が判らず、警視庁は……』
無表情なアナウンサーの声が部屋に響く。疲れた。あの子供が気になるがきっと何かの見間違いだ。もう寝てしまおうとベッドに倒れ込んだ。
夜中の二時頃だったろうか、何かがベットの周りを動き回る気配で目が覚めた。目を凝らしたが何も見えない。灯りを点けると物が落ちるような音がキッチンから聞こえた。
恐る恐るキッチンを覗き込み、テーブルの上を見ると見慣れないものがあるのに気が付いた。真っ赤なクレヨンが一本。何処から出てきたのだろう。手に取ってみるとずいぶん古ぼけたクレヨンだ。微かだが血のようなものがついている。こんなものは持ってないし、もらった記憶もない。
翌朝、気持ちが悪いのでクレヨンはゴミ袋に放り込み、家を出る時にゴミ捨て場に置いて行った。
例の塀の前を通りかかって思わず立ち止まる。そこには参院選のポスターが貼られている。それじゃ、昨日のポスターはなんだったのだろう。もしかしてあれは夢だったのだろうか。
ああ、もう行かないと間に合わない。
いつもの電車に揺られ、いつもの会社に着く。まだ入社して一か月も経っていないが、既に嫌気がさしていた。
「ねえ、悪いんだけどこの書類コピーしてきてくれる?」
篠原さんが声をかけてきた。年はもう五十を超えているだろうか。厚化粧に派手な服。きつい香水の匂いが鼻孔を刺激する。こいつはいつもそう。なんでも部長の浮気相手だそうで、机に座っていてもほとんど仕事をしている様子がない。スマホを見たり、爪を磨いたり、さぼり放題だ。
こんな会社、早く辞めてしまいたいけれどそういうわけにもいかない。
彼女の赤い爪が目に入るたびに腹の奥底が煮えたぎる。こんな奴、死んでしまえばいいのにとさえ思う。
世の中はおかしい。なぜこんな人がいい思いをして、ツケが全部私に回ってくるのか。
案の定、その日も残業だった。もちろん残業代なんか出ない。いわゆるブラック企業だ。
ちょうど昨日と同じ時間、同じ場所。そのポスターはやっぱりあった。
どういうことだ? 夜だけ誰かが貼っているのか。近づいて剥がそうとしてみたが、べったりと貼られたポスターは角を少しいじっただけで紙が破れてしまう。改めて見直すと、確か昨日は「して」と書かれていた場所が空白になっている。ひょっとして、このポスターはこの世のものではないのかもしれない。あの空白に人の名前を書くと人が死ぬとか、願い事を書くとそれが叶うとか。
でも、昨日見た女の子の幻のことを考えると、これはきっと良くないものだ。見てはいけなかったのかもしれないし、何か書いてもいいことが起こるはずはない。
だが、少し興味はあった。書くことによって生活に変化が起こったら面白いんじゃないだろうか。何か書くものがないかとバッグを開けると、なぜか昨日捨てたはずのクレヨンが入っていた。間違いない。これは書けということなのだ。
クレヨンを手に取り、周りを見渡して誰もいないことを確認する。篠原さんの名前を書いてみようかと思ったが、何かあっても嫌なので無難に「お金が欲しい」と書いてみた。
その刹那、また背後に少女が現れた。幻じゃない。これは幽霊だ。少女は身体を大きく揺らしながら少しずつ近寄ってくる。微かに声が聞こえる。
「……して、……して」と。
私は震える手でクレヨンをしまうとアパートへ逃げ帰った。
翌日、会社へ行ってみると篠原さんは相変わらず席に座っていた。彼女は私を見るとすぐに近付いてきた。
「ねえ、ちょっと」
また来た。このくそ野郎。心の中で悪態をつく。
「ほら、あなた、いつも仕事いっぱい引き受けちゃって大変だと思って。手伝うから遠慮せずに言って」
驚いた。この人誰? 毎日、仕事を私に押し付けてくるのは自分じゃないの。でも今日の彼女はその顔も声も服装も確かに普段の篠原さんだったが、なにかが違う。
「どうしたの?」
篠原さんが私の顔を覗き込む。
「あ、いえ、それじゃこれをお願いします」
書類を渡しながら篠原さんの顔をじっと見返した時、ぞくっと体が震えた。彼女は眼を大きく見開いて笑っていた。気味の悪い笑みだった。
「ああ、それからこの封筒もらってくれないかしら」
渡された封筒はぶ厚かった。開けてみると札束が見える。
「あの、これはいただけません」
「いいからもらって。部長の手切れ金なの。腹が立つから持っていたくないのよ」
彼女の声は言っていることとは裏腹にとても楽しそうだった。気味の悪い笑みは顔に貼り付いたままだった。
その日は残業がなかった。篠原さんが手伝ってくれた為だ。これは願いが叶ったということなのだろうか。しかしお金をもらったのに少しも嬉しくはない。それより篠原さんが怖くてしょうがなかったので五時になるとすぐに会社を出た。六時過ぎ、まだ人通りは多い。
それなのにあのポスターの前まで来るとぱたり、と人がいなくなった。日が急に沈んでしまったのか辺りが突然暗くなり、暗闇にぼうっと街灯が浮かび上がった。
私はポスターを見た。
何だろう、この違和感。
ああ、昨日は気が付かなかったけれど、この絵は視点が移動しているのだ。明らかに少しずつ前に進んできている。
この絵に描かれたポスターの位置がだいぶ手前に来て少し端が欠けていた。ちょうどグーグルマップのように、この絵も日ごとに道を辿っているようだ。
私が昨日書いた字は綺麗に消えていたが、絵の中に人物が描かれていることに気が付いた。よく見るとその人物は道路に倒れている。周囲には大量の血。
じっと顔を近づけてみる。子供のようだった。それは少しずつ動いている。こちらに向かって、ゆっくりと這ってきている。
ぞっとして目を離し、周囲を見回す。少女の姿はなかった。いつの間にか辺りは明るくなり、人通りも戻ってきている。ポスターは参院選のものに変わっていた。……やっぱりこのお金は明日篠原さんに返そう。
その夜、嫌な夢を見た。篠原さんが地面をずるずるずるずる這いずりながら追ってくる。
絵に描かれていた少女とまったく同じ姿で、赤く染まった顔だけをこちらに向けて地面にべったりと貼り付き、蛇のように体をくねらせて追ってくる。逃げても逃げても追ってくる。
「ねえ、もう判ってるよね?」
篠原さんはそう言うと真っ赤な口を歪めてにやりと笑った。
夢にうなされ、目を覚ます。部屋はしんと静まり返っていた。何だろう。私は何か大切なことを忘れているような気がする。起き出して押入れの奥にしまった段ボールを取り出す。小学校の卒業アルバムをめくって自分のクラスの写真を見る。整然と並んだ集合写真。その上に〇で囲まれた少女の写真があった。この子、確か私の友達だった。名前は篠原ユイカ。ひょっとして、あの篠原さんは彼女の母親だろうか。いや、まさか……。この子、どうして卒業式にいなかったんだっけ? いくら考えても記憶は戻ってこなかった。
会社に着き、席に座ると篠原さんはいなかった。そっと彼女の席を見ると綺麗に片付いている。
係長が通りかかったので、ちょっと探りを入れてみた。
「あの、篠原さんは今日、お休みですか?」
「ああ、そうそう。昨日の夜、君が帰った後にね、急に会社辞めるって言いだしてさ、荷物まとめて帰ってそれっきりだよ。たぶん部長と別れたんだろうな」
ふふっと下衆な笑みを浮かべて係長は口をつぐんだ。
辞めた? え? いったいどういうことなのだろう。
何となく気分のいいものではなかった。お金のこともあるし。
もし何処かで自殺でもしていたらどうしよう。
仕事をしながら、壁の時計を見上げる。いつの間にか五時を過ぎていた。
今日はもうあの道を通りたくない。
でも、家に通じる道はあそこだけだ。そうだ、ポスターを見ないようにすればいい。そうすれば、もう何も起きないはずだ。
その日は残業で結局、帰る時間が深夜になってしまった。
あの塀のところに差し掛かった時、私は強く目を瞑り、駆け足で通り過ぎた。しばらくして目を開けるとアパートはもうすぐそこだった。
ほっと胸を撫で下ろし、階段を上りドアを開けようとしてその場で身体が凍り付いた。
あのポスターがドアに貼られていた。描かれているのはこのドアだ。そして赤い文字で『返して』と。
これはなに? 冗談じゃない。急いで剥がそうとするがポスターはまったく剥がすことが出来ない。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
後ろを振り返るが誰もいない。とにかく中に入ろう。このポスターをどうするかは後で考えよう。
鍵を開け、ドアノブを回し、急いで中に飛び込み鍵をかけた。
部屋の中は真っ暗だった。いや、暗いなんてものじゃない。今まで見たこともないような真の闇。手さぐりでスイッチを探し、灯りをつけようとしたが手を伸ばしたところに壁はなかった。外へ出ようと振り返り、ドアを探したが手は空を掴むばかりだ。自分の心臓の鼓動に吐き気がしてくる。やがて目が慣れてくると目の前にまっすぐ道が伸びているのが見えた。
おかしい。私が開けたのは家のドアだったのか、それともあのポスターの……。
――ねえ、思い出した?――
振り返るとそこにはあの少女が身体を揺らしながら真っ赤な口を開けて笑っていた。暗闇なのにそれだけはくっきりと見えた。悲鳴を上げ、転がるように道を逃げる。足がもつれて倒れそうになる。少女は笑っていた。いくら逃げてもどんどん近づいてくる。
――ねえ、待って。返して――
いったい何を返せと言っているのだろう。闇がねっとりと身体に纏わりついてくる。駄目だ。捕まってしまう。道は果てしなく続いている。
ああ、私はどうなってしまうんだろう。このままでは殺されてしまう。殺されてしまう。殺してしまう。
殺し……た?
思い出した。子供の頃、私は篠原さんといつも一緒に帰っていた。ある日、居眠り運転の大型トラックが歩道を歩いていた私たちのほうに突っ込んできたのだ。私は逃げた。恐怖で固まってしまったあの子と繋いでいた手を離して。もしもあの時、手を離さなかったら、そうしたら篠原さんは轢かれなかっただろう。悲しみと後悔で自らの記憶を閉じ込めてしまっていた。あの少女は彼女だ。
ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。謝るから許して。
――さよなら――
すぐ耳元で少女の声がした。
その直後、道が途切れた。足元に開いていた大きな穴に私は落ちた。どこまで落ちても底には辿り着かない。
苦しい苦しい息が出来ない。
助けて、助けて、誰か助け
朝、窓を開けて、外の清々しい空気を思いきり吸う。こんなに気持ちがいいのは何年ぶりだろうか。鏡を見て化粧をする。あまり美しいとは言えないけど仕方がない。本当に母さんには感謝している。お金ももらったし、何よりも身体を手に入れられた。母さんがこの女に気が付かなかったら私はいつまでも彷徨い続けていただろう。部屋を出るとドアの外にポスターが落ちていた。手に取ってバッグからライターを取り出すとポスターに火をつける。真っ黒に燃え尽きる瞬間、微かに悲鳴が聞こえたような気がした。
<END>