私が出会ったヒーロー
普段は子供たちの笑い声が明るく響く、ある昼下がりの公園。
鋭利な緊張感が張り巡らされ殺伐とした戦場と化した今となっては、そんな面影を感じる事は微塵も出来ない。
不意に赤色が上げた鬨の声に合わせ、三色の閃光が軌跡と共に空気を切り裂いた。
おぞましい気配を湛えた人影が焦ったように腕を翻し、黒煙からは新たな人型が零れ落ち――
「あぁ、幸せ……」
爆風に煽られて暴れる髪を抑えながら、私はうっとりと呟いた。
高笑いを上げる黄色の足の下に伸びた、全身黒タイツの人型に睨まれた気がしたけどお構いなしに頬を緩める。
ふふふ。あくまで今の私は一般人なのだ。彼の者如き小物が、防護障壁を超えて手を出せる存在ではない。
妙な優越感に浸りつつ、彼等の雄姿を目に焼き付けていた所。
ジジッと耳障りなノイズ音と共に、イヤホンに通信が入る。
『おい! 観客になってる場合か! 必殺技くるぞ!』
切羽詰った低い声に我に返った。
見ればいつの間にか彼等――赤、青、黄色が何やら声を上げながらフォーメーションをとっている。どこからともなく召喚した流線型の重火器を三人で抱えて、その発射口には既に青白い光が集まり始めていた。
――戦闘が、終わってしまう。
そのことに気づいた私は、PTTボタンを押し了解の意を告げてから、慌てて最前列から踵を返した。
耳に入った小さな器具から返ってきた大きな怒鳴り声に顔をしかめつつ、蠢く人の波の間を縫うように進む。
すると、人ごみを抜けたところで上がった一際大きな歓声。
自分の身体から、ザッっと血の気が引く音が聞こえた気がした。
同時にフラッシュバックする私を叱り飛ばす恐ろしい顔。
これは、ヤバい!
怒号のような人々の歓声を背に受けながら、公園に隣接している道路に勢いよく飛び出した。
素早く周囲を見渡せば丁度、走り去るキャンピングカーが空気に溶けるようして消える所だった。
呆然と立ち尽くし、首から下げたカメラのグリップを握りしめた。
「こ、今度こそはその秘密、暴いてやるんだから……!」
悪役の負け惜しみみたいな私の言葉が、ヒーローの勝利を祝う喧騒から外れた路地に虚しく響いた。
☆★☆
この世界には英雄がいた。
まさにヒーローとしか言いようのない存在。
数十年前、突如現れた宇宙からの侵略者なる者達から人々を守っている。
……日曜の朝にやっているようなものと、言った方が早いかもしれない。
そして、私の世界にはいなかったものでもある。
そう、私はこの世界の人間ではない。数か月前、何かの拍子にあちらから飛ばされた存在。
と言っても、二つの世界間に大きな違いはなく、それこそヒーローが居るか居ないか程度のもの。
あとは、そうだ。
私の大好きだった特撮が存在していないってことくらいかな。
本物が居るのだから、無理もないんだけど。
とにかく、そんなヒーローなんてものがいる(私にとっては)夢の世界で、現場から帰還した私を待っていたのは――いつも通りの、お説教だった。
「笹川! 聞いてるのか!」
耳を抜けて直接脳髄に突き刺さる苛烈な怒声に、私は思わず身を竦めた。
その際につい握ってしまったマウスから嫌な音が響く。ヤバいと思ったのと同時に、再び怒りの籠った咆哮が手狭なオフィス中に反響した。
ここはとある二流、いや三流くらいのヒーローを専門に扱うゴシップ誌社。
私こと笹川沙希は、この会社に勤める一記者である。
ヒーローにゴシップ、というと妙な感じもするが、そこそこ規模の大きいこの町のヒーローはとにかく数が多い。正統派から、地味すぎて名前を覚えてもらえない者、ちょい悪なんて若い子に呼ばれて調子に乗ってる輩までその種類は多種多様。
もちろん彼らを応援する人々も様々に個性が強く、求められる情報は多岐に渡っていた。あちらで言う戦隊みたいなヒーローの、イエローのスカートがいつもより三センチ程短かった等、本当にくだらない記事ばっかりだけど意外と需要はあるらしい。
私が所属してるのはその中でも、彼等の悪評を広める何とも性格の悪い部署だ。飛ばし記事も多々出すらしいのに、どうして潰れないのかなといつも思う。
「聞・い・て・い・る・の・か!」
再び意識を飛ばしてしまっていたのを勘付かれたようで、私の机に大きな音を立てて掌が置かれた。手の主を見上げると、キドさんが隣から覗き込むようにしてこちらを睨み下ろしている。香ばしい煙草の香りが、じわりと周囲に広がっていく。
「き、聞いてますよ! えーと、そうですね。今日もレッドさんカッコよかったで――って痛い!」
たまらず反論すると、間髪入れずに彼が手にしていたファイルで殴られた。
ひどい!パワハラだ!
飛び出しかけた言葉をうぐぐと呑みこみ、唇を引き結んで言外に不満を訴える。
彼は鼻梁の通った鋭い顔を歪め、深く深くため息を吐いた。
キドさん――本名を鬼怒川高助という。先ほどから私にやたら辛く当たってくるこの男は、私の所属する部署のデスク、つまり上司であった。普通デスクというと私たちみたいな木端記者を手足のように使い、集めてきた情報を編纂するイメージがあるのだけど、彼は自ら現場にも立つ。そして、隙あらばヒーロー鑑賞に勤しむ私を怒鳴る。
私が黙って神妙に粛々と彼の罵声を受け入れているのは、何も直属の上司だからだけではない。異世界から落ちてきた私を拾ってくれたのは、他でもない彼なのだ。やけに立派なマンションの一室を間借りさせてもらっている現状、反抗なんて出来るはずもない。
「まったく堪えてないみたいだな。俺たちの雑誌の趣旨わかってるだろ?」
「ひーろーのわるぐちをかくことです」
「それなのに、これはないだろ! 記事はお前の日記帳じゃねーんだぞ!」
ばさり、と数枚の原稿が投げ落とされた。徹夜して書いた、戦隊的ヒーローチームに所属するレッドの雄姿に関する考証が無残に散らばる。説教がいつにもまして長引いていたのは、先ほどの現場での失敗によるものだけではなかったみたいだ。
「だって……かっこいいのは事実じゃないですか」
ムスッと口を尖らせ呟いた言葉は、弱々しく消えていった。
社会人にあるまじき仕事態度だとは自分でも自覚しているのだ。加えてこの会社には素性の知れない私を、特に疑うこともなく雇い使ってくれているという恩がある。
それでも、人々を救うヒーローという存在をこき下ろすのには抵抗があった。
本当に大好きだったのだ。子どもと一部の大人に夢と希望を与える、彼等の存在のことが。
私自身も大人になってまで熱中し、いろいろなことを疎かにしてしまうほどに。
「ふうん、そうか。そんな態度か。よーく、わかった。じゃ、これからは稀川橋の下で寝ることだな」
「そんな! こんなか弱い女性に野宿しろというんですか!」
「か弱い? なら、その手の中見せてみろよ」
グッと、言葉に詰まって呻いた。私の握られた手の中にあるマウスがどんな状態にあるかわかっていて、そんなことを言う彼は性格が悪いと思う。そろりと開けば、案の定。
キドさんが呆れたように声を上げる。
「あーあ、何個めだよ。この馬怪力女」
「ば、ばを付けないでください!」
粉々に粉砕されたマウスを、私専用の屑入れに放りながら言い返した。
そう、この世界にトリップしてから何故かわらかないが、私は妙に力が強くなってしまっていた。あちらに居た時と同じ感覚で力を振るうと、予想を超えた惨劇を生み出してしまう。
最初こそ、これは異世界からの新たなヒーロー『さき』の誕生フラグ……!とかも思ったが、待てど暮らせど、ヒーロー達に不可思議な力を提供している味方の勢力から声がかかることは無かった。
きっとこの世界は見た目は同じでも何か元素とかよくわかんないけどそういうのが違くて、そのせいであちらでは普通だった私の力が相対的に大きく見えるのだろうと、最近はそう考えている。我ながらふわっとしてるけど、原因を科学的に論証できる頭は残念ながらもっていない。
ふと、屑入れに『さきのスクラップ工場』と書かれたラベルが貼られているのに気付き、憤慨しながら引っぺがした。
「大体、お前は――」
「鬼怒川、そこまでにするんだ」
深くそれでいて真っ直ぐな芯の通った声が、キドさんの声を遮った。
再び説教モードに入りかけた彼の肩を掴んで諌めていたのは、柔らかそうな自然な茶髪が印象的な男性。彫が深いのに優しい雰囲気の顔立ちを今は少し咎めるようにし、髪と同色の色素の薄い瞳で毅然と彼を捉えている。
「まま、まれかわさん!?」
裏返った声を出しながら、慌てて鉄くずが詰まったゴミ箱を机の下に押し込めた。
馬鹿みたいに怪力な女である所なんて見せたくない。
キドさんは小さく舌打をし、やっと身体を起こしてくれた。
名前を呼ばれた男性はというと私へ向き直り、柔らかく表情を緩める。まるで私を落ち着かせようとしているかのように。いや、絶対そうに違いない!
彼の名前は稀川令さん。令と書いてハルと読むらしい。こことは別の広告営業を中心に行う部署のチーフ的な役職についている。澄んだ眼差しが眩しい彼は、どこかお茶らけた社員たちの中で少し浮いた存在であった。仕事が出来て、かつ性格は温和で誠実。上司にしたい男NO.1と男女・社内外問わずすこぶる人気が高い。
あまりゴシップ誌とか読むタイプには見えないんだけど、どうしてこの会社にいるんだろうと常々思う。でも居てくれているおかげで、キドさんの理不尽なまでに厳しい指導も耐えられているのだから、深く追求しないようにしている。だって、変に聞いてしまったせいで距離を置かれるのは嫌だもの。
因みに正反対の性格であり、硬質な黒髪黒目でいつも顔色が悪く、どこか不健康そうなキドさんとは同い年だとか。並ばれる度に毎回思うが、とてもそうは見えない。
「笹川さん、あまり彼の言う事を真に受けてはいけませんよ。あなたはよくやっています」
「も、もったいなきお言葉……!」
ははーっと平伏せんばかりの勢いで、恐縮すると稀川さんは朗らかに笑った。
後光が見えそうな程、清廉で慈悲に満ちた笑顔だ。心が洗われる心地がする。
ありがたや、と心の中だけで拝んでいると、切れ長の三白眼が、まるで塵虫を見るかのような蔑みに満ちた視線を投げつけてくる。
やめて!せっかく癒されたのに!
「あんまこいつを甘やかすんじゃねぇ。すぐ調子乗るんだから」
「鬼怒川だって彼女の作ったデータを褒めていたじゃないか。あれは私達のチームでも大いに役立ってる」
「えっ、そうなんですか!」
「ふん、あくまでデータだけだ。いいか? あくまで、データだけだ」
「ううう、二回も言うー……」
彼らが言うデータとは、私がこの町のヒーローについて戦闘力や特徴等を纏めたもののこと。この町のヒーローは、他の町に比べて圧倒的と言える程数が多い。そのため、私が来るまでこの会社はその週出現したヒーローを追い、記事を書くだけで、総括的なデータは存在していなかった。自分用のついでだったけど、案外好評らしい。
「そういえば、あのデータの写真はそのカメラで?」
その、と視線で示されたのは、首からぶら下げた一眼レフタイプのカメラ。黒革が貼られたレトロなデザインだ。コクコクと頷けば、稀川さんは穏やかに目を細める。
「いつも持ってますよね。大事なモノなんですか?」
「はい! これは――」
大好きな人と、大事なものについて話しをする。これほど幸せなことはない。
舞い上がらんばかりの心地で、言いかけた瞬間。
突然、部屋に一つしかない扉が大きな音を立てた。
次いで、転がり込むようにしてあらわれた男性は、ネット等で情報を拾うことを専門とした技術職員。出動のサイレン等が無いこちらのヒーローを追っかける基本的な方法は、目撃情報を逐一チェックすることであり、彼はその担当でもある。そしてそんな彼が入ってきたということは……
「ヒーローが出たぞ!」
私はキドさんと一瞬視線を交わしてから、素早く準備に取り掛かった。
☆★☆
私達の部署は普段ヒーローの悪態を専門に扱っているが、本来目的としているのは彼等の正体を暴くことだ。暴いて、悪しざまに罵るのが最終目標だと、キドさんが事あるごとに嬉々として語っているから間違いはない。
そしてこの目的が、私がこの部署に居続ける理由の一つでもある。
悪しざまに言う方ではなく、彼等の秘密を知ろうとする方。
――ヒーローの正体。
こちらのヒーローもあちらと違わず、元々は普通の人間だという。侵略者と対立するまた別の勢力(こちらも宇宙からの)が、力を与えているんだとか。魔法少女からライダーまで様々に居る彼らだが、共通しているのは一様に顔を隠していること。そして、その素顔は誰一人明らかになっていない。ついでに言えば侵略者達も人間の形をしているのだけど、禍々しい衣装の下がどうなっているかは知られていない。
彼等が正体を隠す理由もわかっておらず、巷では正体がばれると力を失うとか、星に連れてかれるとか、或いは侵略者の駒になるなんてものとか……まぁ、噂はいろいろあるけれど、本当のことを知る人は一般人では誰もいなかった。
与えられている凄い力の秘密も同様に明らかにはされていない。ま、こっちは確実にこの星にとってオーバーテクノロジーだし、仕方ないよね。
しかし、私はどうしても秘密を知りたかった。そのために、毎日のようにキドさんに罵られようとも。
でもいい加減、この状況から脱したいとも思っているのに。
「こ、今度こそはその秘密、暴いてやるんだから……!」
消えゆくトラックの荷台に向かって、小さく地団駄を踏む。
まだまだ、彼に怒られる日々は続くことになりそうだ。
結果として、今回も失敗だった。ただし、今回は私だけの失敗ではない。皆の失敗だ。
誰かが移動用ミニバンのキーを落とし、誰かが機材のバッテリーを忘れ、誰もがスマホを見失い道に迷い……。
くうう、この人達本当に正体暴く気があるのだろうか。いや、私もちょーっとだけ彼等の活躍に見惚れちゃったけどさ。
一人唸っていると、ふと頭に軽い衝撃を受けた。
何かが頭に乗っている。
「稀川からの差し入れだ」
先ほどまで怒鳴り散らしていたせいか、若干掠れているキドさんの声を受けて、頭の上に揺れる箱状の物体を手に取ってみる。
この町の市民にとって馴染のある菓子折りの箱だった。
包装紙には国民的RPGの某スライムを思わせる、青いティアドロップ型のキャラクターがぴょこぴょこ跳ねる様子が描かれている。大きく円らな金色の瞳が可愛らしい。
こ、これは……!
「ヒ、ヒーロー饅頭!」
愕然として呟けば、稀川さんの声も同方向から聞こえた。
「今日は二回目ですからね。疲れてるでしょう?」
その声の持つ温かさに、心拍数が一気に跳ね上がる。
頬に熱が集まっていくのを感じながら、誤魔化すようにまじまじと饅頭の箱を見つめ直した。
ヒーロー饅頭とは、名前の通りヒーロー達のサポートキャラを単純に饅頭にしただけのもの。
この生き物は味方の勢力によって作られた人工的な生物であり、ヒーローに先駆けて現場に到着し、町へ被害を与えないための防護障壁を張る役割を担っている。その見た目は決してスライムを元にしたわけではなく、自分達にとって馴染みのある彩色だからだそうだ。味方の勢力も一般にはその姿を公開していないんだけど、彼等の身体もこんな色なのかな。
でかでかと書かれたヒーロー発祥の地という謎の謳い文句。
キャラを半端にデフォルメした饅頭の、妙にのっぺりとした写真。
一見すると、観光地の売店等によくありそうな品物であるが、これがとにかく美味しいのだ。
甘さ控えめの柔らかい粒あん、小麦の香りが仄かに薫る生地はしっとりときめ細やかで、いくつ食べても飽きが来ない。この町――稀川市の、唯一であり最大の名物でもある。今ではすっかり県外にも噂が広まっており、なかなか入手困難な品物のはずなのに。
「ありがとうござ――って、何食べてるんですか!」
ほくほくしながら振り返ってみると、稀川さんの隣に居たキドさんの口に青い饅頭が詰め込まれていのに気付き、つい咎める声が飛び出してしまった。彼は咀嚼し呑みこんでから、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あほか。誰がお前にだと言った。週刊・ヒーローの実態への差し入れだ」
「ううっ」
「ふふ。たくさんあるから大丈夫ですよ」
「おら、おめーら。休んだならさっさと撤退だ」
「まだ私食べてないですよ!」
喚く私等お構いなしに、仲間たちはテキパキと無駄のない動きで撤退作業を開始する。
彼等は帰るのは異常に早いのだ。なんというか、もう少し仕事にやる気を持ってほしい。私のためにも。
稀川さんも電話を受けてどこかにいってしまったので、私も一気に怠くなった身体を引きずるようにして活動を開始した。
「残念だったねー、さき。今日も特ダネゲットできなくて」
「煩いですよ。敵はあっち行ってください」
からかいに来る別の報道関係者を邪険にしながら、セットしていた三脚を回収して廻る。
因みに、その上にあったカメラやストロボ等は既に他の人達が回収済みだ。機材を触らせてもらえない私が現場で行うのは、専ら帰ろうとするヒーローの足止めと、彼等にとっては重たい機材の持ち運び。前者の方は、今のところ様々な要因で成功した試しはない。
「必殺技のカッコイイシーンとってた方、部数伸びるのに。さきだってそっちの方好きでしょ?」
キャリアウーマン風の女性が纏わりついてきて、クスクスと笑う。くそー、いつになくしつこいな。
戦闘終了後、決まって同じセリフを吐く私の姿は俄かに有名になりつつあるらしい。
他の報道社では、ヒーローの正体に触れないことは暗黙のルールになってるそうで、勝利に浮き立つ群衆の端っこで、ヒーローの秘密を暴けず一人嘆いている私の存在は余計目立つようだ。
急にあらわれた、ヒーローの正体に固執する変な女。
元々雑誌の方向性が浮いていたのもあり、最近では毎度のように他社の記者にからかわれていた。
全く持って心外であるが、今ではいちいち訂正するのも面倒で放って置いている。
「ねぇ、あなたさえよければ――」
「こいつはな、ヒーローの正体を暴いて一攫千金夢みてんだ。邪魔してやるな」
「あら、見た目によらずえげつないのね。……噂のデータ、欲しかったんだけど」
「お前も大概だがな」
勝手なことを話し始めるキドさんと彼女を無視して、機材を抱えミニバンに足を向けようとすると。
電話を終えたらしい稀川さんが丁度戻ってくる所だった。
目が合うと同時に、奇妙な居た堪れなさに身が包まれる。
今の会話、聞かれていたかな……?
「あの、あのですね。私は決してヒーローの正体をお金にしたいわけじゃ……」
お金のためにヒーローを売るなんて、そんな女だとは稀川さんだけには思われたくなくて。
もごもご言い訳をしながら、近づいていく。
ミニバンは彼の向こう側にあるのだ。近づかないわけにはいかない。
稀川さんはというと、陽だまりのような微笑を浮かべ頷いてくれた。
「大丈夫ですよ」
彼もまた、ゆっくりとこちらへと歩み出す。
「あのデータを見れば、あなたが彼らをどんなに愛しているか、わかりますから」
すれ違いざま、スッと手を取られた。もう一度言おう。手を、取られた。
私のものより大分大きく、暖かい掌が私の手を、手を……!
軽くパニックを起こす私を余所に、彼は優雅な動作で私の掌に何かを置く。
「鬼怒川には、内緒ですよ」
そう悪戯っぽく笑って去っていく後ろ姿を、夢心地で見送った。
手の中にある繊細なプレミアムヒーロー饅頭を、握りしめて破壊しないよう注意しながらそっと鞄へと移した。
☆★☆
「はぁ……」
次の日。
私は机の上に転がるプレミアムな饅頭を眺め、ぼうっとため息を吐いた。金色の包装紙に包まれた掌サイズのスライムは、物言わずにただ転がっている。
今日は特にヒーローの出動もなく平穏無事な一日だった。
事務作業や原稿作りも終え、今は夜当番へ引継ぎが行われるのを待っている。
普段であれば、ヒーロー特番チェックだーっと勇んで帰り支度を始めている時間。
やり場のない焦燥感とも高揚感ともつかない感覚に苛まれ、一人煩悶とする。
毎度のことだから、幾日か仕事に打ち込んでいればいつもの敬慕にまで落ち着くはず。
それまでの辛抱なんだけど。
こんな時に限って、やることがないんだから……。
昨日の一件以来、ますます膨れ上がってしまった彼への感情を持て余し、私は再びため息を零した。
唸りながら頭を抱えていると、不意に隣の椅子が乱暴に軋んだ。
「あの腹黒ヤローのどこがいいのか……」
両手を頭の後ろで組んで、身を後ろに倒すという横柄な恰好で座っていたのは、キドさんだった。
彼は理解できないとでも言いたげに、秀麗な顔を不格好に顰めている。
「な、何を言ってるんですか。自分が髄から面の皮まで真っ黒だからって!」
「ふん。あいつに比べりゃあ、俺なんて可愛いもんさ」
そう吐き捨てているが、彼は稀川さんと決して不仲なわけじゃないのを私は知っていた。
だっていつもどちらかと一緒に居ると、どちらかが必ず現れるし。
それに、二人で話す様子も、部署の仲間以外の他人を寄せ付けないキドさんにしては砕けている方だ。
手持無沙汰に金色の饅頭へと手を伸ばし、壊さないように包み込む。
「前々から思ってたんですけど、お二人ってなんで仲良いんですか? ぜんっぜん合わない気がするんですけど」
「仲が良い? 誰と誰が」
「キドさんと稀川さんですよ。だって、キドさん他のデスクたちとはあんまり交流ないじゃないですか」
「……ただの腐れ縁だ」
そんなことより、と口の片端だけいびつに歪ませて、こちらを振り返った。
「告白、しないのか?」
「こくはくって――ええっ!」
唐突に紡がれた言葉の意味を理解すると同時に、手の中で弄んでいた饅頭を握りつぶしそうになってしまった。
いきなり、なんてことを尋ねてくるんだこの男は!
「や、やだなー何言ってるんですか。私なんて釣り合うわけないじゃないですかー」
「くく、そうだな。あいつにお前は、もったいない」
またワケの分からないことを。
訝しむ私等構わずに、彼は喉の奥から押し出すような笑い声を上げると、背もたれに預けていた身を起こす。
そのままこちらへと身を乗り出すと、再び短く笑った。
目と鼻の先に迫った、血色が悪いのに何処か獰猛な雰囲気を纏った顔に、思わず息を呑む。
なんだか、今日のキドさんは少し――変だ。
「だが――昔のよしみだ。機会をやるとしよう」
昏い光を湛えた三白眼が、仄かに煌めいた。
鋭く迫力のある視線で私を射抜いたまま、懐から何かを取り出す。
「ここに行けば、あいつの正体が分かる。せいぜい嫌ってやるがいいさ」
手を逆さにしてぞんざいに投げ捨てると、彼は億劫そうに立ち上がった。
目の前にひらりと舞い落ちてきた、白い切れ端を慌てて掴んだ。
手を開いてみれば、ひしゃげた紙片には何処かの住所らしき文字列が走り書かれている。
「そのカメラ。忘れんなよ」
そう言い残し、部屋から出て行ってしまったキドさんを呆然と見送った。
……稀川さんの、正体?
しかし、すぐに我に返ると支度を始めた。――書かれていた住所に、向かうため。
☆★☆
鉄の錆びたような、淀んだ空気が鼻先に漂ってくる。
土管や鉄筋だけが積まれた荒寥とした視界の中、生き物の気配は私以外に感じられない。
陰鬱な静けさに満ちた夜の闇が身体を包み隠し、世界から取り残されたような錯覚を覚えた。
顔を顰めて視線を落とせば、煌々と光を反射する月が私の影を長く映し出す。
――町外れにある廃材置き場で、私は一人佇んでいた。
「何やってんだろ、私」
自嘲気味に呟けば、力無い声が寒々しい夜風に攫われていった。答えてくれる声はやはり無い。
言葉にできない罪悪感が胸の内でとぐろを巻く。
稀川さんの何を知りたかったのだろうか、私は。
決して彼の外見や、仕事の早さや、優しい言動だけに惚れたわけじゃないのに。
今更どんな醜態を見せられても、受け入れる自信はあるんだ。
ただ、キドさんは私が嫌いになる対象がどんな者達かよく知っている。
それは、ヒーローを苦しめる人々。
「大丈夫、貴女は一人じゃないですよ」
頭をもたげる不安を振り払うように、思い出から響いてくる力強い言葉。
いつだったか――まだこちらに来て間もない時、そう微笑ってくれた稀川さんの姿が浮かんだ。
ふとした瞬間、彼は心を見透したかのような言葉を発する。
昨日だって、そう。言動や態度の奥底にある感情を、彼はよく読み取るのだ。
それでいて、包み込んでくれるような言葉をかけてくれる稀川さんは私にとって……。
悶々と一人考え込む私の瞼裏に、あの意地悪な上司がほくそ笑む顔が過った。
もしかたしたら、キドさんは今日私に家に帰ってほしくなかったのかも。
ほら、性格は難ありだけど、見た目はいいから彼女とかいるかもしれないし。
きっとそうに違いない。大した意味なんてなかったんだ。
自分に言い聞かせるよう、一人頷いていると。
「笹川さん?」
現実でも聞こえてしまった、心に染み入るような深い声。
「ひゃ、ひゃいっ!」
「あ、すいません。驚かせてしまいましたね」
いつかみたいに裏返った声を出してしまってから、振り返る。
そこには、申し訳なさげに小首を傾げた稀川さんの姿があった。
仕事終わりなのか、いつも着ている営業用スーツをラフに着崩し、少し不思議そうにこちらを眺めている。
事情を尋ねてくる彼にもたつきながら、キドさんに促されたことを伝えた所。
「笹川さんも?」と、彼は少しだけ目を瞠った。
「こんな時間に女性一人で行かせるなんて……全く。鬼怒川も昔はもう少し穏やかというか、正義感があったんですけどね」
「正義感溢れるキドさん? 想像できないです……」
言外にかつての様子を尋ねたんだけど、彼は曖昧に笑って見せるだけで何も返さず、会話がぷっつり途切れてしまった。何故だか沈黙が居た堪れなくて、考えるより先に口が勝手に動き出す。
「ま、稀川さんはヒーローの正体がわかったらどうなると思います?」
自分の言葉に、自分で凍り付く。
何を聞いているんだ私は。せっかく二人きりなのに、色気もへったくれもない。
そう二人きりなのだ。二人きりなのに……。
僅かに瞼を伏せ、彼の顔から視線を外した。
普段とは質の違う緊張感が、緩慢な動作で思考を絡め取っていく。
キドさんの言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
「え? うーん、そうですねぇ……笹川さんは、どうだったらいいと思います?」
「わ、私はですね。ええと」
聞き返されるとは思っていなかった。どうしよう、何も考えていない。
誤魔化すように、言葉の先を彷徨わせていると。
不意に、視界の端に飛び込んできた、薄闇を駆ける澄んだ青色。
稀川さんが息を呑む気配を感じた。
私の足元で止まった青いスライム型の生き物は、口もないのに小さく甲高い声を上げる。
途端、浮遊感と違和感が身体を包んだ。
何かにつられるよう顔を上げれば、空に浮かんだ夜闇の前に鈍く揺らめく膜が出現する。
これは――防御障壁。
侵略者との戦いから町を守る、空間を隔絶する力。
外からは入れるのに、中からは出られないという理不尽な壁。
ただし、外の空間に人がいて、その人に空間と空間を繋いでもらう――つまり、外から導いてもらえれば出ることは可能だと、以前キドさんに教わったことがある。
しかしザッと見渡してみる限り、人の通りそうな気配はなさそうだ。
考えを巡らせる間もなく、どこからともなく下卑た笑い声が木霊し始めた。
私たちを取り囲むよう、黒タイツの人型達があらわれる。
次いで、彼等の背後。
黒タイツとは異なる二人の人影が、影が現実化したかののようにじわりと姿を可視化させた。
周囲に禍々しさが満ち始めると対照的に、浮ついた高揚感が足元から這い上がってくる。
これは、彼等が、来る……!
そこへ、颯爽とあらわれたのは――
不気味な鳥人間を模したマスクが印象的な、赤いマントを翻した金色の姿。
月を背に立つ、そのヒーローの名は!
「あ、あれは、平凡仮面!」
「へいぼ――なんです?」
「地味すぎてヒーロー名を憶えている者がいなくなったので、今ではそう呼ばれてます!」
「へ、へぇ」
私の解説に、稀川さんが少し戸惑った声を上げた。
ヒーロー好きを自称しているのに、名前も憶えてないなんてと思われたかな。
でも仕方ない。数か月間調べ回っても出てこなかったのだし。
ヒーローはちょっとだけもの言いたげな視線を寄越してから、戦闘を開始した。
その隙に仲間たちへ、出現を知らせるメールを送る。
ここへ来るまで車なら十分少々。戦闘が終わるまでには間に合う筈だ。
――しかし。
「あああ、やっぱり平凡さんじゃ勝てないのかな……!」
「くっ、これは不味いな……」
同等の技術を操る者同士の戦いで、数の差――黒タイツは賑やかしみたいなものなので戦闘力には数えない――は、やはり大きかったようで、次第にヒーローが押され始めていた。
あの生き物が来たということは、ヒーロー陣営は彼らの出現を把握しているはず。
だから多分、近いうちには援軍も来ると思うんだけど……。
僅かに不安を感じ始めた時。目の前にヒーローが吹き飛ばされてきた。
固い地面に打ち付けられた反動で飛び出した苦し気な呻き声に、ぞわりと背筋が冷える。
地面に背中から落ちたヒーローの首を、後を追って来た侵略者の一人が掴み上げた。
高々と戦利品を掲げるように持ち上げ、そして――
「笹川さん、下がっ――」
稀川さんの声が妙に遠くから聞こえた。
普段であれば一字一句逃さない声なのに、どうしたのかと妙に冷静な自分が囁く。
――侵略者の一人が、平凡仮面のマスクへと手を伸ばしていた。
マスクを、剥がそうとしている。その事実を認識すると、肌がザッと粟立った。
黒いバイザーに隠され色の伺えない三白眼が、そんな私を捉えて嘲笑うかのように細められる。
侵略者はまるで私に見せつけるかの如く、角度を変え、ゆっくりと――
その意図を察した私は、首から下げたカメラを手に取った。
馴染みある冷たさが、掌を通して伝わってくる。
気付いたらしい稀川さんが、何かを叫ぶ。
だが、沸き上がる激情に支配された私の頭が、意味を理解することはない。
「あなたも、勘違いしてるんだね」
ゆっくりと、首にかけていたカメラを掲げる。
からからに乾いた喉が、私の感情に応えて小さく鳴った。
「私が、知りたいのはヒーローの正体じゃなくて――」
大きく息を吸い込み、私にとっては少し重いカメラを、
「あちらの世界に、帰る方法だ……!」
思いっきり、投げつけた。
☆★☆
――私は帰りたかった。
いくらこちらがあちらと瓜二つでも、大好きなヒーローがいても。
同じではない。少しずつ違う。違和感は日々募っていく。
そして何よりこちらには……あちらを生きた私を知る人が、誰もいない。
こちらでの私は二十三年の時間を生きた笹川沙希ではなく、ただの不審な怪力女。
あちらより重くなった身体が、足を踏み出すたびに地中深く沈み込んでしまいそうになる感覚に、一人苛まれる日々。
いっそ、そのままマントルを突き抜けて、この世界に紛れた込んだ異物をこの星が燃やし尽くしてくれればいいのに。
生きるために笑顔を浮かべながらも、毎日そんなことを考えていた。
「大丈夫。貴女は一人じゃないですよ」
限界点に達しそうになった所で、そう慰めてくれた温かい掌。
何も言っていないのに、どうしてわかったのだろう。
じっと見つめてくる色素の薄い瞳を見返して、ああ、と一人納得する。
そうか。彼はいつも見ていてくれたんだ。
彼に促されオフィスに戻れば仲間たちが、どこか心配そうにこちらを窺っていた。
異世界に放り出されながらも、一人じゃなかった幸運に。――ようやく、気が付けた。
皆に無様な姿を晒したくなくて、無い頭を使って必死に考えた。
帰りたいなら、行動しなくては。
あちらでは世界を渡る方法なんて、まだ開発されていなかった。
ということは、こちらで帰る方法を探すとしたら、あちらと違う点をつかなくてはならない。
最も大きな相違点は――ヒーローという存在。
彼等の秘密に肉薄すればきっと何かわかるだろうと、ありとあらゆる情報を集め、正体だけは調べても出てこなさそうだから、自ら現場へと足を運ぶ。
もちろん、秘密を知った所で、都合よく帰れるなんて本気で思っていたわけじゃない。
ただ、帰れるかもしれない可能性に、縋っていただけなんだ。
決して彼等を苦しめるつもりで、秘密を探っていたんじゃないんだ。
手に入れた秘密は帰れようが帰れまいが、お墓まで持っていくつもりだったし。
だから、ヒーローを傷つけ苦しめる奴らなんかに――利用されてたまるか!
☆★☆
顔面にカメラの一撃を受けた侵略者の片割れが、勢いよく横ざまに飛んでいく。
どんがらがっしゃーん、とアニメみたいな音を立て、積み重なっていた鉄骨の山に突っ込んだ。
私のカメラはというと、重厚な打音と共に地面に落ちた。
衝撃に、抉れて捲れ上がるアスファルト。
……こちらのモノが軽く感じる私にとって少し重いカメラは、こちらの人にとってひどく重いらしい。
世界を一緒に飛び越えた、大事な大事な相棒。
こちらなら、投げたくらいで壊れないのは知っている。
カメラを避けた方の侵略者がヒーローを投げ捨てて、私達の方へとゆっくり踏み出した。
彼の影から、じわりと禍々しい気配が立ち上る。
物々しい雰囲気に、自然と笑みが零れた。
正体不明の侵略者。
人々を襲い、傷つける恐ろしい存在。
――しかし、所詮こちらの生き物だ。
私は稀川さんを庇うよう進み出ると、傍らにあった土管を持ちあげた。
軽すぎず重すぎず、これは投げやすい。
黒い侵略者を見据え、重心を後ろに下げながら片足を引く。
「異世界人、舐めるなっ!」
そう、大きく振りかぶり、投げようとすると。
「笹川さん」
軽い衝撃が、手首に走った。
土管が転がり落ちるどこか空虚な音が、高く夜空に吸い込まれていく。
痛みはほとんどなかったが、叩かれたという事実に動揺し、思わず手を放してしまった。
驚いて振り返れば、月を映しとったかのように神秘的に輝く、色素の薄い瞳。
そう、稀川さんに叩き落とされたという、事実に驚いたのだ。
「ダメですよ。そんなことしては」
彼は私の腕を取り、自身が叩いた場所を軽く撫でる。
私を宥めるような、温かな熱が広がった。
興奮に染まっていたスッと視界が冷えていく。
「貴女を戦わせるくらいなら、私は嫌われることを選びましょう」
再び私の前へと歩み出た彼の髪が、絵具が水に滲むよう青く塗り替わっていった。
☆★☆
青い流星。青い光線。青い……ええっと、あとは何だろう。
自分の語彙力の無さをぼんやり嘆きながら、呆気にとられて私はその戦闘を眺めていた。
人間の自分では捉えられない動きで、不思議な光を纏った青が二人の侵略者を追い詰めていく。
そう、それはまるで闇夜を切り裂く青いほうき星。
以前、彼は私の馬鹿力を羨ましいと言っていたことがある。
今の私は力が弱いから、と。
そんな他の人が言わないような気遣いの言葉を言いだせる所もまた、惚れた要因で――
って、そうじゃなくて。
今の、というのはつまり、人間に近い見た目の場合、ということだったのかな。
やがて撤退していく侵略者達を見送って、ヒーローは何事かを稀川さんと交わすと闇に消えて行ってしまった。美しい青髪を揺らめかせ、稀川さんは少し躊躇うように頬を掻く。
「笹川さんには、見られたくなかったんですが」
振り返った彼の目は、背にある月と同じ静かな金色だった。
ヒーロー饅頭の間抜けなパッケージが頭に浮かんだ。そうか、彼は。
「私は貴女の愛するヒーロー達に、戦いを強いる陣営の人間です。戦う力を持ちながら、戦わない。味方の振りをした高慢な勢力の、一員……」
どこか諦めたように言葉を紡ぎながら、彼の身体が少しずつ空気に溶けていく。
ヒーロー達が消えるときと、同じように。
一瞬の内にいろんなことが、頭を過った。
彼への気持ち、帰りたい気持ち、ヒーローへの気持ち、いろいろ、いろいろ……。
目まぐるしく移り変わる心を全て呑み込んで。
「ヒーローを苦しめる人は、確かに嫌いです」
吐き出された声は、もう揺らいではいなかった。
地面を蹴り一瞬で距離をつめると、半ば消えかけた彼の腕を掴んだ。
驚いたように見下ろしてくる金の瞳を真っ直ぐ見返して。
「でも、あなたも私にとって、ヒーローなんです」
だからお願い、消えないで。
澄んだ月色の瞳に、喜色が滲み広がっていくよう見えたのは。
私の勘違いじゃなかったらいいな。
☆★☆
「つ、次こそはその秘密、暴いてやるんだから……!」
空気に溶けるよう消えゆくバイクを見送って、私は一人吠えた。
重なるようにイヤホンから怒鳴り声が聞こえてきて、耳を抑えながら腰に付けた無線本体の電源を落とす。
あの日以降も、私は相変わらず帰る方法を探している。
ヒーロー側であるハルさんは方法を知らなかったんだけど、可能性はまだなくなったわけじゃない。
それというのも、彼自身はあくまでヒーローのサポートを主な任務とし、自分の勢力の上層部と間を取り持つ謂わば中間管理職的な位置に居るらしい。技術的にどういう力をどういう仕組みで使っているかは、よくわからないそうだ。
恥ずかしそうに、文系ですからって笑っていた。……文系って、いうのかなぁ。
正体を露呈したことは、あの夜のヒーローと私と彼の秘密ということで有耶無耶にできたけど、流石に彼の口利きで秘密基地に潜入することは無理だった。協力者になれば連れていけるらしいけど、それは彼が断固として拒否しているため、結局自分の力で探すことにした。もちろん、彼も彼なりに協力してくれている。
でも今探しているのは、ただ帰る方法じゃない。
無線の電源を切ったことに勘付いたキドさんに直接叱られて、しょげながら機材を片付けていると、仕事中のハルさんの姿が目に入った。ヒーローに敵対的な記事を書く我らが部署の監視を兼ねた、同会社での広告営業活動のお仕事。私達の雑誌の広告もちゃんと取ってくれるのは、彼なりの上への反抗なのかもしれない。
彼も私に気づき、優しい微笑を浮かべて手招きをした。
機材をしまいこみ小走りで駆けよれば、お疲れ様と頭を撫でてくれる。
――愛しい人が笑顔で迎えてくれるこの場所に、帰った後にまた戻ってくる方法を探している。
我ながら欲張りだと思うけど、仕方ない。
あちらでだってヒーローのために奔走していたのだし、今更な話である。
そうしたいと思えるヒーローに、こちらでも出会ってしまったのだから。
相変わらず暖かい掌の感触に、私はだらしなく頬を緩めたのだった。
※以下蛇足・正体バレ直後
ハルさんが侵略者を蹴散らしてから少し経った頃、漸く到着した仲間達にガセかよ!と怒られ、無駄な出動の責任を取れと飲みに連れ回され、いつの間にか朝日に照らされた公園に皆で寝ていて……
帰るのも億劫になった私は、始業時刻まで仮眠室で休んでいようと、会社を訪れていた。
ふらふらとオフィスの扉を圧し掛かるように開けて、中に入ると。
「おい」
不意に声をかけられ、文字通り飛び上がる。変な声を上げながら振り返れば、入ってきた扉のすぐ隣。くすんだ灰色の壁に凭れた、キドさんの姿があった。珍しい、と思いつつも見慣れた存在に肩の力を抜いて挨拶をする。朝に弱いという彼は大方横綱出勤なのに、どうしたのかな。
ふと、いつも以上に顔色の悪い彼の顔を見て、昨晩のやり取りの謎を解いていなかったことを思い出した。
「あ、そういえば昨日の結局なんだったんですか!」
「何だ。稀川の奴、正体あらわさなかったのか?」
問い返され、一瞬言葉に詰まる。正体とは、あの青い姿のことだろうか。
顔色を変えた私をきつめの三白眼に捉えた彼は、口の端だけで嘲笑う。
「……人気の無い場所に二人きりなら、紳士の皮を被ったあいつでも正体をあらわすと思ったんだがな」
「えっ」
暫く考えて、どういう意味か理解した途端、顔がカッと熱くなった。次いで、一人でもやもや悩んでいた時間を思いだし、ふるふると肩が震える。つまり、二人そろって盛大にからかわれたのか。
呆れて言葉も出ないとは、こういうことを言うのだろう。
キドさんはというと、口をパクパクさせる私を面白そうに一瞥してから、壁を蹴って身を起こし、さっさとどこかへ行ってしまった。
「意外にチキンだな」等とのたまいながら彼が出ていった扉を憮然とした気持ちで睨みつけた。
全く、人騒がせな!
☆★☆
早朝のためか人気のない喫煙所にて、鬼怒川は紫煙をくゆらせながら、一人呟く。
「チキンなのは俺か……」