表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異史・豊臣誕生伝  作者: 七色かのん
第一章 三成決起
6/11

敦賀の戦い

登場人物紹介


《織田信澄家》

織田信澄(29)

 通称七兵衛。新生足利幕府管領。摂津大坂城主。信長の甥だが、明智光秀に味方し羽柴秀吉を殺した。光秀死後幕府を再興し実権を握る。


丹羽長秀(49)

 通称五郎左。近江大溝城主。元は織田信長の重臣だったが、関ヶ原以後信澄に仕える。若狭を領する。


武田元明(22)

 室町幕府では若狭守護だった名門の家系。丹羽長秀の与力。


《毛利家》

毛利輝元(31)

 新生足利幕府西国探題。安芸郡山城主。山崎の合戦後信澄と結び、中央に進出する。


小早川隆景(51)

 備後三原城主。故毛利元就の三男で毛利輝元の叔父。本能寺直後羽柴秀吉を支持していたため、現在影響力が弱まっている。


亀井茲矩(27)

 因幡鹿野城主。羽柴秀吉の傘下にいたが、山崎の合戦直後に毛利家に下る。外国に強い興味を持っている。


《織田信忠家》

織田信忠(27)

 左近衛中将。通称岐阜中将。近江安土城主。信長の嫡男で、信長死後の織田軍団をまとめる。


柴田勝家(62)

 通称修理亮。越前北庄城主。北陸方面軍を率いる織田家筆頭家老。


柴田勝政(27)

 通称三左衛門。加賀尾山城主。柴田勝家の養子。死んだ佐久間盛政の実弟で、その所領を引き継いだ。


《その他》

足利義昭(47)

 足利幕府十五代将軍。信長に京を追われた後は毛利家に身を寄せていた。織田信澄と毛利輝元が和を結んだことで幕府再興がなった。


石田三成(24)

 元羽柴秀吉の家臣。織田家を出奔し、羽柴家再興を目指して活動。


※()内の年齢は全て数え年です。

 天正十一年四月二十三日。


 主である織田信忠が京奪還を目指して軍勢を動かしたのに合わせ、柴田勝家は北陸方面軍一万を率いて北庄城を発った。向かう先は京ではない。越前の西の端、若狭との国境にある、金ヶ崎城である。


 丁度十三年前の元亀元年四月、織田信長は朝倉氏討伐のために越前へと出陣した。順調に行くかと思われた矢先、同盟者である浅井長政が反旗を翻し、一転信長は窮地に陥った。即座に撤退を決めた信長を追う朝倉軍。それをこの金ヶ崎城で羽柴秀吉が食い止めた。これが世に言う金ヶ崎の退き口である。


 これ以外でも昔から多くの戦が、金ヶ崎城の位置する敦賀の地で繰り広げられてきた。近江、さらには京と越前を繋ぐ細い線上にあり、且つ海にも面していることを考えればそれも当然だろう。


その敦賀、本能寺以後もしばらくは織田信忠の支配下にあったのだが、冬に入る前に信澄方の武田元明に攻められて敵方に落ちていた。今でこそ柴田勝家が自ら命じて作らせた北国街道があるために近江と越前が直接行き来できるとはいえ、敦賀を押さえられていては自由に軍勢を動かすことが出来ない。そのため、中央の戦いに援軍として送った前田利家、上杉の押さえに富山城においた佐々成政以外の北陸方面軍を率いて、柴田勝家は金ヶ崎城に攻め寄せたのである。


金ヶ崎城は堅城である。しかし、それを守る兵がたったの千人では、とてもではないが守りきれるものではなかった。守将武田元明は奮戦したが多勢に無勢、自ら切腹して果て、金ヶ崎城はその日のうちに柴田勢の手に落ちた。


もちろん柴田勢の将兵は快哉を上げて喜んだ。しかしその夜、金ヶ崎城より西へ四里のところにある佐柿城に入城した軍勢を率いる武将もまた、その死に笑みを浮かべた。


「元明め、ようやった。七兵衛殿を立てた儂とは違い、本能寺の変を知るや否やすぐに光秀についた奴だ。どこかで処分してやろうとは思っていたが、修理亮を敦賀に引き付ける役割をしっかり果たしてくれた」


 信澄が織田家の下で若狭、北近江を領する丹羽長秀。本能寺の変後真っ先に信澄に臣従した元織田四天王。今の彼は、本能寺の変以前には見られなかった強かさを身につけていた。


                * * *


 明けて二十四日の巳の刻(午前十時)、柴田軍一万と丹羽軍八千は敦賀平野にて対峙していた。


 本来武田元明を助けるという名目で出陣した軍勢は(大将丹羽長秀はそんなことは考えていなかったが)、金ヶ崎落城、武田元明切腹の報を聞いた上で、佐柿城を出て東へと行軍した。始め丹羽軍が攻めてくると聞いて籠城も考えた柴田軍の諸将であったが、敵勢が自軍より少ない八千人だと知ったため、城にほとんど兵を残さずにほぼ全軍を率いて野戦を挑んだのだ。


「五郎左、何を考えているのだ……。確かにあ奴は信長様ご存命の折には戦働きよりも別の面で活躍し、目立った功はあまりあげていなかったが、決して戦下手ではなかったはずじゃ」


 いぶかしむ柴田勝家であったが、側にいた養子の柴田勝政は戦意を高ぶらせて言った。


「織田家を裏切ったことで心を病み、状況を把握できなくなったに違いありませぬな。何にせよそれがしは実兄と義兄を殺されたのです。その供養に、必ずや丹羽長秀めの首を墓前に捧げてみせまする」


 柴田勝政は元は佐久間家の者で、先年の戦で命を落とした佐久間盛政の実の弟である。また、勝家にはもう一人、柴田勝豊という養子がいた。だが彼も同じ戦で亡くなっている。あの時、柴田軍の主な相手は今回と同じく丹羽軍だった。勝政は兄の仇をとろうと闘志を燃やしていた。


 そんな気合十分な勝政を見て、勝家は満足げに目を細めた。彼は自分と同じような、戦場では武勇を示し活躍するが、謀略などは苦手といった人間を好むのだ。


「よう言った三左衛門。奴の思惑がどうあれ、儂が戦にて五郎左に負けるはずがないわ。織田家筆頭家老柴田勝家の跡継ぎとして、存分に槍を振るうがよい」


「御意に。父上」


 パァン。


 その時、戦場に最初の銃声が響いた。それを合図に次々と銃声が鳴り響く。矢玉を恐れぬ勇敢な兵が走り出し、合わせて両軍の軍勢全体が動き出す。ついに北陸でも本格的な合戦が始まったのだ。


                * * *


 とはいえ開戦から一刻ほども経てば、丹羽軍の劣勢は明らかになっていた。元々の人数差に加え、柴田軍には猛者が多い。特に、元佐久間勢を中心とする柴田勝政隊の働きには目を見張るものがあった。丹羽軍の部隊は次々に散り散りとなり、長秀は自ら率いる本隊で勝政隊と交戦していた。


 絶体絶命に見える丹羽軍。しかし大将丹羽長秀はまだ冷静を保っていた。大将ながら時おりやむなく槍を振るう彼の目は戦場の北、金ヶ崎城と敦賀湾を見ていた。何かを待っているのだ。


しかして。


(……来た)


 長秀の待ち望んでいたそれらは、姿を現した。


                * * *


「何だ。あれは……」


 優勢に進む戦いを眺めていた柴田勝家は、不意に見た敦賀湾の光景に目を見張った。


 彼の目に映ったのは、敦賀湾の果てに並ぶ大船団だった。大小合わせて百艘は超えるであろう船の群れが、入り江の入り口に存在していた。


「まずい。あの数の船、とても漁のためとは思えぬ。恐らくどこかの水軍か。何にせよ、今現れたということは十中八九五郎左の差し金と見てよい。今の金ヶ崎城は空も同然。あれだけの戦船で攻められれば一溜まりもないわ。五郎左はこれを待っておったのか……」


 歯噛みして悔しがる勝家。優勢とはいえ柴田軍は未だ交戦中で新手の兵に割ける与力はない。金ヶ崎城などすぐに落ち、柴田軍は一転負けを喫するものかと思われた。


 だがしかし、勝家の心配は杞憂に終わった。


                * * *


 丹羽長秀は敦賀湾を眺めていた。だがそれは大船団が現れた時のような期待に満ちた眼差しではない。目の前の事象を理解できず、呆気に取られている目だった。


「何故、何故。敦賀より離れていってしまうのだ!」


 そう。水平線上に現れ、戦慄と希望を与えた船団は、敦賀湾に入ることなくまたどこかへ行ってしまったのであった。


                * * *


 大船団の登場と退場。その不可解さは両軍を困惑させた。だが結局何も起こらないまま戦は経過し、大将丹羽長秀は捕まり、勝家の前に引っ張り出された。


「五郎左よ。何故謀反人である津田信澄めについた」


 縄を掛けられた長秀は、何か憑き物が落ちたような顔つきで答える。


「色々理由はあるがのう……。実際のところ、状況がそうさせたのかもしれぬ。三七郎殿が七兵衛殿を殺めようとし、逆に返り討ちに遭った。そのような状況下で大坂の軍勢をまとめるためには七兵衛殿を立てるのが一番だと考えたのだ」


「信澄は信長様を殺めた明智光秀と組んだのじゃぞ。その場はそれで済むとしても、落ち着いてから上様の下に戻ればよかったではないか」


「何というか……。七兵衛殿に賭けてみたくなったのだ。七兵衛殿の器量は本物じゃ。岐阜中将殿に勝るとも劣らぬほどじゃ。にも関わらず、七兵衛殿には頼るべき経験豊富な家臣などおらぬ。お主や左近将藍のおる岐阜中将殿とは違ってな。故に、儂は七兵衛殿に仕えてみたいとあの日の大坂で思ったのだ。結果はこの有様じゃ。儂に管領様のお守りは荷が重かったようじゃな」


 それを聞き、険しい表情をしていた勝家も表情を緩めた。


「全く。お主らしくない」


「全くじゃ。さあ修理亮殿。そろそろ儂は逝く。一足先に信長様にお目通り願おう。残った者たちは儂の我が儘に巻き込まれただけじゃ。助けてやってくれ」


「分かっておる。さらばじゃ。五郎左」


 そうして、白装束に身を包んだ長秀は切腹して果てた。享年四十九。織田信長と同じ年であった。


                * * *


 敦賀を離れる船上で、亀井茲矩は船団の大将に尋ねた。


「何故金ヶ崎城を攻めなかったのです? 丹羽殿は味方のはずではなかったのですか?」


「確かに今、毛利家と織田信澄は同盟関係にある。しかし、織田信澄と手を結んだことは毛利家にとって不利益になったと、儂は考えておる。とはいえ山崎の合戦後、儂の発言力は低下してしまい、兄者や他の者の意見が通ってしまった。結局我らと織田信澄は今一蓮托生といってもよい関係となった」


「それでも、一応は丹羽軍は味方で、柴田軍は明らかに敵です。ここで柴田を勝たせることはなかったのでは……」


「儂は織田信忠も織田信澄も等しく嫌いだ。共倒れするのが一番よい。丹羽五郎左衛門尉殿は優れた方。付け入る隙は少ない。だが柴田修理亮は武辺一辺倒。崩す手などいくらでもある」


「そこまでおっしゃるということは、まさか」


「ああ。もう手は打ってある。その是非が分かるのはしばらく後だろうがのう。今は我ら本来の任を果たそうではないか。金ヶ崎城を攻めなかったのはそのためでもあるのだ」


「なるほど。隠密行動ですね」


「船は見せてしまったが、その程度では人は判断できぬ。恐らく幻とでも片付けられてしまうのではないか? 柴田軍の勝利などどうでもよいのだ。この作戦が成功すれば、そっちの織田家も勢力を弱めるのだから」


 船団は海岸線に沿って北上して行った。その旗印は三つ巴。毛利家の重臣、小早川隆景のものである。


 前回の後書きで信忠、信澄が直接戦うと書きましたが、その前に北陸の動きを書かせていただきました。次は中央に戻ります。


 拙い知識で書いているので、間違いを見つけたら容赦なくコメントしてください。もちろん感想なども受け付けております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ