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異史・豊臣誕生伝  作者: 七色かのん
第一章 三成決起
5/11

大津城攻略

登場人物紹介


《織田信澄家》

織田信澄(29)

 通称七兵衛。新生足利幕府管領。摂津大坂城主。信長の甥だが、明智光秀に味方し羽柴秀吉を殺した。光秀死後幕府を再興し実権を握る。


堀秀政(31)

 通称左衛門督、久太郎。播磨姫路城主。山崎の合戦後信澄に仕える。文武に秀で、信澄をよく補佐する。


《毛利家》

毛利輝元(31)

 新生足利幕府西国探題。安芸郡山城主。山崎の合戦後信澄と結び、中央に進出する。


吉川元春(54)

 通称駿河守。安芸日野山城主。毛利輝元の叔父であり、本能寺の変以後は弟小早川隆景を差し置いて毛利家中で最も影響力を及ぼすようになる。


吉川元長(36)

 吉川元春の嫡男。


《織田信忠家》

織田信忠(27)

 左近衛中将。通称岐阜中将。近江安土城主。信長の嫡男で、信長死後の織田軍団をまとめる。


織田信雄(26)

 通称三介。伊勢松ヶ島城主。信長の二男。凡庸な男。


織田信包(41)

 通称上野介。伊勢上野城主。信長の弟。


織田秀勝(16)

 近江長浜城主。信長の四男であり、羽柴秀吉の養子となっていたが、織田姓に復した。


黒田孝高(38)

 通称官兵衛。元羽柴秀吉の軍師。現在は織田秀勝の補佐をする一方で、織田信忠の軍師としての頭角を現しつつある。


池田輝政(19)

 父恒興、兄元助を織田信澄に殺され、家督を継いだ。


前田利家(46)

 能登小丸山城主。北陸方面軍から援軍として中央の戦へ参加。


菅屋長頼(?)

 信長存命時には堀秀政らと共に五奉行として活躍していた。主に北陸の政務を担当。本能寺の変を織田信忠と共に脱出。


長谷川秀一(?)

 信長存命時には堀秀政らと共に五奉行として活躍していた。


福富秀勝(?)

 信長存命時には堀秀政らと共に五奉行として活躍していた。本能寺の変を織田信忠と共に脱出。


稲葉一鉄(69)

 美濃曽根城主。西美濃三人衆の一人。


氏家行広(38)

 美濃大垣城主。西美濃三人衆の一人であった、氏家卜前の子。


蒲生氏郷(28)

 通称忠三郎、飛騨守。信長から才覚を見込まれた逸材。本能寺の変の時に信忠の脱出を助けて信頼を得、その後も信忠の下でその才を活かしている。


滝川一益(59)

 通称左近将藍。伊勢長島城主。軍事を中心に多方面で活躍。


《その他》

足利義昭(47)

 足利幕府十五代将軍。信長に京を追われた後は毛利家に身を寄せていた。織田信澄と毛利輝元が和を結んだことで幕府再興がなった。


石田三成(24)

 元羽柴秀吉の家臣。織田家を出奔し、羽柴家再興を目指して活動。


※()内の年齢は全て数え年です。

 天正十一年四月二十一日。


 瀬田川の東岸に陣を布き、本陣にいて戦場を眺める若き織田家両当主の片割れ、織田左近衛中将信忠は、八年前のことを思い起こしていた。


 八年前の天正三年五月二十一日、当時十九歳だった織田信忠は、新御堂山の野辺神社にいた。新御堂山は三河国の南西部にあり、その東には設楽原という平地があった。そこでその日行われたのが、かの有名な長篠の戦いである。


 精強で鳴らしたはずの武田騎馬軍団は、信長軍の圧倒的な火力の前に敵兵に一太刀も浴びせること敵わず戦場に伏していった。その様子を後方より目にし、信忠は新時代の戦の形に身を震わせたものだった。


 今、戦場にはその長篠の戦いを彷彿とさせるほどの数の銃弾が飛んでいた。信忠軍の用意した火縄銃の数は三千丁。長篠の戦い時の織田・徳川連合軍の鉄砲の数と同数である。八年前は父の戦をただ眺めるのみだった信忠が、今亡き父同様の戦術で以て合戦を指揮している。


 瀬田川西岸に布陣する堀・吉川軍は信忠軍の侵攻に備えて多くの板盾、竹束を準備していた。しかし、信忠軍から放たれる圧倒的な弾幕によって次々と損耗していき、開戦から半刻が過ぎた頃には銃弾の届かない場所までの退却を始めた。


 ほぼ同時に、信忠軍は満を持しての渡河を開始、最も危険な渡河の最中には当然敵勢の銃撃があったものの、事前の何万発もの発砲によって発生していた硝煙の霧で狙いが定まらなかったようで、さしたる損耗もなく渡河に成功、さらに、堀・吉川勢によって落とされていた橋の修繕も行い、未の刻には全軍が瀬田川を渡り終えた。


 堀秀政はその様子を途中まで歯噛みして見ていたが、こうなってしまった以上約二倍の軍勢を誇る信忠軍に対し野戦では勝てないと判断、将兵らと共に大津城まで撤退した。


 信忠軍もそれを追って日が暮れる前に大津に到達、城を囲んで野営を始めた。


「守山の合戦より八カ月、よくこれだけの規模の城を作ったものだ。七兵衛が南に主力を割いている以上、北を攻める我らが敵に後れを取ってはならぬ。まあ凡愚な弟とはいえ左近将藍や上野介をつけ、おまけに忠三郎までやったのだ。数日は持ちこたえてくれぬと困るがのう」


 信忠の言を受け、傍らにいた青い小袖をまとった人物が口を開く。


「三介殿ならば心配はいらないものと存じまする。むしろ城攻めを前に蒲生殿を手放してしまうとは、上様はよほどご自身の才に自信があるようで」


 やや皮肉めいた彼の言葉に、信忠の唇がにやりと歪む。


「お主の策を信用しておるのでな。兵数は城攻めには十分とは言えず、おまけに琵琶湖の水運を担う堅田衆は未だ敵方についておる。このような状況であれ、我らは大津を落とせるのであろう?」


「上様が望むのであれば、勿論」


「はっ。言うわ。軍師殿よ」


 信忠は彼を下がらせた。不自由な足を引きずりながら立ち去ってゆく男は、その名を黒田官兵衛孝高といった。


                * * *


 二十一日の夜、大津城を囲む信忠の軍勢を見た守将堀秀政、吉川元春は、一つの策を実行することにした。


 それは城の攻防戦における常套手段、すなわち夜襲である。


「信忠軍は着陣したばかりで兵達も疲れ切っておるはずじゃ。ここを襲えば敵は間違いなく損害を受け、また今後も夜襲を警戒して兵を割かねばならなくなる。必ずや夜襲を行うべきじゃ」


 強く夜襲を求める元春。一方の秀政もその言葉に大きく頷いた。


「本能寺を脱出した信忠の事です。夜襲される危険を考えていないはずはありませぬ。しかし将兵は間違いなく疲れている。この機に乗じた夜襲は例え定石であれ、成果が出るでしょうな。して、夜襲の大将は誰にすべきでしょうか」


「その任、我が息吉川元長にお任せあれ。我らは堀殿と違いこの城にはさほど明るくない故、明日からの合戦においては堀殿に活躍の場を譲るやもしれぬ。しかし遠く山陰よりはるばる京まで来た我が吉川軍の士気は高い。息子元長ならば必ず多くの敵兵の首級を引っ提げて戻ってくることであろう」


「そこまで考えていたとは、流石駿河守殿。では今宵の夜襲、吉川元長殿に任せます」


「おうよ。すぐに息子に伝えよう」


 そう言い残し、元春は部屋を出て行った。


                * * *


 二十二日子の刻(午前零時)、突如大津城の門の一つ、京橋口の門が開き、鬨の声を上げた吉川軍の精鋭五百が信忠軍に突撃した。


 不運なその一撃を受けたのは、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄の陣である。


「来おったか! すぐに使番を呼び、上様の陣に知らせよ!」


 歴戦の老将である稲葉一鉄はすぐに状況を察し、信忠に事態を伝える。同時に自軍のみでは敵を抑えきれないと判断し、最寄りの氏家行広の陣へと逃げ込んだ。


「行広! 少しばかり陣借りいたすぞ!」


 突然現れた一鉄に、今にも寝るところであった氏家行広は飛び起きた。


「い、一鉄殿! 何故我が陣に」


 氏家行広の父、氏家卜全は稲葉一鉄と同じ西美濃三人衆の一人であった。故に一鉄は簡単に氏家行広に頼ったのだった。


「大津城の兵の夜襲じゃ。数は数百といったところだろう。儂の兵は未だ混乱より脱せておらず単独では対抗できぬ。上様の援軍が到着するまで、お主も我らと共に敵を食い止めるのだ」


 正直、行広にとって稲葉一鉄は父親面してくる面倒な老人でしかなかった。しかしこのままでは自軍も敵勢の攻撃を受けてしまうことは想像に難くない。そのため行広は一鉄の言葉に従い、自軍を取りまとめて吉川軍とぶつかった。


 稲葉・氏家隊の反撃により吉川勢の動きが鈍った。


 父同様戦に長ける吉川元長、稲葉・氏家の両隊を粉砕することも考えた。彼の軍勢の士気を考えれば不可能なことではないだろう。しかし、まだ戦は始まったばかり。過剰に攻め込んで帰れなくなっては問題であると判断、他の部隊からの援軍が到着した頃には、すでに一兵も残らず城内に退却していた。


 この夜襲により稲葉・氏家両隊は戦闘能力を大幅に減少させてしまった。一方の吉川隊の損害は数名。夜襲は成功であるといえよう。


                * * *


 大津城自体は織田信澄が信忠の侵攻に備えて築城を命じた城であるが、その資材の多くに坂本城の遺構が使われている。坂本城は大津の北にあった城で、亡き明智光秀の居城だったのだが、彼の死後廃城になっていた。その坂本城同様、大津城も琵琶湖の水を堀に引き入れた水城である。同時に坂本城以上に京の入り口である逢坂の関に近い。故に、一刻も早く入京したい信忠であっても、この城を無視することはできなかった。


大津城は北東に本丸があり、そこが琵琶湖に面している。水軍でも持っていれば本丸を直接攻撃することができるが、あいにく琵琶湖を自由に行き来できるような船団を信忠は持っていない。そのため、地道に一つずつ郭を攻略していくしかなかった。


 大津城には城外に通じる門が三つある。そのうちの南東にある浜町口に菅屋長頼四千と前田利家五千。南西にある京橋口に長谷川秀一四千と織田秀勝五千。北西にある御花川口に福富秀勝四千と池田輝政二千、信忠本隊五千が布陣。総勢二万九千の軍勢で大津城を包囲した。


 本能寺の変以前、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝の三名はいずれも信長の側近であり、出世頭だった。今は信澄方についている堀秀政、矢部家定を加え、五人は五奉行として信長政権の政務を担当していた。しかし本能寺の変から再興した織田家では有力な武将が以前に比べて減っていた。故に優秀な彼らをこの戦で武将としても抜擢し、新生織田軍の陣容を強化する。これが黒田官兵衛の狙いで、そのために、石高は少ない彼らに本隊から兵を分け与えたのだ。


 ちなみに昨夜吉川元長に敗れた稲葉・氏家隊は信忠本隊に組み込まれている。一隊を組織するには兵が足らないと判断されたのだ。他にも信長の五男、織田勝長などが信忠本隊と共に従軍していた。


 辰の刻(午前八時)、信忠の命を受け、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝の三人はほぼ同時に大津城に対する攻撃を開始した。


 三隊の兵が三つの門にそれぞれ殺到する。だが、大津城の鉄壁の守りが彼らの侵入を許さなかった。


 大津城は前述したように水城である。一番外側に三の丸、その内側に二の丸は、北東を空けた「コ」の形をしている。二の丸の「コ」の空いた部分に本丸があり、「コ」の内部、二の丸と本丸に囲まれた部分に奥二の丸が存在する。そして各郭は堀で囲まれて独立しており、橋で別の郭と繋がっている。


 その最も外側の郭、三の丸の突破には、多くの犠牲を必要とする。


まず門にたどり着くまでに橋を渡る必要がある。当然ながら橋を駆ける兵は無防備で、城側の鉄砲隊のいい的となる。また門は橋の終わりよりも少し奥まったところにあり、門と橋の間に城壁で囲まれた方形の空間が作られている。これを枡形虎口といい、矢玉の嵐を潜り抜けて橋を渡り切った兵士たちは、門を開けるのに手こずっている間に周囲の城壁で備えていた敵兵から一方的に討たれることになるのだ。


このような最新鋭の防御機構を備えた城に対し、たった一・五倍の兵で挑むというのは土台無理な話に思える。そしてやはり、それはその通りであり、菅屋、長谷川、福富の三将は、一応は兵を動かしてできる限り損耗を抑えつつ敵兵を損じようと差配していたものの、どの門とも結局日の入りまでに破られることなく、各隊千人ほどの兵を徒に死なせたのみで引いていった。


その様子に、守将である堀秀政は拍子抜けしてしまった。


「折角懐かしき面々が寄せ手の将だったのだ。盛大にもてなしてやろうと思ったのだがな。しかしいくら官吏としての仕事が多かったとはいえ、彼奴らが何の策もなくただ突撃して来るのみとは到底思えぬ。何やら不気味じゃのう」


とはいえ考えるだけでは何も解決しない。自分は敵軍の思惑を読もうと考える一方で、昨晩と同じく吉川元長隊に夜襲を掛けさせた。相手が何を考えているのかはわからないが、繰り返し攻撃を仕掛けることで敵の意識を防御に向けさせ、多少なりとも見えぬ策を鈍らせることができる。それ以前に手ごたえのない敵と闘わされた吉川軍は未だ戦意旺盛で、吉川元春からも再度夜襲を掛けたいとの申し入れがあったのだ。


そして今宵も城門が開き、吉川軍が喚声を上げて襲ってきた。


しかし、その報告を聞いた織田信忠は驚くどころか少し口角を上げた。


「かかった」とでもいうように。


                * * *


「それぇ! 今夜も獲った首の数だけ褒美が増えるぞ! 者共奮えい!」


 そう将兵らに檄を飛ばし、自らも自軍の中ほどを駆ける吉川元長は気づいていたであろうか。橋の隅々に一見無造作に置かれているいくつものズタ袋に。また、自分が渡る橋の下の堀に忍び寄っている船影に。


 気付かなかったのだろう。そうでなければ、彼がこのような最期を迎えることはなかったに違いない。


 元長がもう少しで橋を渡り終えようという時、一瞬視界の端で無数の火花が散った。直後足元が膨れ上がり、彼は乗っている馬、供回りの将兵らと共に虚空へと投げ出された。そうして堀へと落ちていった彼が、生きて土を踏むことは二度となかった。


                * * *


 爆音を聞いた堀秀政、吉川元春は、急ぎ本丸から二の丸へと移り、三の丸を見た。


 そこには惨状が広がっていた。吉川元長が出撃した京橋口に元あった橋は跡形もなく吹き飛んでおり、代わりに別の橋が架かっている。その橋を渡って敵軍が城へと攻め寄せ、吉川元長隊の出撃のために開いていた城門をすぐに破壊し、三の丸へなだれ込んできていた。


「……やられた。昼間の攻撃こそが囮だったのだ。ひ弱な攻撃で我らを油断させ、再度の夜襲を行わせる。前日の夜襲ではやられるがままだったのも、もしや今宵の夜襲を決断させやすくするための布石だったのかもしれぬ。そして夜陰に乗じて小舟を堀に侵入させ、夜襲隊の隙をついて橋を爆破、すぐさま船に積まれていた木材を並べて臨時の橋とするか。見事にしてやられた」


 悔しさに顔を歪める秀政。元春はそれに加えて、自分の息子の運命を察し、怒りを内包した複雑な表情である。


「くっ、元長は……生きてはいまいな」


 毛利家両川の片翼、歴戦の武者である元春だ。客観的に息子の死を考え、取り乱すことはない。内心の憤怒はすぐに発散されることはなく、体内で静かな炎へと昇華される。


「残念ですが、生還は期せないでしょう。かくなる上は三の丸を放棄します。できる限り敵軍を食い止めるより他ありませぬ」


「そうじゃな。おのれ信忠、我が息子の仇め。必ずや近いうちにそっ首叩き斬ってくれるわ」


                * * *


 京橋口より城内に乱入した織田秀勝隊五千は瞬く間に三の丸を制圧した。同時に、京橋口を爆破した信忠方の琵琶湖水軍が浜町口、御花川口に移動、その援護を受けて浜町口の前田利家隊、御花川口の池田輝政隊が両門を突破した。


 織田秀勝、前田利家、池田輝政の三隊は、日中には長谷川、菅屋、福富の三隊の影に隠れ、ほとんど戦闘に参加していなかった。しかしその目的は、この夜の野戦において主力として戦うため、力を温存することであったのだ。まさしく昼間の攻城の全てが策略だったのである。


 また、信澄方の堅田衆による監視を潜り抜けて侵入した琵琶湖水軍は、信忠が黒田官兵衛を通じ、織田秀勝配下の蜂須賀正勝に編成させたものである。蜂須賀正勝は、故羽柴秀吉がまだ織田家に仕え始めたばかりの頃から秀吉と行動を共にしていた。彼の下には川並衆という土木集団があり、琵琶湖水軍はその彼らを中心にしている。彼らはそう練度が高いわけではないが、元々あった素質に加え、小舟を用いた隠密行動に特化した訓練を行っていた。信忠や官兵衛はこのような戦が起こることを予期していたのだろうか。それとも、この琵琶湖水軍を活かすためにこのような策を立てたのであろうか。


 なにはともあれ、先陣を切った織田秀勝隊、残り二つの城門を破った前田利家隊、池田輝政隊は次いで二の丸攻略に取りかかり、遅れて菅屋長頼、福富秀勝隊が三の丸に入る。長谷川秀一隊は大将を失い混乱する吉川元長隊を駆逐し、信忠本隊は万全を期してしばらく城外に留まる。


 堀秀政、吉川元春の命があったとはいえすぐには立ち直せない守備兵らはみすみす二の丸の桝形虎口をも破られてしまった。しかしその二の丸に囲まれるように存在する奥二の丸、及び最奥の本丸に籠り矢玉を浴びせ始めると信忠軍の動きは鈍り、二の丸の信忠軍と本丸、奥二の丸の信澄軍が睨みあう膠着状態のまま、夜明けを迎えた。


「駿河守殿。相談があります」


 結局身の安全のために本丸まで戻った秀政が口を開いた。


「何じゃ。信忠を討つ算段でも立ったのか」


「いいえ。そのような積極策はありませぬ。それがしにあるのは際たる消極策の一つです」


「……まさか、逃げるというのか」


「その通りでございます」


「ならんぞ! 儂はあの憎き信忠をこの手で殺してやるのだ! お主が腑抜けて城を出ると言いうのならそれでもよい。我が軍勢のみでも残り、精強で鳴らした山陰の兵の力を信忠の目に焼き付けてくれる! 今すぐ出撃じゃ!」


 激昂し立ちあがる元春を、秀政が必死に押し留める。


「短気はお止めくだされ! 今我らの兵は、一万六千程です。対する信忠軍は二万九千。数字だけを見れば防御側の人数としては十分かもしれませんが、多くの兵は戦意を喪失しながらも、四方を水に囲まれたこの城での籠城戦をしている中で逃げられずに仕方なく本丸や奥二の丸にいる者も多いのです。このままでは負けるのは必定。ならばいち早く退路を確保し、出来るだけ多い軍勢を来る決戦に備え温存することを考えるべきでございます!」


 秀政に諭され、元春も考える。


「来る決戦とな……。確かにこの城で籠城している限り、信忠を討つのは難しい。奴の首を取るためには、ここは退くべきやもしれぬ」


 冷静になった元春だが、ふと一つの疑問が湧いてきた。


「しかし堀殿。我ら敗れたとはいえ一万六千の軍勢。二の丸が抑えられているというのに、これだけの大軍を一体どのようにして運ぶのだ」


 元春が静かになったことで胸をなでおろした秀政は、一転自身ありげな表情で元春を見た。


「御心配なく。今回は敵のこそこそとした船の運用術に後れを取りましたが、本来琵琶湖は我らの海。その算段なら立っております」


                * * *


 卯の刻(午前六時)に一旦停止した戦いは、どちらが火蓋を切ったのか、午の刻(午後零時)には再開された。


 怒号が響き、矢玉が飛び交うことしばらく。何かが近づいてくる音が両軍の将兵に聞こえた。


 何事かと思い、一時的に刃を下ろす兵達。そしてその音の正体が知れた瞬間、片方の陣営の将兵が歓喜の声を上げた。


「ふ、船だ!」


「儂らの仲間の堅田衆の船だ!」


「これで生きて城を出られる!」


 そう、近づいてくる音とは無数の船団が水を切る音。それらの船は本丸の周囲、及び奥二の丸の北岸に着岸した。


 それらの場所は全て信忠方の鉄砲が届かない位置で、信澄方の将兵は次々と船に乗り込み、申の刻(午後四時)には全ての船が出港し、大津城には信忠軍が残るのみとなった。


「久太郎には逃げられたか。琵琶湖水軍はそれを妨害することは出来なかったのか?」


 その夜、大津城本丸にて各種戦後処理を執り行っていた信忠は傍らの黒田官兵衛に尋ねる。


「今の琵琶湖水軍は隠密活動と容易な破壊工作のみを専門としております。海戦となれば話にならず、瞬時に海の藻屑となってしまうのは必定でしょう」


「であるか。ならば仕方がない。しかし我らは近江から堀・吉川軍を追い出し、南の軍勢も七兵衛を北へ追いやることに成功したらしい。この調子で次は京を取り返す。ふふ、七兵衛。お主の天下もここまでじゃ」

 ついに織田信忠が登場です。信澄に対しかなり有利に戦いを進めてます。次の舞台は京都。いよいよ信忠と信澄が直接ぶつかります。……あれ、三成はいずこに……。

 拙い知識で書いているので、間違いを見つけたら容赦なくコメントしてください。もちろん感想なども受け付けております。

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