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異史・豊臣誕生伝  作者: 七色かのん
第一章 三成決起
2/11

鹿背山城・恭仁京跡の戦い(1)

登場人物紹介


《織田信澄家》

織田信澄(29)

 通称七兵衛。新生足利幕府管領。摂津大坂城主。信長の甥だが、明智光秀に味方し羽柴秀吉を殺した。光秀死後幕府を再興し実権を握る。


堀秀政(31)

 通称左衛門督、久太郎。播磨姫路城主。山崎の合戦後信澄に仕える。文武に秀で、信澄をよく補佐する。


矢部家定(?)

 通称善七郎。山崎の合戦後信澄に仕える。年齢不詳だが堀秀政と同年代。


蜂屋頼隆(50)

 和泉岸和田城主。本能寺の変直後より信澄に従う。


高山右近(32)

 摂津高槻城主。山崎の合戦後信澄に従う。キリシタン大名。


細川忠興(21)

 丹後宮津城主。隠居した父幽斎に代わり、軍勢を指揮する。


筒井定次(22)

 通称伊賀守。大和郡山城主。


《毛利家》

毛利輝元(31)

 新生足利幕府西国探題。安芸郡山城主。山崎の合戦後信澄と結び、中央に進出する。


吉川元春(54)

 通称駿河守。安芸日野山城主。毛利輝元の叔父であり、本能寺の変以後は弟小早川隆景を差し置いて毛利家中で最も影響力を及ぼすようになる。


《織田信忠家》

織田信忠(27)

 通称岐阜中将。近江安土城主。信長の嫡男で、信長死後の織田軍団をまとめる。


織田信雄(26)

 通称三介。伊勢松ヶ島城主。信長の二男。凡庸な男。


織田信包(41)

 伊勢上野城主。信長の弟。


滝川一益(59)

 通称左近将藍。伊勢長島城主。軍事を中心に多方面で活躍。


滝川雄利(41)

 通称伊賀守。織田信雄の家臣。滝川一益の養子。冷酷だが、軍事や政務、謀略に高い能力を示す。


《その他》

足利義昭(47)

 足利幕府十五代将軍。信長に京を追われた後は毛利家に身を寄せていた。織田信澄と毛利輝元が和を結んだことで幕府再興がなった。


石田三成(24)

 元羽柴秀吉の家臣。織田家を出奔し、羽柴家再興を目指して活動。


※()内の年齢は全て数え年です。

 天正十一年四月二十日。


 京、二条城。再興した足利幕府の政務の中心であるその場所に、新生足利幕府の管領、織田信澄を筆頭に、毛利輝元、蜂屋頼隆、高山右近、細川忠興ら幕府軍の主たる面々が集っていた。


 全員が腰を下ろしているのを確認すると、上座に座る者に一度頭を下げ、織田信澄は口火を切った。


「まずは西国探題殿、この度は遠路遥々京まで来て頂き感謝いたす」


 始まって早々に礼を言われてしまった若き中国の覇者は、驚きつつもにこやかな笑みを浮かべる。


「とんでもございませぬ。管領殿の頼み、何より先の年に幕府が再興して以来の危機でございます。西国探題という大命を頂いた者として、ここで出兵せねば家名が廃ります」


「かたじけない。早速ではあるが時間もあまりないため、本題に入る。今朝方、我ら足利幕府の敵である安土城の織田信忠が西進を宣言した模様。既に安土城に入城していた織田秀勝、前田利家の軍勢と共に、織田信忠軍は今日中にも瀬田川の東岸に着陣するものと思われる」


「数は如何程でしょうか」


「全軍合わせて三万から四万程との情報でございます」


 蜂屋頼隆の問いに、末席に座る堀秀政が答えた。


 堀秀政は、一年前の山崎の合戦においては羽柴軍に属していた。しかし戦後、旧知であった織田信澄に請われて彼の臣下となり、軍事、政務の両面で活躍、今では信澄の筆頭家老とでも言うべき立場にある。そのため陪臣でありながら、この軍議に参加しているのだ。同様に、毛利家を支える当主輝元の叔父、吉川元春も席を連ねている。


その元春が威勢よく口を開く。


「だが我らは六万にも届くかという大軍勢。全軍を以て一当たりすれば、たちどころに敵軍は算を乱して安土へと逃げ帰りましょうぞ」


「だがそういう訳にもいかんのだ。信忠めは、軍勢を二手に分けて京へと進軍するようだ」


「二手? もう一手は何処から攻め寄せるのでしょうか」


「今日の昼過ぎに、伊賀上野城に三万近い軍勢が入城したとの報告があった」


「伊賀だと……」


「信忠の弟、織田信雄を大将に据えていると思われるその軍勢は、伊賀から直接山城国に入り、木津川に沿って北上して京を目指すものと考えられます」


「分からないですな。岐阜中将殿は本能寺の変よりこのかた、三介殿を戦場には一切出していません。我々はそれに対して、軍才が欠けていると評判の三介殿を戦に参加させたくないのだと判断しておりましたが、何故今になって三介殿を三万の軍勢の大将になどしたのでしょう」


 高山右近が疑問を呈する。ちなみに摂津高槻城主である彼は、成り行きで信澄についたという面が大きい。


「ふん、おおかた自分達が織田の正統であると主張したいのだ。羽柴秀勝を織田へと戻させたように。恐らく信雄は飾りで、実際に大軍を指揮する将がいるのだろう」


「駿河守殿の言う通りだろう。報告によれば、織田信雄、織田信包ら織田一門の旗の他に、金ノ三団子の旗が見えたそうだ」


「金ノ三団子……滝川左近将藍殿の旗ですか。それは厄介ですね……」


 高山右近が唸る。元々信長政権下において大きな地位を誇っていた滝川左近将藍一益だが、本能寺の変後の活躍は際立っていた。本来の持ち場である関東を捨てて伊勢に逃げ帰って来た点は彼の汚点と言えるかもしれないが、本能寺の変後の混乱の中、ただでさえ織田家の影響力が浸透していなかった東国を治めるのは至難の業だ。甲斐を任されていた川尻秀隆などは国人一揆に追い詰められて自害している。明智光秀が謀反を起こし、羽柴秀吉、池田恒興が死に、丹羽長秀が離反し、柴田勝家は北陸から離れられないという情勢において、信忠は滝川一益を重用した。そして、明智光秀の籠る安土城を落とし、伊賀を筒井順慶から奪還するといったように、滝川一益もその期待に応えていた。


「滝川一益が出張って来ようが、我らの採る策は決まっておろう。織田信忠は自ら兵数の利を捨て、二手に分けた。ならば我らはその油断を突き、各個撃破するまでよ」


 強気な意見を述べる吉川元春を、信澄は窘める。


「そうしたいのは山々だが、そうもいかない事情がある。我らは背後に京を抱えている。上様だけでなく、天子様もおわす京を戦火に曝すわけにはゆかぬ。もし全軍を以て信忠か信雄、どちらかの軍勢を撃破しようとすれば、もう一方の軍勢は難なく入京してしまう。それを避けるため、こちらも兵を二手に分ける必要がある」


「しかし、総合的な兵の数で劣る我らが兵を分けて、劣勢を覆すことができるのですか」


 この軍議に出ている者では最年少である細川忠興の疑問に、信澄が答える。


「問題ない。伊賀口からの侵攻は予想外であったが、近江方面からの進軍は読める。そのために守山の合戦後、西の新たな守りとして大津城を築いた。まだ完成してはいないが、守りには十分使えるだろう。ここに、二万の兵を置いて信忠本隊の侵攻を防ぐ」


「二万とは、我ら毛利軍が率いてきた兵の数と同じですな。もしやその任は我らに任されるのでしょうか」


「いや。より確実に信忠軍の侵攻を食い止めるため、我が臣堀左衛門督に一万二千を預けて大津に向かわせる。しかし左衛門督もまだまだ若輩であるため、歴戦の将たる駿河守殿にその補佐をしてもらいたい。この任受けてもらえるだろうか」


 実際は、毛利、吉川軍を共に行動させると信澄が扱いづらいとの考えから、吉川軍のみを大津城に向かわせようとしていた。しかし、毛利との仲を取り持ち、また強大な戦力と長い戦の経験を有する吉川元春を思い通りに動かすために、少し下手に出たのだ。


「もちろんである。管領殿に頭を下げられては断る道理がない。分かり申した。この吉川元春、堀殿を補佐し、見事織田信忠を追い返してしんぜよう。して、我が殿を含む残りの方々で南の織田信雄軍を攻めるのですな」


「その通りである。堀、吉川軍を抜いても我らは三万八千の大軍勢だ。大和郡山城の筒井伊賀守殿にも出陣するよう催促している。いくら滝川一益や織田信包が補佐していると言っても、稀代の戦下手である織田信雄を大将とする軍勢に兵数で勝る我らが負けるわけがない。一捻りにした後は北へとって返し、信忠軍との決戦に臨もうぞ」


「はっ」


「では、これにて軍議を締める」


 結論が固まった所で、信澄は上座の人物へと声をかける。


「上様。仇敵織田信忠を滅ぼす策が決まりました。我らは京より打って出て、死に損ないの第六天魔王の子を父親の許へと送ってみせまする」


 武家でありながら、どこか公家然とした声が響く。


「任せたぞよ。余を京から追い出した憎き信長の子、信忠に、天罰を下して参れ」


「はっ!」


 十五代将軍足利義昭の言葉を受け、幕臣となった諸将は西と南へ向かう。そして翌日には、織田両軍による七ヶ月振りの大規模な合戦の火蓋が切られるのだった。


                * * *


 二十一日、巳の刻(午前十時)。


 織田信澄率いる幕府軍三万八千は、南山城の木津川北岸まで達した。対岸の小高い山には、織田木瓜の旗が見受けられる。


「あれは鹿背山城か。松永久秀が大和を支配していた頃には北の守りとして使われていたようだが、数万の軍勢が籠り、また数万の軍勢の攻めに耐えるには規模が小さすぎる。一目見ても、あの城に信雄軍の全軍が入っているとは思えない。何か裏があるか」


 しばらく考える信澄だが、芳しい答えは浮かばない。


「強いて上げるとすれば、まだ東の方に留まっているのだろうか。まあよい。敵軍が我らに劣ることは分かっている。一当たりして様子を見よう」


 信澄は家臣である矢部善七郎家定に五千の兵を与えると、四千の兵を率いる蜂屋頼隆ともども先鋒に任じ、鹿背山城を攻めさせた。鹿背山城を攻撃するには木津川を渡る必要があるが、鹿背山城から矢玉が届かない場所を選んで渡河させたので、損害はなかった。


 しかし鹿背山城は中世に築かれた城としては優秀な縄張りを持つ。何人籠っているかは分からないが、たった九千程度の兵で落とせるとは思っていない。毛利輝元に木津川北岸に留まるよう求め、自軍と高山、細川隊は鹿背山城に攻め寄せた。


 先発した矢部、蜂屋隊は攻めあぐねていた。数万規模の戦には対応していない城ではあるが、堅城であることは間違いない。矢部隊などは大手道から突入しようとした所を散々に叩かれて撤退する始末であった。


鹿背山城は三つの城群に分かれていて、縦長の各城群の間は窪地になっている。西側と中央の城群の間に大手道が存在するのだが、当然両側の郭からの射撃を受ける。さらに西側の城群の西、東側の城群の東には縦堀が何本も掘られていて容易には登れず、敵の攻城する道を絞っている。


 三つある城群を同時に攻めるのは難しい。そのため信澄は、まず西側と中央の城群を攻略することにした。


 矢部隊の兵力を増強し、蜂屋隊と共に西側城群を南側から攻めさせる。同時に、高山、細川隊と信澄本隊で中央の城群を同じく南から攻撃する。


 高低差と柵に手間取ったが、二刻程して敵兵を北の郭へと追いやった。その北の郭も攻めようという算段になった時に、一人の伝令が本陣に駆け込んできた。


「東より織田信雄軍が現れ、毛利隊に攻めかかりました! 数は一万四千程、毛利隊は劣勢に立たされております!」


「何っ。そうか。まだ東におったか……。やむをえまい。一旦兵を引き、毛利隊を助ける。お主は蜂屋殿と善七郎に鹿背山城を遠巻きに囲んでおくよう伝えよ」


 信澄本隊、高山、細川隊は鹿背山城を蜂屋、矢部隊に任せ、北へと向かった。堀を埋めたり柵を破壊したり、奪った郭の防御機構を壊すのも忘れなかった。


 信澄が北に馬を進めると、すぐに毛利隊と戦う軍勢が目に映った。織田木瓜を掲げたその軍勢は、確実に毛利隊を圧していた。


 一旦木津川の南岸で足を止め、後続の徒歩の兵が追い付くのを待つ。粗方揃ったのを確認すると、各隊の鉄砲隊を集め、北岸に向けて一斉に撃たせた。


 轟音が鳴り響く。飛び散る水しぶきの向こうで、敵軍の兵士が何人も倒れた。


「今じゃ。騎馬隊よ、川を渡れ!」


 織田軍が混乱している隙に体力の残っている騎馬で一気に押し潰そうとする信澄だが、そう簡単にはいかなかった。


 誰が指揮しているのか、信雄軍は毛利軍が反撃出来ない程度に当たりつつ兵を引かせ、川岸には竹束や案山子を構えて多くの銃弾を防いだのだ。そして信雄軍の鉄砲隊が火を噴いた。


 信澄軍ほど統制の取れた射撃ではなかった。しかし、渡河中で身動きの取れない馬や将兵を何人も川底に叩きつけるには十分だった。


「怯むな! 渡れ!」


 信澄は兵を叱咤する。対岸では毛利隊も息を吹き返しつつある。力押しで押し切れるとの判断だった。


 だが敵将もそれは分かっていた。兵を東に戻しながらもう一度斉射を行うと、攻撃を完全に止めて風のように去って行った。おかげで、信澄が渡った頃には案山子と死体が散乱するのみで敵は一兵たりともいなかった。


 毛利輝元が信澄に馬を寄せる。


「申し訳ありませぬ。周囲を警戒してはいたのですが、僅かな隙を突かれて少数の兵に乱入された直後に大軍に攻め寄せられて、満足に反撃出来ませんでした」


「よい。我らも一杯食わされた。恐らく、鹿背山城に籠っているのは織田信包だろう。奴の旗指物を見たと言う者がいた」


「では、我らを攻撃したのは信雄本隊でしょうか。しかしあの者にこれ程の器量があるとは思えませぬ」


「……奴の家臣に、滝川雄利という者がおる。信雄には勿体ない程の切れ者だ。奴は滝川一益に能力を認められて養子になったと聞く。やはり寡兵の運用に長けているのだろう」


「なるほど。その滝川雄利の指揮下にあったためにあれほどの動きを。しかし信雄は家臣が目立つ事を容認したのでしょうか。解せませぬな」


「分からぬ。何にせよ、信雄軍は思っていた以上に手強いということだ」


 そこに、一人の斥候が走ってきた。


「ここより東に一里程行った所にある恭仁京跡に、織田信雄軍が野営しておりました」


 その知らせを聞くと、信澄は笑った。


「でかしたぞ。純粋な兵力において我らの方が遥かに勝っているのは自明の理。明日の朝にはここを発ち、信雄本隊を叩く。厄介な鹿背山城も後詰がなければ怖くはあるまい」


                * * *


 亥の刻(午後十時)。


 山城南東部、鹿背山城より東にある恭仁京跡の中央にある山城国分寺に、織田信雄は泊まっていた。


 恭仁京とは、奈良時代、聖武天皇の治世の時に、三年間だけ都が置かれた場所である。七四〇年の藤原広嗣の乱の後、戦乱を恐れた聖武天皇が遷都を命じた。しかし都としては完成しないまま七四三年には造営が中止され、聖武天皇は他の地へと移った。そして都の跡地は国分寺として再利用されたという経緯を持つ。


 その旧都の中心で酒を呷る彼の許を、一人の武者が訪れた。


「夜分遅くに申し訳ありませぬ」


「何じゃ伊賀守。敵兵でも現れたか」


「はい。しかし多勢ではありませぬ。偵察のための部隊だったようです。我々の宿場が見つかってしまった以上、敵軍は明日にでも攻め寄せて来るでしょう」


「ふん。そんなことは分かっておったのだろう。前に聞いたぞ。だが、お前に任せておけば万事支障ないのであろう」


「はっ。明日の所は。殿には悠然と構えて頂くだけで結構です。ただし酒は厳禁です」


「分かっておるわ。頼りにしておるぞ、伊賀守。お主がいなければ織田家は今頃七兵衛めに食われておったかもしれぬ。全く、玄蕃允も長門守も田宮丸も信用しておったのに。頼りになるのはお主だけじゃ」


「死んだ者の事など考えなされますな。明日に備えてよく睡眠を取っておいて下さい」


「うむ。お主もよく休め」


「勿体なきお言葉。では失礼いたします。よい眠りを」


 そして滝川雄利は織田信雄の宿所を去った。


 信雄は知らない。織田信雄の三家老である津川玄蕃允義冬、岡田長門守重孝、浅井田宮丸長時の三人は、本当は信澄に内通などしていない事を。そしてその三人に内通の罪を着せ、織田信雄を滝川雄利の言いなりになるように仕向けたのは、他ならぬ兄、織田信忠であるという事を。


いきなり石田三成がいません。羽柴家再興には準備が必要ということでしょう。

拙い知識で書いているので、間違いを見つけたら容赦なくコメントしてください。もちろん感想なども受け付けております。

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