さりとてはの者、高ころびに、あおのけに……
※日向守は明智光秀、岐阜中将は織田信忠です。次回以降この欄は登場人物紹介とします。
天正十年六月二日。
その日、当時天下統一に最も近づいていた男、織田信長は、未だ従わぬ毛利家を討伐するべく中国地方に進軍することを決め、京都に滞在していた。畿内とその近辺は粗方彼の支配下に置かれ、残る敵は毛利、上杉といった地方の大名のみ。だから、たった百人しか自分の周りにいなかったとしても、彼は安心して休息を取っていたのだろう。
しかし、その油断こそが彼の命取りとなった。
主君に先んじて西へと向かうはずだった重臣明智光秀の軍勢が、闇に紛れて密かに京都に入り、信長の泊まる本能寺を包囲、攻撃したのだ。
一万を超える軍勢に対し、非戦闘員を含めても百人しかいない信長勢が勝てる道理はなかった。瞬く間に寺には火がかけられて炎上、織田信長は波乱に満ちた生涯を呆気なく終わらせた。
俗に、本能寺の変と呼ばれる騒動である。
(だが、これで殿はさらに飛躍できる。信長様にも、日向守殿にも、感謝せねばな)
* * *
この一大事は早馬に乗って、すぐに各方面に散らばる織田家臣団の元へと届けられた。
六月九日、朝早くに姫路城を発ち東へと駆ける何万人もの兵士の集団があった。徒歩の者も騎乗する者も混ざったこの集団だが、一つ全ての兵に共通することがあった。
皆汗をかき、息を切らしているにも関わらず、表情が晴れやかで、精気に満ちているのだ。
『彼』も走っている最中、笑みを隠しきれないでいた。
(当然のことだ。殿は機敏な動きで信長様の仇を討つためにも、一軍の将から若い雑兵に至るまで軍勢を構成する全ての者に金品や兵糧を分け与えたのだ。重要な拠点であるはずの姫路城の蔵を空にしてな。この厚意に将兵が答えぬはずはない。そして、民のことを考える心優しき殿が、天下を獲れぬはずがない!)
* * *
六月十三日、京都の南西にある山崎の地で、戦いが勃発した。
京都を背にして布陣するは、織田信長を殺し、京の周辺を平定した明智光秀軍。一方京都の方を向いて布陣するのは、本能寺の変の知らせを受けるや否や即座に相対していた毛利軍と和睦し、たった七日間で京都目前まで辿りついた羽柴秀吉率いる中国方面軍である。
兵の数は明智軍一万五千に対して羽柴軍三万。二倍の差がある。勝敗は戦う前から見えていた……はずだった。
序盤は案の定羽柴方優勢で進んでいた。円明寺川という川を挟んで初め対峙していた両軍だったが、開戦後一刻も経たないうちに、羽柴軍の前方に陣取っていた軍勢は全て対岸へと渡り切っていた。
だが、それこそが明智光秀の策だったのだ。
有利に戦いが進んでいることに喜びを隠しきれず、床几から立ち上がったり座り直したりを繰り返している秀吉の所に、一つの報告が届いた。
織田信孝、丹羽長秀軍着陣の知らせだ。
織田信孝は信長の三男で、四国方面軍の長であったため本能寺の変が起こった時大坂にいた。丹羽長秀は織田家の重臣の一人で、信孝の補佐の役目を持ち、信孝と共に大坂にいた。
秀吉は喜んだ。開戦前、秀吉は両名に対し、光秀打倒のために合流してくれるように頼んでいた。その時は本能寺の変後の軍の混乱がまだ収まっていないとのことで断られたのだが、遅れてでも駆けつけてきてくれたと思ったのだ。
しかしそれは全くの間違いであった。
秀吉本隊の真後ろまで来た丹羽軍は、何の前触れもなく鉄砲隊を構えさせ、一斉射撃をさせたのだ。
味方に攻撃されて混乱する秀吉本隊に、丹羽軍、そして後続の織田軍が襲いかかる。反抗の時も与えられずに秀吉本隊は壊滅、秀吉も敵軍の大将に殺された。
その頃、前線では、南方から新たな軍勢が現れて羽柴勢に攻撃を加えていた。
新たな軍勢とは、大和を領する筒井順慶のものであった。
筒井順慶は明智光秀に加勢を求められていたが、すぐに動いてはいなかった。だが最終的にこうして戦場に現れ、羽柴軍の勢いを食い止めた。
大将を失い、前後から挟まれた羽柴軍はいとも簡単に瓦解し、方々へと散っていった。
必死の形相で戦場から逃げる『彼』は、心の中で叫んだ。
(何故だ。何故こんなことになった! こんなはずではなかった。殿が謀反人を圧倒的な力で踏み潰して入京するはずだった! なのにどうして……。おのれ、明智光秀め!)
* * *
山崎の戦いで、織田の旗を掲げていたのは、実際は織田信孝ではなかった。
真に羽柴本隊奇襲の指揮を執っていたのは、四国方面軍における信孝の与力の一人、津田信澄であった。
津田信澄は織田信長の弟信勝の遺児である。故に信長の甥にあたるのだが、父信勝が信長に二度も反逆して殺されたという経緯から、織田の名字を名乗らせてもらえなかった。しかし、信長は彼の才能を見抜いていたため、重臣であった明智光秀の娘を嫁がせていた。
それが信澄の運命を動かすことになる。
本能寺の変直後、真っ先にその情報が伝わった大坂は、今にも明智軍が攻めてくるのではないかとてんやわんやの大騒ぎであった。その混乱に収拾をつけられなかった信孝は、明智光秀の娘婿である信澄を味方兵全体の共通の敵とすることで一体感を得させ、軍勢を掌握し直そうと思っていた。もし迅速に兵を整えることができれば、他の方面軍に先んじて明智光秀を討つことも夢ではない。そうすれば、信孝は織田家の後継者の最有力候補として名乗りをあげられる。
だが、信澄は信孝の動向をすでに確認していた。秘密裏に精兵を集めて自分の屋敷を密かに固めておくと、門を破って突入してきた信孝軍を万全の態勢で迎え打った。
信孝は信澄に気づかれないように百人程度の少数の兵を引き連れていた。自ら兵を率いて攻めたのは、反逆者信澄を殺した栄誉と将兵の信を得るためだった。だがそれが、信孝の命取りとなった。
屋敷内に侵入を果たした信孝は、大した抵抗もないままに屋敷の奥まで進んだ。信澄の寝所があると思われる部屋へと入った時、信孝は自分が罠にかけられたと知った。
周囲の部屋からなだれ込む信澄方の兵。自分達が奇襲している側だと思い込んでいた兵士達は次々と殺されていき、最後に信孝が、信澄自身の手で斬られた。
夜が明けて、信孝死亡の報が全軍に伝わった。それによって更なる混乱が起こる可能性もあった。しかし、信澄が諸将の前で、今後は織田家の後継者として織田信澄と名乗ること、明智光秀と手を結び、天下統一を目指すという己の存念を明かした結果、四国方面軍の副将とでも言うべき立場にあった丹羽長秀が信澄に従う事を宣言した。信澄は明智光秀と手を組むとはっきり言っていたため元の主である信長を裏切る事になってしまうが、長秀は大坂に集った大兵をまとめられるのは信澄だけと判断し、彼を支えるときめたのだ。そして他の将も次々と信澄に従うと決めた。
こうして四国方面軍の全軍を掌握した信澄は、織田信孝の旗を掲げて秀吉を騙して近づいて攻撃し、秀吉の首を奪ったのだ。
怒りの感情が『彼』の身体中を駆け巡り、復讐心へと変わる。
(津田信澄……許さんぞ。殿を踏み台にしてのし上がった罪、必ず晴らしてくれる!)
* * *
一方巨星信長を失った織田家だが、ある人物が京から岐阜へと逃げおおせる事が出来たために、彼を中心とすることで瓦解しかけた織田家は一つになり、明智軍の美濃、伊勢への進出を食い止めることが出来た。
その新たに織田家の当主となった人物とは、織田信長嫡男、織田信忠である。
彼は本能寺の変の際、京都の妙覚寺に宿泊していた。父信長の手勢ほど少なくはなかったが、五百人程度の小勢であった。
兵士達の喚声で起きた信忠は、本能寺の方の空が夜にも関わらず明るくなっていることに気づいた。本能寺から立ち上る煙を目にし、見張りの報告を聞く事で十中八九父信長が死んでしまったと悟った信忠は直ちに逃走を決意した。
妙覚寺も包囲されかけていた。しかし、信長殺害を最優先目標としていた光秀はたった百人しかいない本能寺に一万人以上の兵を差し向けていた。おかげで妙覚寺の包囲は不十分であった。
信忠とその手勢は一塊になって包囲の最も薄い部分へと突撃した。たくさんの兵士を失いつつも信忠は京を脱出し、中山道を東にかけ、命からがら岐阜城へとたどり着いた。
信忠はすぐに打倒光秀を宣言した。尾張、美濃、伊勢の領国の安定化に努めると共に軍備を再編し策を練り、本能寺の変より一ヶ月後の七月十四日、明智光秀に占領された安土城を奪還すべく近江侵攻の触れを出した。
『彼』は一つの希望を見出す。
(岐阜中将殿か……。信長様の存在が大きすぎて目立たなかったが、案外器量のあるかたやもしれぬ。岐阜中将の下でなら殿の仇を討てるだろう)
* * *
三方向から進軍する信忠方。その中には、亡き羽柴秀吉の養子秀勝を大将とし、秀吉の異母弟秀長と秀吉の軍師だった黒田官兵衛が補佐する形の羽柴軍も加わっていた。しかし、東海道を通って伊勢から入る信忠軍三万、北国街道を南下し越前から入る、柴田勝家率いる北陸方面軍二万に比べて、中山道を西に行く羽柴勢を中心とする軍勢はたった五千しかいなかった。
その羽柴軍は、佐和山城から進撃してきた明智秀満・斎藤利三軍八千と相対した。兵の数では劣勢である羽柴軍だが、軍師官兵衛の策により明智秀満の陣への夜襲に成功した。だが歴戦の明智軍は斎藤利三がすぐに兵を動かすことで態勢を立て直し、結果双方が正面からぶつかることとなった。初手で損失を与えていた明智秀満勢を集中的に攻撃することで壊走させ、それに流されるように斎藤勢が撤退するという形で何とか勝利を手にした羽柴勢。しかし、その代償は大きかった。激戦の最中、この戦いで羽柴軍の実質的な指揮を執っていた羽柴秀長が、流れ弾に当たりその命を散らしたのだった。享年四十三。秀吉を陰ながら支えて来た男の最期である。
その頃、伊勢から近江入りした信忠本隊は安土城の南にある日野城を囲んだ。四千の兵しか詰めていない日野城は風前の灯、とはいえこれ以上兵力差を広げてはいけないと一万の兵を率いて安土を発とうとした明智光秀に、襲いかかる兵団があった。安土城大手門前で起こる戦闘。その間に襲いかかってきた軍勢は城の内部へと入りこんでいく。
混乱する明智軍。だが悪夢は終わらなかった。兵の半数で日野城を包囲したまま進軍してきた信忠軍が安土城を囲み、攻城を始めた。
明智光秀に逃げ場はなかった。戦闘開始から一刻後、どちらが点けたかは分からないが城のあちこちに火が点き、すぐに燃え上がり、かつて威容を誇っていた安土城は跡かたもなく焼け落ちてしまったのだった。
こうして明智軍は崩壊、信忠はほとんど己の軍勢を損せずして湖南を制することに成功した。
また、越前から南下した柴田軍は湖北の山岳地帯で明智方の丹羽長秀軍に阻まれていた。
二万対八千と兵力は柴田軍の方が上だ。しかし守りに徹する丹羽軍に対し柴田勝家は攻めあぐねていた。しかし十八日、羽柴軍が明智軍を破ったことを知った柴田勝家は進軍を命じた。それまでの睨みあいが嘘であるかのように順調に砦を落としていく柴田軍。だが、後方を羽柴軍に押さえられていて窮地に陥っている丹羽長秀は、劣勢なりの策を立てていた。
柴田軍の中でも、先鋒を務める佐久間盛政の攻勢は目を見張るものがあった。破竹の勢いで南下していく佐久間隊。しかしそれ故に、他の柴田方の部隊に比べ突出してしまっていた。
丹羽軍の最後の砦、賤ヶ岳の砦を佐久間盛政が攻撃した所で、丹羽長秀はその隙をついた。前線の砦から引かせ、山間に潜ませていた将兵に佐久間隊の背後を襲わせる。同時に、自ら城門を開き、羽柴軍に負けて北へと逃げていた明智・斎藤隊を吸収し兵力を増強した軍勢を突撃させる。初めて己が敵中に孤立していた事を悟った盛政だったが、時既に遅し。柴田勝家が異変を知って助勢を送り込んだ時にはもう、賤ヶ岳の地には佐久間隊の旗が散乱し、抜けがらになった砦には、佐久間盛政の首が高々と掲げられていた。
局所的に勝利を収めたとはいえ、北の柴田、南の羽柴との戦力差は如何ともし難い。賤ヶ岳で佐久間盛政を討ち取った長秀はすぐに撤退、琵琶湖沿岸の山梨子という地にまで引き、待機させておいた船団に乗り込み、戦場を後にした。
この一連の戦いで織田信忠方の損害はほとんどなかった。佐久間勢、羽柴勢が大将を失うほどの大打撃を被っていることを除けば。
戦が終わり、『彼』は呆然としていた。
(我らが羽柴軍をすり潰しての圧勝……。岐阜中将殿、よもや、秀長様の犠牲をも計算に入れていたのか……?)
* * *
一方、この戦役に参加しなかった織田信澄。彼は山崎の戦いの後、西に向かって姫路城と生野銀山を支配下においていた。明智光秀の勝利を受けた毛利軍が姫路、生野を自領に組み入れようという動きを見せていたので、先んじて兵を送り込んでおく必要があったのだ。
毛利軍が遅れて姫路に着いた時にはあわや合戦ともなったが、その後両軍は和睦した。織田信澄としてはここで中国百二十万石の太守である毛利家と事を構えるのは避けたかった。一見益がないようにも見える毛利家だが、かの家には『天下を望むべからず』という先代当主元就の遺言があった。そして当時毛利家は京を追われた室町幕府十五代将軍、足利義昭を匿っていて、明智光秀は元々室町幕府に対する忠誠心が強かった。よって、この和睦後、足利義昭が京へと戻り、室町幕府を再興することが決まった。
毛利輝元、足利義昭との会談のため安芸を訪れていた織田信澄が姫路城へと戻ってきたのは七月三日だった。二日で準備を整え、五日には一万の将兵を率いて東上、明石で一晩を明かし、六日に兵庫城に達する予定だったが、兵庫に着く寸前、信澄の元に悪報がもたらされた。
兵庫城主、池田恒興の謀反である。
池田恒興は故織田信長の乳兄弟で、織田家中でも高い地位にあり、摂津を任されていた。そのため彼の動向には信澄も光秀も注意していたが、山崎の合戦後他の大名と同じように明智光秀に従っていたので、少し警戒を緩めていた。
しかし実際は、表向き明智光秀に臣従したように見せかけながら、裏では叛乱の時機を窺っていたのだろう。この謀反は、信澄を近江での戦いに参戦させないようにするには最適であった。
放置して進めば背後から襲われる危険がある。手薄な姫路等を攻められるかもしれない。信澄には兵庫城を攻めるより他なかった。
池田勢三千は強かった。最終的に落城させ、池田恒興とその嫡男元助を討ち取ったものの、信澄は十日余りを兵庫攻めに費やした。結局京へと辿りついたのは十九日。近江での戦いには間に合わなかった。
『彼』は思索を巡らす。
(信澄め、殿を殺めた報いだ。だが毛利家が明智についただと……我々との和睦はどうなったのか……殿のために……儂が何とかしなくては……)
* * *
八月十五日。他の者にとってはさして重要ではなかったかもしれない。当人達も大きな効果は期待していなかった。しかし、『彼』にとっては重大な事件が発生した。
先の戦いの功績により改めて義父を継いで長浜城主となった羽柴秀勝が、信忠の従姉妹、茶々を娶った。
それだけなら良かった。彼にとって許し難かったことは、秀勝が婚姻に合わせて姓を織田へと戻したことであった。理由は明白。朝廷を害した悪と亡き織田信長をみなし、その信長を討った明智光秀を義と称え、その光秀を支持し助けとなった自分こそが織田を継ぐに相応しいと公言する織田信澄に対抗し、我々こそが織田家であり、信澄は織田の正当な後継者ではないと断ずるための信忠の策である。
『彼』は秀勝が羽柴を継いだ事をあまり快く思っていなかった。それは秀勝が信長の四男であり、秀吉との血の繋がりが全くないからだ。それでも羽柴の後継者として振る舞うなら、羽柴秀勝に従っても良いとは考えていた。しかし、秀勝が茶々を娶り織田姓への復帰を宣言した時、先の主君の残滓として辛うじて存在していた『彼』の忠誠心は崩れ去った。そしてその夜、織田家中が宴に沸く中、少数の信頼できる者にのみ自らの意思を伝え、羽柴家を出奔した。
(織田信忠も結局自家の繁栄しか考えていない。殿を失った羽柴家など必要ないと考えておる。勿論殿を殺めた織田信澄も駄目だ。このままでは殿の功績は地に埋もれる。儂の手で殿の家系を再興し、天下に覇を唱え、その祖である殿の名を天下にあまねく知らしめるのだ)
織田秀勝と茶々の婚姻後の中央情勢は比較的穏やかであった。一度近江は守山の地で信忠方の森長可、信澄方の明智秀満が命を落とす大規模な戦が起きたが、織田信澄が瀬田川の東岸から完全に手を引いたのみで、結局ほぼ痛み分けで終わった。
守山の戦いと時を同じくして、信忠方の滝川一益が伊賀に攻め行った。本能寺の変以前、伊賀は織田信雄の領地だった。しかし変後の混乱の中で、筒井順慶が配下の将を上野城に派遣し治めていた。しかし、本能寺以前の織田家による伊賀攻めで大きく弱っていたとはいえ元々独立志向の強い伊賀を、筒井順慶は上手く治められないでいた。その隙を滝川一益は突いた。
上野城からの救援要請に応えた筒井軍と滝川軍は伊賀の山野で激戦を繰り広げた。伊賀まで連れてきた兵の数は互角。だが滝川一益に靡いた伊賀衆が加勢、地理をよく知る彼らによって翻弄された筒井軍は追い詰められる。そして、当主筒井順慶、重臣松倉右近重信の両名を失い、筒井軍はほうほうの体で大和へと逃げ帰った。
一見着実に西進しているようにみえる織田信忠。しかし、再興した足利幕府を抱える織田信澄は各地の城の補強や新たな築城を行って防備を固めた。やや優勢とはいえ大きな戦力差があるわけでもない信忠は攻めかねた。
年が明け、春になるまでそんな膠着状態は続き、畿内にはつかの間の平穏が訪れていた。
だが平和は一時的なものに過ぎない。四月二十日、機は熟した。織田信忠は徳川家康に東の守りを任せ、北陸の柴田勝家も含めた全軍に西進の命を発する。守る信澄も、新生足利幕府の下中国探題に任じられていた毛利輝元を呼び寄せる。合戦の足音はすぐそばまで迫っていた。
そして、『彼』も動き始めた。
(ついにこの時が来た。家中の争いにかまける織田両家に踏みにじられた殿の血は復活する。殿を貶した者全てを滅ぼし、天下を取る。殿の無念を晴らすのだ!)
……『彼』の名は石田三成。後に戦国一の忠臣として、戦国最後の軍師として、そして豊臣家誕生の立役者として、歴史にその名を刻む人物である。
歴史小説、架空戦記、どう呼ぶのが正しいのでしょうか。個人的には歴史シミュレーション小説と呼ぶことにしてます。いわゆるif物です。拙い知識で書いているので、間違いを見つけたら容赦なくコメントしてください。もちろん感想なども受け付けております。