約束の地へ
「おおーっと、足が滑ったぁっ!」
大我の右足が空を蹴る。次いで左足も宙を舞い、天と地が逆転する。ほんの一時、彼の身体は重力のくびきから解き放たれるも、すぐさま重力の支配下に置かれる。
彼が目指す先は約束の地。緩やかで、かつ柔らかな双つの丘。
そこに到った者は慈愛に包まれ、この上無い安らぎを得るであろう。
だが……、
「……ゼッペキだ」
大我がダイブした先は、前から見ても横から見ても傾斜角九十度にしか見えず、いかなるフリークライミングのプロフェッショナルといえども掴まる場所が無いため絶望に打ちひしがれるであろう絶壁だった。
その絶壁の持ち主、依美奈は仰向けに転倒し、ベージュのサマーセーターの胸の上に大我の顔が乗っかり、押し倒されたような格好になっている。栗色のポニーテールが床に着いて僅かに乱れる。緋色のスカートはかろうじて捲れずにすんだ。
「何すんのよ、バカーッ!」
突然押し倒され、胸に顔を埋められ、あまつさえ不満を洩らされた事に依美奈は怒りを覚え右の平手をぶちかます。
「おっと!」
その攻撃を軽やかに仰け反ってかわすと、大我は依美奈の上から起き上がる。
「なんで避けんのよ! 大体、廊下でいきなり押し倒すってどういうつもりよ!」
仰向けの姿勢で上半身のみ起こして床に座り、腰をおさえた依美奈は、踏ん反り返った大我を睨みつける。
「それがお約束というものだからだ」
「何がお約束よ!」
「よく見ろ」
言って大我は足下の床を指差す。依美奈はそこにバナナの皮を見つけた。
「まさか……まさか……」
「そう、俺様はバナナの皮を踏んで転んだ。そして宙を舞った俺の顔の落下地点がたまたま、お前の胸だっただけの話だ。だが惜しい……」
「な、なによ」
「お前にもう少し、いや、あと数倍胸があれば、この手をワキワキさせることができたというのに……まさに『嘆きの壁』!」
大我は拳を握り締め悔しげに呟く。
『残念っス! マスター!』
大我の背後に数人の男たち。彼らは『お約束研究部』の一員だ。大我はその部長にして『プロミス・マスター』の称号を持つ。大我が遭遇した、というか自作自演した、お約束が不完全な形で終わったことを彼らはしきりに嘆いている。
「誰が『嘆きの壁』よ! ふざけないで! 大体、あんたが目の前に現れた時にこんなの落ちていなかったわよ! あんたが転んだ振りした後に自分で落としたんでしょ!」
「そんなことはない。全ては偶然という名の必然であるところのお約束というやつだ」
「だったら、叩かれるのもお約束でしょ!」
「それもない。俺はお約束を体得し超越する『プロミス・マスター』、お約束はお見通しだ」
「はあ……相変わらず痛いヤツね……どうしてこんな風になっちゃったのかしら」
床に座ったまま依美奈は大我に軽蔑の目を向ける。
その姿を見た大我にある考えが浮かぶ。
「むっ。諸君、窓を開けろ! お約束があるぞ!」
研究部員たちは号令に応え窓を開ける。そよ風一つ無く、変化は見られない。
「突風だあっ!」
大我は一叫するや、懐からうちわを取り出し、依美奈のスカートに向けて扇ぐ。
「ちょっ! 何すんのよ!」
あわててスカートの裾を押さえる依美奈。
「床に尻餅ついた女子……偶然、窓から吹く突風にスカートが捲れ、隠された聖域が露わになる……これぞっ! お・約・束!」
「自分でやっといてお約束もクソもあるかーっ!」
猛烈な勢いで依美奈は立ち上がり、大我目掛けてパンチの連打を浴びせる。だが、その全てを大我は避けてみせる。
「無駄だ! お前が空手の有段者といえど、俺は『プロミス・マスター』! お約束は通じぬ! つーか俺も空手やってんの知ってるだろう!」
「ほざけぇーっ!」
依美奈は一瞬、大我に背を向ける。左の回し蹴りを大我の腹を目掛けて打ち出す!
「無駄だっ……むっ?」
視界に映った何かに大我は気を取られる。
「それは……くまパ……ぐわっ!」
チラリと見えた何かに油断した大我の腹に回し蹴りがモロに入る! 腹を押さえて前かがみになった大我に依美奈はさらに追い討ちをかける!
「赤いリボっ……ぐふっ!」
次に繰り出したのは右のかかと落とし。これまた何かに気を取られた大我は無防備になり、脳天に強烈な一撃をもらった。
『マスター!』
「む、無念……お約束に敗れるとは……俺もまだまだ修行が足りん……がくっ」
お約束的に大我は崩れ落ちた。
廊下に這い蹲る大我を依美奈は冷たく見下ろす。
「何よ、お約束、お約束って……ただのエロじゃない! 中学の時には話しかけてもくれなくなったくせに、高校に入ったと思ったら、変な宗教にのめり込んじゃって!」
「それは違う……」
よろめきながら立ち上がる大我。依美奈を強く見返す。
「お約束は宗教などではない……それ以上のものだ。……世界は全て、お約束で成り立っている。……例えばお金は、自分が受け取ったのと同じ様に他人も受け取ってくれると信じているからこそ成り立っている。法律も、違反すれば罰せられると信じているからこそ守られている。全ての人間関係は信頼の下に成り立っている。……家族も友も恋人も。……信頼とはつまりお約束。『こうなったら、ああなるよね』という予測と願望。お約束が成就した時、人は喜びに満たされる。お約束無き世界に人類の安寧など無いっ! すなわちィーッ! お約束とは人類普遍の希望なりィィィィッ!」
『うおおおーっ!』
お約束研究部員たちと騒ぎを聞きつけ集まってきたその他大勢の喚声が轟く。
高らかに『お約束宣言』を放ち雄雄しく立つ大我。しかし……、
「バッカみたい」
依美奈の瞳は更に冷たく大我を射抜く。その視線に大我は少しよろめく。
「偉そうなこと言ってても、やってることはセクハラ行為ばかりじゃない。こんなんだったら一言も会話の無かった中学の時の方がマシだったわ……」
そこで一旦、言葉を切り、
「もう、わたしに近づかないで」
言い放つと、大我に背を向けて歩き出した。
「待て!」
「………………サヨナラ」
一瞬だけ振り向いた依美奈の瞳は涙で潤んでいた。
悲しみを押し殺そうとするようなその表情は大我の心に暗黒の中学時代を思い出させた。幼馴染として過ごしてきた楽しい思い出の数々を台無しにしたあの忌まわしき三年間を。依美奈はずっとあんな顔ではなかったか?
「待ってくれ!」
大我の叫びにも依美奈の足は止まらない。ギャラリーたちが道を空ける。
大我の顔に焦りの色が見え出す。居ても立ってもいられず大我は再び叫ぶ。
「俺が……俺が、悪かった! もう中学の頃には戻りたくない!」
依美奈の足が止まる。
「俺は、俺は……やり直したかったんだ! もう一度! お前と!」
依美奈は頭だけ振り向かせる。
「じゃあ……、どうしてこんなことしたの……」
「中学に上がった時、女の子と仲良くしていると、他の男たちにバカにされたんだ……。俺もバカだったから……いや、今でもバカだけど……お前と仲良くしているのがカッコ悪く思えて……でも、お前の悲しそうな顔を見続けて、お前を無視してすっごく後悔した。だから高校では、やり直そうと思ったんだ。でも、どうやって接したらいいのか分からなくって……昔の、子どもの頃を思い出して、お前とじゃれあってた時のようにすればいいんじゃないかなって……俺、バカだからお前がそこまで嫌がっていることに気づかなくって……もう二度とお約束なんて言わないから、頼むっ! 俺と仲直りしてくれっ! この通りだっ!」
言い終えると衆人監視の中、大我は深々と土下座してみせた。
「止めてよ、そんなお約束。……恥ずかしいじゃない」
戸惑いながらも依美奈は大我の元へ歩み寄ると、額を床につけたままの大我を助け起こす。
そして大我の手を取り、
「もう、エッチなことしない?」
「ああ」
「普通に話しかけてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、仲直りのお約束」
「いいのか?」
「わたしが言う分にはいいでしょ?」
「そうだな」
「「仲直りしましょ、指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!」」
二人は照れくさそうに微笑を浮かべて、互いをチラリと盗み見ようとする。視線が会う度に頬を染めて顔をそむけ、また見つめ合った。
パチパチパチ……。
ギャラリーたちから拍手と歓声が巻き起こる。
お互いの手を握りしめたまま、二人は照れ笑いでその声援に応えた。
「これもお約束の展開だね」
誰かがぼそっと洩らした呟きは祝福の声にかき消された。
お約束とは何かを考えた作品




