好いとうと
平日の昼下がり。
ドアに取り付けてある鈴が鳴り、客の来たことを私に教える。
「いらっしゃい……ませ……」
その客は、布地のケースに入れたラケットを大事そうに抱えていた。
「すみません。ガットの張り替えをお願いできますか?」
「は、い……」
上品な女性だった。
遠い昔の記憶と重なった。
「あの……」
張っていたラケットに手を掛けたまま、私は呆けてしまっていた。
「し、失礼しました。張り替えですね。お渡しのご希望日は?」
「来週、受け取れますか?」
「はい、よかですよ」
「ガットの種類やテンションは、お任せします」
「分かりました。では、こちらにお名前と電話番号ば記入してください」
レジを乗せている机の空きスペースにメモ用紙ほどの簡素な記入票を差し出す。
「……」
それとなく、細く長い指に目が向いた。
(結婚、しとらんっちゃろうか……)
はたと不謹慎さに気づき、左手の薬指から目を逸らした。
「お願いします」
「では、お預かりします」
ありがとうございました、と店を出ていく艶やかな後ろ姿へ言葉を掛けて見送った。
目鼻立ちの整った美人には違いないのだが、どこか愛らしいものがあった。
年の頃は、落ち着いた雰囲気を足してみても四十代後半といったところだろうか。五十代前半の私からすれば、若い。
(……)
神森昌子。
記入票に残された、流れるような字体で書かれた名前。
「……」
ふと、棚の上の写真立てが気になった。
その中の笑顔に申し訳ない気分になり、頭を掻いた――。
*
「おー、栞。どうしたとね?」
自宅でテレビを見ながらビールを飲んでいると、久々に娘から電話があった。
短大を卒業したあと、就職のために東京へ行ってから一年以上が経っていた。
「たまには、娘の声ば聞きたいやろうなと思って。私が居らんと寂しかろ?」
「うるさいのが居らんごとなって、清々しよったい」
嘘である。
このマンションも、娘がいなくなってからというもの、無駄に広さを感じて寂しくて仕方がない。
「まぁた、そげな強がりば言うて。どうせ、お酒の量も増えとっちゃろ?」
「……」
娘には、お見通しだった。
「ほどほどにせないかんよ?」
「分かっとう」
それから、お互いの近況を伝え合っていると、ふいに栞が切り出した。
「お父さんは、再婚せんと?」
「なんいいよっとか。相手がおらん」
栞は、これまで一度もそんなことを口にしたことがない。
彼女の母であり、私の妻であった明子が亡くなったのは、まだ幼い頃のことだった。
あの娘は「お母さん」という言葉を滅多に口にすることがなかった。
おそらく気を遣っていたのだろう。それでも、母親のことを聞かれた時には、私は覚えている限りのことを話した。
妻の実家は、厳格な家柄で私達の結婚には強く反対していた。
――貴様が、明子を殺したったい!
義理の父親に言われた言葉だった。
実際、そうだと思った。
私と出会わなければ。
私が生涯を共にしたいと願わなければ。
そんなことを思い、葬儀の後も頭を下げ続けた過去がある。
「……お父さん?」
「……なんでんなか。おれは一人がよかたい」
テレビ台に立てかけてある、小さい頃の栞と妻が写っている写真に目が向いた。
「でも、一人じゃ何かと大変やろ?」
「ははっ、そんなことなか。それより、栞の結婚が先たい」
「……そうやね」
後悔した。
「すまん……」
「ううん。大丈夫」
「……」
栞には、高校生の頃、心から好きになった男の子がいた。
彼は難しい病気を患い、十七歳という若さで旅立ってしまった。
娘にとっては、簡単に過去にできることではない。
病に苦しみ、時には悔しさをぶつけながら、それでも懸命に生きていたのだ。
あの頃の栞は、事故で大怪我を負い、将来を悲観して何もかもを投げ出そうとしていた。
そんな娘が彼と出会えたことは、何にも代え難いものだったと思う。
けれど、あの頃の私は迷いと不安に駆られていた。
いや、今でも、そうかもしれない。
大切な人を失う辛さを娘に二度も味わわせてしまったのだから。
それに、ショックのあまり後を追ってしまうのではないかと考えたこともある。
私は、義理の父と同じように、誰かを責めていたかもしれない。
ただ、どこまで娘の人生に立ち入っていいのかも分からなかった。
私自身、ずっと明子の傍にいたいと願い、そうしてきたから。
(栞なら、大丈夫)
そう信じた。信じるしかなかった。
「お父さん?」
「……ん?」
「なん考えよっと?」
「なんも」
「……そっか」
それから他愛もない話を続けたあと「好いた人ができたら、すぐに教えないかんよ」と言って電話を切った。
「いやはや……」
言い方が、ますます母親に似てきた。
「血は争えんってことかね?」
私は、写真の妻へ語りかけた。
「……」
神森さんの顔が、ふいに浮かぶ。
(おい、なん考えよっとか……)
残りのビールを飲み干すと、妻の笑顔が鮮明に浮かんできた――。
*
翌週、約束どおり彼女がラケットを受け取りに来た。
「神森さんは、この辺の方ですか?」
「最近、横浜から引っ越してきました。店長さんは?」
「私は生まれも育ちも、この辺です」
「そうなんですね。私は、まだ土地勘もなくて。どこでテニスをしようか悩んでいるところです」
「それやったら、いつでもお相手しますよ」
「え?! でも、奥様に悪いわ……」
「……妻は、だいぶ前に亡くなりました」
「ごめんなさい……失礼なことを伺ってしまいました」
「いえいえ。それよか、神森さんば誘ったら、旦那さんにくらされてしまいますね」
きょとんとした表情になる。
「あぁ、すいません。怒られるみたいな感じの言葉です。どうにも博多弁が抜けんで……」
「ふふ、勉強させてもらいます。でも……」
表情が翳った。
「主人は……一年前に亡くなりました」
視線を落として、ぽつりと言った。
「えっと……それは……」
まだ、その事実を受け入れられていないことは、明らかだった。
(……)
私も、明子を亡くして暫くは立ち直れなかった。
幸い、私には娘の栞がいた。
男手ひとつで育てなければならない苦労はあったが、それが救いだった。
「お相子ですね」
重くなった空気を払うように、神森さんは小さく微笑み言った。
私は、小さく頭を下げた――。
*
彼女は、それから店に足を運んでくれるようになった。そして、テニスや地元の話などをしているうちに打ち解け、一緒にプレーしようということになった。
そうして、春日公園のテニスコートで少し汗ばむ陽気を楽しんでいた。
「中牟田さん、お上手ですね」
「いえいえ。学生の頃、少しかじっとっただけです。その後は、娘が本気でやりよったから、その相手ばしよりました」
「娘さんと、仲が良いんですね」
「いやぁ、仲がよかいうより、おとなしゅう私が従うとるだけです。博多の女やけん、気が強くていかんです」
「九州の女性は、男性を立てるって聞いてましたけど?」
「神森さん、それは時代錯誤です」
「あらやだ」
彼女は、口元に手を添えて笑った。
「でも、お子さんがいらっしゃって羨ましいわ。あいにく子宝に恵まれなかったから」
「そうやったとですね……」
「でも、仲の良い夫婦だったんですよ。お気になさらないで」
「えぇ、はい……よし。プレー再開と行きましょう」
「はい!」
彼女は、レベルでいうと初中級程度だった。
動かさずに打てるボールなら、きちんと返ってくる。
私は、できる限りラリーが途切れないようにコントロールしていた。
(気晴らしになってほしか……)
そう思った。
「っ!?」
滑ると予測して出した右足がコートに引っ掛かってしまった。
身体が流れて、堪えられずに転倒してしまう。
「あたた……」
「中牟田さん! 大丈夫ですか!?」
駆け寄った彼女が思いのほか近く、少年のように胸が高鳴った。
「だ、大丈夫です……痛っ!?」
立ち上がろうとすると、右の足首に痛みが走った。
「病院に行きましょう!」
私の運転で来ていたのだが、彼女の運転で栞が通っていた整形外科へ向かうことになった――。
*
「いやぁ、何から何まで申し訳なかです」
診断の結果は、軽い捻挫だった。
胸を撫で下ろし、処置を受けてテーピングで固定してもらった。
松葉杖までは必要ないだろうと断ったのだが、彼女が蒼い顔で強く勧めたので借りることになった。
そうして、自宅まで送り届けてもらい「私の所為ですから……」と、夕飯の支度までしてもらった。
(栞に言われた通り、掃除しとけばよかった……)
そんなことを考えながらキッチンに立つ彼女を見ていると、妻を思い出した。
温かい空間だった。
なにものにも代え難い。
幸せな団欒があった。
(……)
「作ってもらった立場で言うのもなんですが……よかったら、一緒に食べていかんですか?」
「え……はい。では、お言葉に甘えて」
そんなわけで、二人してテニスウエアのまま、少し早めの夕飯になった。
「本当に申し訳ありませんでした」
食事を始めても、神森さんは責任を感じたままだった。
「いやいや。日頃の運動不足が祟ったとです。神森さんの所為じゃなかですよ」
「いえ、私の所為です……」
「……」
その言葉の響きには、私の怪我だけではないものをずっしりと感じた。
「……主人は、転倒して打ちどころが悪く亡くなりました」
彼女は、冷蔵庫の残り物で作ったとは思えないほど旨い、厚揚げと小松菜の煮びたしを箸でつまんだまま、俯いて話し始めた。
「いつも帰宅の遅い主人でしたが、その日はたまたま早く帰って来て……。ちょうど夕飯の準備をしていた私が、お使いを頼んだんです」
「……」
「それから携帯電話が鳴って……出てみたら、病院からでした。救急車で運ばれてきたと」
「……」
「直ぐに駆け付けたんですが、その時には、もう……」
私は、箸を置いた。
「あの時、お使いを頼まなければ、今でも元気にしていたんじゃないかと思います。私の所為なんです」
「……」
神森さんの気持ちが、痛いほど伝わってきた。
私の場合は、妻の病が原因だった。
それでも、もともと身体の弱かった彼女に対して、あの時こうしていれば、もっとこうやってさえいればと自分を責めてしまった。
いや。
今でも、責めている。
幾度となく。
答えのない、堂々巡りをしている。
「……どうして、博多に?」
「主人が、一度は住んでみたいとよく言っていたんです。それで……」
「そうやったんですね……」
「海も山も近くて、人もざっくばらんで、人情味に溢れている街だと。中牟田さんと知り合うことができて、それが本当だと思いました」
潤んだ瞳が切ない。
(こげな人が、なんで辛い目に遭わんといけんのやろうか……)
心の中で溜息を吐いた。
「中牟田さん。死ぬって……なんなんでしょうね?」
神森さんが、ぽつりと呟いた。
私は、黙って耳を傾けた。
「主人の亡骸を見て、ずっと涙を流していました。でも、その姿を見ても、主人とは思えませんでした」
「……」
「だって、動いていないんですもの。笑ってないんですもの。喧嘩して、怒ってないんですもの。この人は別の誰か……ずっとそんなふうに思っていました。ううん、心のどこかでは、今でもそう思っている自分がいます」
声が震えていた。
「残された方って、どうしたらいいんでしょう……」
そういうと、彼女は涙を溢れさせた。
「……」
何か言わなければと思った。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
私にできることなど、何もない気がした。
自身のことですら、解決できていないのだから。
ただ、この人が今日、私のために料理を作ってくれた。
こうして、目の前に座ってくれている。
私は姿勢を正した。
「旨かぁ!」
そう言って、料理を口へ運び続けた。
彼女は、驚いた様子で私を見る。
私は、全て残らず平らげた――。
*
その後、足の具合は順調に回復していき、リハビリがてら散歩に出るようになった。
「よか天気ですね」
「ええ。横浜とはまた、空の雰囲気が少し違うような気がします」
私達は、大濠公園の中をゆっくりと歩いていた。
池の周りには、散歩をする人、ジョギングをする人、ベンチに腰掛けて水面を眺める人達の姿があった。
あれから彼女は、足繁く店へ顔を出してくれていた。
差し入れまでしてもらい、申し訳ないやら嬉しいやら。
「先日は、すいませんでした」
「いやいや。私も全く気が回らんで……こっちこそ申し訳なかです」
彼女は、一人暮らしの男の家へ上がり込んだということに後から思うところがあったらしい。
私は言われるまで気づかなかったのだが、まぁ、そういうことだろう。
「それに、お見苦しいところもお見せしてしまって……」
木陰のベンチに二人で腰掛ける。
日差しは強い。
「神森さん。私、あれからいろいろ思い出したり、考えたりしよっとです」
「……はい」
目の前では、大きな池が陽の光を受けて、きらきらと輝いている。
「神森さん、死ぬってなんなんでしょうね、って言いよったですよね?」
「はい……」
「私、死ぬっちゃ生きた証なんじゃなかかと思いました」
「証?」
「えぇ……私は、妻が亡くなって寂しかです。それは、時間が経って辛さが薄れても変わりません。それに、辛さが薄れたというよりかは、時間の流れに負けんごと、薄れたように思い込んどるだけやなかかと」
「……」
「ばってん、自分が死ぬ瞬間に人生ば振り返ることがあったら、おれはこんぐらいのことしてきたっちゃな、あぁ、こんぐらいなら、妻の明子に合わせる顔もあるかもしれんって、そういうふうに思うんやなかろうかなって」
「……」
「この世に生まれてから、いろんなことがあるでしょう。嬉しかことも、辛かことも。誰かに出会うたり、何かを残したり失ったり……。これが、もし死なんで永遠に続いたら、大事にできん気がします。そうしたら、明子に合わす顔もなか気がします」
神森さんは、静かに私を見ている。
「明子に生きとってほしかった。それに、今でも自分を責めとります。明子に、もっともっと出来たことがあったと思いよっとです。その気持ちは、ずっと変わらんです」
「……」
「でも、それでよかと思いよっとです」
「どうして?」
「その気持ちも含めて、また生きていけばいいと思いようからです。それが私の証になるけん」
私は池へ目を移した。
「神森さんは『残された方って、どうしたらいいんでしょう』って言いよったでしょう?」
「……はい」
「私は、そんな思いのままでよか気がします。無理に答えば出さんでも、元気になったりせんでも、よかと思います」
風が吹き、木々の葉が揺れる。
「思えば、私もそんなふうにして、明子が亡くなったあとの時間を過ごしてきました。もちろん、そんなことを考える余裕がない時もありました」
「……」
「ばってん、少しずつ変わってきよっとです。自分を責める自分も、少しずつ受け入れられるようになってきよっとです」
そして、私は言った。
「それに、そんな思いで生きている所為か、昔より、去年より、昨日より、明子のことば好いとうとです」
「……」
神森さんは、何も言わなかった。
私も、暫く黙っていた。
遠くで子供の笑い声がする。
池の水面を、小さな波がいくつも渡っていった。
「好いとうと……良い言葉ですね」
やがて、彼女が呟いた。
その声は、私へ向けられたというより、きらきらと光る池へ静かに投げかけられたようだった。
「……」
私は、少しだけ気恥ずかしくなって頭を掻いた。
神森さんは、目を細めたまま微笑んでいた――。
*
「おー、徹っちゃん! どげんしたと? えらい美人ば連れてからくさ」
「いいけん、どかんか! そこ、とっとっと!」
L字型のカウンターと四人掛けのテーブル席が二席あるだけの小さな店。
ここは、子供の頃からの悪友である、達明の経営する居酒屋だった。
そして、そのカウンターを予約しておいたのだが、こちらも付き合いの長い吉信が【予約席】のプレートがあるにもかかわらず幅を利かせて陣取り、黙々と調理をする達明へ一方的に話しかけているところだった。
今日は私の快気祝いということで、神森さんと一緒に食事をすることになった。
本当は、洒落た店にでもと考えてたのだが「中牟田さんが、よく行くお店に行きたい」という希望からここを選んだ。
その彼女は、私達のやり取りに目を丸くしながらも興味津々だった。
「あぁ、すいません。〈とっとっと〉っていうんは、〈取ってる〉っていう意味です」
説明の片手間に手を振り吉信を追い払う。
「へぇ、なるほど。とっとっと……面白いですね!」
神森さんは、博多弁を非常に気に入ったようで、最近では、ことあるごとに私に尋ねては、もごもごと口の中で繰り返していた。
「ビールでよかか?」
軽く彼女に頭を下げた達明が、ひょいとおしぼりを差し出し、私に聞く。
達明には、口が裂けても言わないが、ここの料理は絶品だった。
いずれは有名な店へ修行に出るつもりだったようだが、残念なことに、達明の父である先代が急に倒れてしまい、以来、この店を切り盛りしている。
それでも料理への探究心は旺盛なようで「ちょっと食べてみらんね」と言っては、居酒屋のレベルを超えた品々を試食させてもらっていた。
「とりあえず、ビールば二つ頼む」
「ん」
「徹ちゃん、俺もかたらして!」
「しゃーしかたい。大人しゅうしとかんかっ!」
ちょんとちょんと雀のように移動した吉信から神森さんを遠ざけるように、私は間に座っていた。
「徹ちゃんも隅に置けんねぇ! あんだけ明子さん一筋やったとに!」
「せからしかたい!」
私は「くらすぞ」と吉信に言い、神森さんには梅干しを頬張ったような顔で頭を下げた。
「楽しい」
彼女は、そう言って笑ってくれた。
それから〈かたらして〉という言葉を「仲間に入れて」という意味であることを伝えて、達明の料理と酒を堪能していった――。
*
気づけば、満席だった店内から客が一人、また一人と帰り、静けさが訪れていた。
「中牟田さん。私、大濠公園でのお話がずっと心に残っていて、あれから色々と考えてみました」
食器を洗う音が店内に響き、吉信は、テーブルに頭を付けて寝入っている。
だいぶ酒の進んだ神森さんが、赤い顔で話し始めた。
「私も、主人が亡くなってから、より一層、主人のことが好きになっています」
「はい……」
「好きだから辛い。辛さが消えないで増していく……。でも、それでいいって思い始めています」
神森さんは、小さく笑った。
「……」
私は、グラスの中で半分にまで減った焼酎を眺めながら、耳を傾ける。
「私も、中牟田さんのようになりたい。立ち直るわけでも、直ぐに前を向けるようになるわけでもなく、それでいいって、心から……」
神森さんは、言葉を切った。
「だから――」
「はい……」
「私は主人のこと、去年より、先月より、きのうより、ずっとずっと好ぃとぉと!」
「はい。よか言葉だと思います」
「それに、博多の街も、博多の人も、好ぃとぉと……」
そう呟いて、頬を更に赤く染めた。
「……はい」
発音が出鱈目な神森さんの【好いとうと】が、私の胸に澄み渡るように響いてくる。
彼女が使った【も】という言葉。
ご主人のことを話したあとに、続けてくれたその言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
ご主人を忘れたわけではない。
ご主人を好きでなくなったわけでもない。
それでも、博多の街も、博多の人も――
私は、手にしたグラスを見つめた。
(……)
私も、明子に対する気持ちを失うわけじゃない。
今さらながら、そんなことに気づいた。
「私も……私も好いとうとです!」
そう言って、私は焼酎を一気に飲み干した。
「……はい」
それから、私達の間に少しの沈黙が流れた。
「食べてみらんね」
達明が、盆に載せて二人分の明太茶漬けを差し出してくれた。
(こいつ……)
この男にしては、珍しく微笑んでいる。
大方、
(やっとか)
そう思っているに違いない。
私は思わず苦笑いする。
そして、絶対に旨いであろう、湯気立つ〆の一品を褒めまいと心に誓い口へ運んだ。
「美味しい!」
酔いが醒めたような表情で彼女が達明を見上げた。
「ありがとうございます。出汁は改良中やけん教えられませんが、水は日田の天領水ば使うとります」
「聞いたことがあります」
達明と彼女の会話が弾む。
すると吉信が、むくりと上体を起こし「達っちゃん、徹ちゃんの女に手ぇ出したらいかんばい」といった。
私と達明は、吉信が言い終わるや否や――
「せからしかたい!」
ハリセンのごとく、同時に言葉を浴びせた。
吉信はべーと舌を出し「おれにも、ちょうだい」と悪びれた様子もなく続ける。
彼女は、このやり取りに溌剌とした笑い声を上げた。
「……」
私は、その姿を見つめていた。
初めて店に来てくれた時の上品で遠慮がちな佇まいも素敵だったが、今こうして目の前で笑っているこの女性は、あの時よりも素敵だった。
そして私は、その笑顔が、どうしようもなく愛おしかった――。
*
リビングで写真を手に取り見つめている。
(明子……)
私の妻。
写真の中では、あの頃と何ひとつ変わらない笑顔を浮かべている。
「……」
神森さんのことを考える。
また、会いたいと思う。
一緒にテニスをしたい。
あの笑顔を、もっと見たい。
そして、今でも明子のことが好きだ。
以前よりも、ずっと。
「……よかか?」
私は写真に問いかけた。
答えは見つからない。
けれど、明子がどんな表情を見せようとも、受け留める覚悟はできている。
私は明子から目を逸らすことなく、しっかりとその笑顔を見つめた。
「……」
ふっと笑いが出た。
どこか晴れ晴れとした気持ちで、私達の宝物へ電話をかけることにした。
「もしもし? お父さん?」
「おー、栞。元気しとうか?」
「うん。どげんしたと? 珍しかね、お父さんから電話げな」
「まぁな、あの、実はな……」
「うん?」
「この前、話しとったろうが」
「なんば?」
「その……好いた人ができたら、教えろって……」
「……えっ!?」
「そげん大声ば出さんでもよかろうもん」
「いや、だって……え!? 誰!? どげな人!?」
「ちょ、ちょっと待たんか!」
娘の捲し立てる言葉に気圧される。
全く。
「……あのな」
もう一度、私は明子の写真へ目を向けた。
やっぱり、笑っている。
「実はな――」
窓の向こうには、いつもの博多の街並みが広がっていた。
〈 好いとうと ~了~ 〉




