茶柱が倒れるまで
「おい、サチコ、お茶!とびきり熱いのを頼む。」
「はいはい、今出しますから、少し待ってください。」
「熱いっ!熱すぎるじゃないか。」
「でもね、見て、ほら茶柱が立ってるんですよ。」
「本当だ、こりゃあ、縁起がいい!いいことが起きそうだな!がぁはははは!」
──毎日同じ時間、午前六時になると、壁の向こうから同じ会話のやりとりが聞こえてくる。私はその大きな話し声で目が覚める。
今日で十四日目になるだろう。気のせいかと思ったが、気のせいではなかった。時計の針はきっちり午前六時を指している。
「……あぁ、また始まった」
耳を塞いでも、隣人のお爺さんの豪快な笑い声はコンクリートの壁を抜けて、私の部屋に容赦なく侵入してくる。毎日同じ時間に、全く同じ会話が繰り繰り広げられているのだ。
「本当だ、こりゃあ、縁起がいい!いいことが起きそうだな!がぁはははは!」とお爺さんが笑い声を上げた後に続く言葉を、私はもう知っている。
私は、聞こえてくる音声に合わせて、その先の会話を同時に口に出してみた。
「サチコや、いつもありがとう、愛しているぞ」
「あら、タツオさん、私も日々あなたには感謝しています。愛していますからね。」
ほら、やっぱりだ。漏れ出してくる壁の向こうの声と、私の声が完全にシンクロした。
隣の部屋で暮らす老夫婦が惚気ている。年老いても愛し合えるなんてこれ以上の幸せはない。彼に振られ、失恋したばかりの私には少しばかり胸に刺さる内容だけれど、微笑ましいことのはずだった。
ただ、どう考えたっておかしい。
毎日同じ時間に、まったく同じトーンで聞こえてくる会話。イントネーションも、お茶をすするタイミングも、笑い声の長さまで、コンマ一秒の狂いもなく同じなのだ。
奇妙だ。心臓の奥が冷たくなるような、嫌な予感がする。
絶対にやってはいけない、関わるべきではないと頭では分かっていた。だけど私は、吸い寄せられるようにベランダの窓に手をかけていた。
家賃の安いアパートの一階。隣の部屋を覗き込むのは、呆気ないほど簡単なことだった。
靴下を履いたままで、ぬるりと柵をまたぎ、隣の部屋のベランダへと移動する。
「えっ、あり得ないんだけど……」
半分開いたカーテンの隙間から、薄暗い部屋を覗き込んで絶句した。
そこには、何もない空っぽの空間が広がっていた。家具は一つもなく、まともに人間が暮らしている気配が一切ない。がらんとしたフローリングの床が、ただ冷たく光っているだけだった。
壁に耳を当てて確認をしたことは何度もある。間違いなく、隣の部屋には人がいるはずなのだ。そうでなければ、私が暗唱できるほど生々しいあの老夫婦の会話は、一体どこから響いているというのだろう。
じわじわと胃のあたりが気持ち悪くなり、酸っぱく苦い吐き気がこみ上げてきた。
「もしかして……彼氏に振られたストレスによる幻聴? いや、まさかね」
このままでは頭がおかしくなりそうだった。私は大急ぎで、アパートの大家さんに連絡を入れた。
「あの、毎朝お隣の一〇六号室から、老夫婦の大きな会話が聞こえてきて目が覚めちゃうんです。もう少し静かにしてもらえるよう、伝えていただけないでしょうか」
『ええ? 一〇六号室? ……あそこは今、誰も住んでいませんけれどねえ。反対側の部屋の間違いじゃなくて?』
受話器の向こうから返ってきたまさかの答えに、私は言葉を失った。
やっぱり、あの部屋には誰もいない。誰もいない無人の空間から、あの睦まじい会話が聞こえてきているのだ。
このアパートは築年数も古い。もしかして、これが噂に聞く心霊現象なのだろうか。
けれど、それにしては不自然だ。毎日同じ時間に、寸分違わぬトーンで。まるで精巧に作られた機械のように、規則正しく再生されているのだから。
「だめだめ、これ以上考えないようにしよう……あぁ、気持ち悪い」
悪寒と吐き気に襲われた私は、気休めの胃薬でも買おうと、早朝のコンビニに向けて部屋を飛び出した。
だが、玄関のドアを開けた瞬間、私の身体は完全に硬直した。
すぐ目の前、薄暗い共有廊下に、見知らぬ老人がぽつんと突っ立っていたのだ。
「おはようございます」
老人から突然挨拶をされ、あまりの恐怖に声が出なかった。喉の奥から「ヒッ」と小さな悲鳴が漏れる。肺の空気を一度吐き出し、深く息を吸い込んだ。
「あっ……おはようございます……」
ようやくそれだけを絞り出した。老人は深く被った帽子の下から、生気のない目で私を一瞬だけ見つめると、ゆっくりとした足取りで廊下の奥へと去っていった。
その掠れた低い声を聞いた瞬間、私の脳裏に強烈なフラッシュバックが起きた。
──これは、間違いない。毎朝、壁の向こうから響いてくる、あのお爺さんの声だ。
こんな早朝に、どうして私の部屋の前にあの人が立ち尽くしていたのだろう。
悪寒と鳥肌と吐き気のトライアングルの中でフラフラになりながら、私は最悪な物語の幕が上がろうとしている、そんな強烈な予感に支配されていた。
コンビニに到着し、人々が行き交う明るい『日常』の空気を浴びた瞬間、不思議と体調不良のトライアングルは消失していた。
冷たい水で胃薬を流し込み、外に出て眩しい朝日を浴びると、なんだか急に清々しい気分になった。冷静になってみると、自分の怯えようがおかしく思えて、ふっと笑いが漏れたのだった。
「そんなはずがないよね。毎日同じ時間に、寸分違わぬトーンで、まるで精巧に作られた機械のように規則正しい会話をあのお爺さんが一人でやるなんて、できるわけがない。
声が似ているように思えたのも、きっと私の気のせいに違いない。あぁ、なんか笑えてきた。私、本当に疲れてるんだな」
すっきりと晴れやかな気分で部屋に戻ると、そこには何一つ変わらない、いつもの見慣れた景色があった。
私は気持ちを切り替えて、いつものように卵焼きとウインナー、ほうれん草のおひたし、梅おかかと昆布のおにぎりを二個、お弁当箱に詰めた。失恋の傷も、隣の不気味な謎も、朝の光がすべて洗い流してくれたような気がする。
私はお弁当を持って、いつも通りの日常が待つ大学へと向かった。
放課後になる頃には、今朝あった奇妙な出来事もすっかり忘れ、夜には写真サークルの飲み会に参加し、二次会まで目一杯楽しんでから帰宅した。
シャワーを浴びてさっぱりした体で、締めに買ってきた缶ビールをあける。ごくごくと喉を鳴らして乾きを潤し、私はようやく、心からの安らぎに包まれていたのだった。
翌朝。ここ数日の習慣からか、ふっと午前六時に目が覚めた。
枕元の時計を確認する。きっちり早朝六時。
──けれど、あの会話が聞こえてこない。隣の部屋から毎朝響いていた老夫婦の会話が止まったのは、実に十五日ぶりのことだった。
「あれ……? 今日は聞こえてこないじゃん。やっぱり、私が疲れてただけだったんだ。最近バイト入れすぎて寝不足だったしな、二度寝しよ」
胸のつかえが取れ、安心して目を閉じようとした、その時だった。
「おい、サチコ、お茶!とびきり熱いのを頼む。」
「はいはい、今出しますから、少し待ってください。」
「熱いっ!熱すぎるじゃないか。」
「でもね、見て、ほら茶柱が立ってるんですよ。」
「本当だ、こりゃあ、縁起がいい!いいことが起きそうだな!がぁはははは!」
心臓が跳ね上がった。あの会話だ。寸分違わぬ、あの会話が聞こえてきた。
だが、何かがおかしい。音が、近すぎる。
いつもならコンクリートの壁一枚を隔てて、こもって聞こえていたはずの音声が、遮るものなく鼓膜に突き刺さってくる。
防音性の低いアパートのベランダからではない。
もう、私の、すぐそばだ。
そう──ベッドの真下から聞こえてきている。間違いない、この至近距離は。
指先から血の気が引き、手足がガタガタと震えて身動きが取れなくなる。どういうこと? 何が起きているの? やっぱりこれは、この部屋の呪いか何かなのだろうか。
私の体には、もうあの二人の会話が深く刷り込まれてしまっていたのだろう。
極限の恐怖に支配されながらも、私はいつものように反応し、下から聞こえてくる音声に合わせて、その先の会話を同時に口に出してしまっていた。
「サチコや、いつもありがとう、愛しているぞ」
「あら、タツオさん、私も日々あなたには感謝しています。愛していますからね。」
完全にシンクロした私の声が、静まり返った部屋に響いた。
──その瞬間だった。
ベッドの下から、ずずず、と床を這う嫌な音が聞こえ、あの朝の老人、お爺さんが這い出してきたのだ。その手には、一台の古いラジカセが握られていた。
恐怖で全身の細胞が硬直する。声も出ない。頭の中では「逃げろ」と激しく警報が鳴り響いているのに、指一本動かすことができない。
お爺さんは、暗がりの床から濁った目で私を見上げると、歓喜に顔を歪ませた。
「サチコ、サチコだな、サチコなんだな、サチコだな! サチコ! サチコ! 探したぞ、サチコ! わしはここにおるぞ! サチコや! サチコ、どこにも行くんじゃない! サチコ、サチコ!よかった、ああ、よかったサチコ!」
お爺さんはラジカセを抱きしめたまま、サチコの名前を狂ったように絶叫し、その場に崩れ落ちて号泣し始めた。
抱えられたラジカセからは、二人の睦まじい会話の録音が、音割れしながらエンドレスで流れ続けている。
何がなんだか分からない。これは悪夢なのだろうか。
私は涙で視界を滲ませながら、必死の思いで体を動かし、ベランダの窓を蹴破るようにして外へと飛び出した。
恐怖と衝撃で足元がフラフラになりながらも、握りしめていたスマートフォンで警察に一一〇番通報をした。
くたくたになりながら、私は今朝助けられたあのコンビニへと走り、店員にすがりつくようにして助けを求めたのだった。
それから、「お爺さんは警察に連れて行かれた」と大家さんから聞かされたのだった。
警察の話では、あのお爺さんはかつて夫婦で一〇六号室に住んでいたそうだ。妻であるお婆さんは脳梗塞を起こし、その部屋の中で急死したとのことだった。
お爺さんはお婆さんのことを本当に深く愛していたようで、旅行を記録したビデオテープはもちろん、日々の日常会話までカセットテープに何本も録音し、日記のように大切に保管していたらしい。なんとその数は一万本以上というから驚きだった。
その死という現実を受け入れることができなかったお爺さんは、亡くなったお婆さんの亡骸を業務用の冷凍庫の中に保管し、一緒に暮らしていたのだとか。
奥さんの姿が見えなくなったことを不審に思った大家さんが、警察に相談したことで、冷凍庫から遺体が見つかり、お爺さんは一度逮捕されることになった。
しかし、殺害したわけでもなく、年金目当ての隠蔽でもなかった。
「ただ妻を愛していて、その死をどうしても受け入れることができなかった、妻の肉体と離れたくなかった」という動機が裁判で立証され、お爺さんは執行猶予がつき、普通の生活へと戻ったのだという。
──それが、今から十年前のことだと知らされた。
私が毎日耳にしていた、老夫婦の音声についても、お爺さんの口から切ない真実が自供されていた。
お爺さんは二週間前から、大家さんが鍵を替えていなかったのをいいことに、かつて二人で暮らした思い出の一〇六号室へひっそりと忍び込んでいたのだ。そして、お婆さんがいつもお茶を淹れてくれていた『早朝六時』という時間に合わせ、あのラジカセを流しながら、自分で水筒に淹れて持ってきたお茶を一人で飲んでいたらしい。
「一〇六号室に行けば、そこで亡くなった妻の亡霊に会えるかもしれない。そうして、もう一度妻を抱きしめたかった。あの日のように、妻が淹れてくれる熱いお茶を飲みたかった」とお爺さんは話しているそうだ。
そして、あの日の朝の出来事についても、警察の捜査で改めて真実を知ることとなった。
玄関を出た直後、目の前に立っていたお爺さんから突然声をかけられ、私は酷く動転していた。そのため、部屋の鍵を閉め忘れたままコンビニへ向かってしまっていたのだ。
そして、私が何度も耳にし、あの時思わず口に出してしまっていた、あの二人の会話。
「サチコや、いつもありがとう、愛しているぞ」
「あら、タツオさん、私も日々あなたには感謝しています。愛していますからね。」
私が部屋の中で呟いたその声を、隣の部屋でお茶を飲んでいたお爺さんが聞きつけてしまったのだ。
この部屋にこそ、サチコがいるに違いないと思い込み、誘われるようにして私の部屋へと侵入した──それが、ベッドの下に老人が潜んでいた理由だった。
お爺さんは今もなお、お婆さんのことを深く愛している。
そして今もまだ、その死を受け入れることができていないのかもしれない。
そう思うと、なんだか複雑な気持ちになり、胸の奥がキリキリと痛んだ。
恐ろしい体験をしたけれど、お金に余裕のない私は、今のアパートに住み続けるしかなかった。
お爺さんはその後、施設で保護されることになり、もうここへ来ることもないだろうという話だけが救いだった。
それから数日後の、早朝六時。
スマートフォンのけたたましい着信音で目が覚めた。画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
小さな胸騒ぎを感じて、私は慌てて電話に出た。
「はい……」
『タツオさん、私も日々あなたには感謝しています。愛していますからね。』
「えっ……」
言いかけるより早く、プツリと電話は切れた。
間違い電話にしては、あまりにもタイミングが良すぎる。
それに、あの声は──私が嫌というほど耳にし、暗唱できるまでになった、あのラジカセのテープから流れていたお婆さんの声に、そっくりだった。
大急ぎでスマートフォンの着信履歴を確認した。けれど、そこにあるはずの履歴は、綺麗に消えてなくなっていた。
着信の事実そのものが、最初から存在しないかのように。
鳥肌が立った。
けれど、それは恐怖の身震いではなかった。
これはきっと、お婆さんからの、時空を超えた愛のシグナルなんだろう。
怪奇現象だとか、不気味な心霊現象だとか、そんな言葉で片付けてはいけない、片付けたくない。
「サチコさん、お電話ありがとうございました。私なら、もう平気です。これからも、お爺さんのことを、見守っていてあげてくださいね」
ベッドの上から、晴れ渡った朝の空に向けて、私はそっと声を届けた。
すると、窓を締め切っているはずの部屋の中で、吊るされた風鈴が、リン……と優しく鳴り響いた。
「さて、お弁当を作ろうっと」
また、新しい日常が始まる。
人を愛するとは、一体どういうことなのだろうか。
そんなことを考えながら作る卵焼きは、私の手元の狂いのせいか、いつもよりなんだか、少し甘ったるい味付けになっていた。




