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第3回:崩れる虚飾、忍び寄る法

インターホンの呼び出し音が、静まり返ったリビングに死の宣告のように鳴り響いた。

 都内の一等地、夜景を売りにしたタワーマンションの最上階。かつては「真実の愛」の拠点だと思っていたこの場所が、今や逃げ場のない監獄のように感じられる。


「……健人さん、警察って、どういうこと?」


 美奈の声は震えていた。

 先ほどまで「運命の恋人」として彼女を抱きしめていた男——高科健人は、今や見たこともないほど険しい表情で玄関のモニターを凝視している。その顔には、かつての貴公子のような余裕は微塵もなかった。


「……チッ、嗅ぎつけられたか。あの女、やりやがったな」


 健人が吐き捨てた言葉は、美奈が知る彼の優雅なトーンとは似ても似つかない、泥を啜って生きてきたような卑俗な響きを帯びていた。

 異世界ファンタジーであれば、勇者のパーティーに潜り込んだ工作員が正体を現す瞬間だろうか。だが、ここに聖なる加護はない。あるのは、現実に裏打ちされた冷徹な「法」の執行だけだ。


「開けてください。警視庁捜査二課です。佐藤一樹さん、中に入っているのはわかっています。任意でお話を伺いたい」


 ドアの向こうから聞こえる声は、極めて事務的だった。それが逆に、抗いようのない国家権力の重みを物語っている。

 佐藤一樹。それが、健人の本当の名前だった。

 美奈は、壁に掛けられた大きな鏡に映る自分を見た。

 姉から奪ったはずのブランド物の服をまとい、高価な化粧品で着飾った自分。しかし、その内側にあるのは、姉を裏切り、詐欺師に加担し、数百万の借金を背負わされた愚かな女の姿だった。


 鏡の中の自分があまりにも醜くて、美奈は吐き気を覚えた。

 これこそが、彼女が「欲しがったもの」の正体だった。


「健人……さん? 佐藤、さん? 嘘よね、これ何かの間違いよね? お姉ちゃんが嫌がらせで警察を呼んだだけよね?」


 美奈は健人の腕に縋り付いた。だが、彼はその手を乱暴に振り払った。


「うるせえ! お前もいい加減にしろ。俺がいつ、結婚するなんて言った? 『できればいいな』とは言ったが、契約書を書いた覚えはないぞ。お前が勝手に浮かれて、勝手に金を持ってきただけだろうが!」


 あまりの豹変ぶりに、美奈は膝から崩れ落ちた。

 報酬系を司るドーパミンが枯渇し、代わりに脳内を支配したのは、氷のような絶望だった。


「でも、あの指輪は……婚約の証だって……」


「あんなもん、上野の露店で買ったガラス玉だ。お前の姉貴が言った通りだよ。本物はとっくに質に入れて、俺の逃走資金になってる。さあ、どけ。そこを動け!」


 健人はクローゼットの奥から、あらかじめ用意していたらしいダッフルバッグを取り出した。その中には、複数の偽造パスポートと、数カ国の通貨が詰め込まれている。

 彼は非常口から逃げるつもりなのだ。


 その時、美奈のスマートフォンが震えた。

 表示された名前は——「紗良」。


「……お姉ちゃん、助けて。お願い、助けて……」


 美奈は縋るように通話ボタンを押した。

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、深夜のオフィスで書類をめくるような、カサリという乾いた音だった。


『助けて? 面白いことを言うわね、美奈。貴女は私のものを全部欲しがって、実際に手に入れたじゃない。婚約者も、贅沢な生活も、そして彼と一緒に背負うはずだった「責任」も』


「違うの、私、こんなはずじゃ……。彼、詐欺師だったの。警察が来てるの。私、捕まっちゃう、共犯だって言われてるの!」


『ええ、知っているわ。私が通報したのだもの。貴女が彼の指示で消費者金融から借りたお金、一部は彼の口座に、残りは「二人の生活費」として貴女の口座から決済されている。客観的に見れば、貴女は彼の資金洗浄マネーロンダリングを手伝った立派な共犯者候補よ』


 紗良の声には、怒りすらこもっていなかった。

 それは、害虫の駆除記録を淡々と読み上げるような、極めて論理的で冷徹な宣告だった。


「お姉ちゃん、お願い、弁護士さんを……。お姉ちゃんの友達の、上条先生を紹介して……」


『無理よ。上条先生は、私の「被害」を証明するために全力を尽くしているわ。貴女を救うために使うリソースなんて、一分一秒だって残っていない。……貴女にできる唯一の正規手段は、警察にすべてを話して、情状酌量を狙うことだけね。もっとも、奪った代償は一生かけて払うことになるでしょうけど』


 通話はそこで切れた。

 ツーツーという無機質な音が、美奈の耳を打ち据える。


 一方、健人はベランダの避難はしごを使い、下の階へと逃げようとしていた。

 捜査員が玄関を破壊して突入してくる前に、闇に紛れて脱出する——その計算だった。

 だが、下の階のベランダに降り立った瞬間、健人は凍りついた。


 そこには、複数のスーツ姿の男たちが待ち構えていた。

 警察ではない。

 彼らは、紗良が私的に雇った「興信所」の調査員たち、そして不動産管理会社の代理人だった。


「……高科健人さん。いえ、佐藤一樹さんですね。この部屋の賃貸契約における虚偽記載、および器物損壊の現行犯として、身柄を確保させていただきます」


 調査員の一人が、冷たく告げた。

 健人は必死に周囲を見渡し、逃げ道を探した。だが、そこは地上三十階。空を飛ぶ魔法でもない限り、逃走ルートは完全に遮断されている。


 そこへ、一人の女性がゆっくりと歩み寄ってきた。

 紗良だ。

 彼女は、まるで夜の散歩でも楽しむような軽やかな足取りで、絶望に震える健人の前に立った。


「空港へ行くつもりだった? 残念だけど、成田も羽田も、貴方の偽名と顔写真は既にマークされているわ。貴方が逃げようとしていた『道』は、すべて私が法的に舗装し直しておいたのよ」


「……紗良、お前……! よくも、よくもこんなことを!」


 健人が獣のような声を上げて掴みかかろうとする。

 だが、屈強な調査員たちに即座に取り押さえられ、床に組み伏せられた。


「暴力はよして。それ、傷害罪が加算されるだけよ。貴方が奪った一千五百万円、そして私の妹から騙し取った五百万円。それらすべてを、民事訴訟で一円残らず回収させてもらうわ。……ああ、忘れていたわ」


 紗良はバッグから、一通の書類を取り出した。


「これ、刑事告発状の控え。貴方が十年前に行った結婚詐欺の被害者たち、全員と連絡がついたわ。彼女たちも、貴方の『社会的な死』を心から待ち望んでいるの。……貴方の人生、ここから先は法廷と刑務所という、正規の舞台だけで回っていくことになるわね」


「……ふざけるな、こんな……こんなことが許されるのか!」


「許されるわよ。法治国家だもの。貴方がルールを無視したから、私はルールの範囲内で貴方を抹殺する。それだけのこと」


 紗良の瞳には、冷徹な勝利の光が宿っていた。

 異世界であれば「聖裁」と称されるような絶対的な断罪。

 だが、これは魔法ではない。六法全書という名の、現代日本における最強の攻略本を用いた「ハメ技」の結果だった。


 パトカーのサイレンが、マンションの下で何重にも重なり合って響き始める。

 健人は地面に顔を押し付けられたまま、意味のない罵詈雑言を吐き続けた。

 上の階からは、美奈の悲鳴のような泣き声が、夜風に乗って微かに聞こえてくる。


 紗良は、夜景を背にして立ち上がった。

 彼女の手には、まだ未開封の、新たな訴状の束が握られている。


 翌朝、裁判所のロビー。

 朝の柔らかな光が差し込むその場所で、紗良は上条弁護士と合流した。

 彼女が手にするのは、刑事告発状だけではない。

 妹、美奈に対する「不法行為に基づく損害賠償請求」——すなわち、家族という甘えを一切排除した、血も涙もない最後通牒だった。


 物語は、最終局面へと向かう。

 すべての虚飾が剥ぎ取られ、法律という名の審判が、彼らの頭上に下されるその瞬間へと。


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