第2回:幸福な妹と、内容証明
スマートフォンの画面が、眩いばかりの「偽りの幸福」を映し出している。
画面の中では、私の元婚約者である健人と、妹の美奈が寄り添って微笑んでいた。背景は横浜の夜景を一望できるロイヤルスイートのバルコニー。テーブルには飲みかけの高級ワインと、あの日私が支払ったはずのハリー・ウィンストンの指輪が、美奈の指でこれ見よがしに輝いている。
ハッシュタグには「#真実の愛」「#略奪じゃない運命」「#お姉ちゃんありがとう」。
投稿からわずか数時間で、数百の「いいね」と、事情を知らない友人たちからの「おめでとう!」という祝福コメントが並んでいた。
私は、その画面を無機質なデスクの上に放り投げた。
ここは虎ノ門にある「上条法律事務所」。
異世界であれば、さしずめ伝説の魔導師が隠棲する「禁忌の魔導塔」といったところだろうか。
「ひどい言われようだね。君、ネット上では完全に『愛に敗れた悲劇の姉』か、あるいは『妹の幸せを邪魔する悪役』扱いだよ、紗良」
デスクの向こう側で、上条和也が楽しそうにタブレットを操作している。
彼は私の大学時代の同期であり、現在は「紛争解決のプロ」として名を馳せる弁護士だ。
整った顔立ちに、冷徹な理知を宿した眼鏡。彼が手に持っているのは魔導書ではなく、最新の判例集と、私の元婚約者——佐藤一樹こと「高科健人」の身辺調査資料だった。
「いいのよ。期待値が高まれば高まるほど、それが崩壊した時の衝撃は大きくなる。情報採餌理論でも、報酬のギャップこそが最大のカタルシスを生むって証明されているわ」
「相変わらずだね。で、例の『魔法のスクロール』は準備できているよ。発送するかい?」
上条が差し出したのは、何の変哲もない茶封筒だった。
だが、その中身は、現代日本において物理攻撃よりも確実に相手の精神と生活を破壊する、最強の法的攻撃手段——「内容証明郵便」である。
「ええ。まずは小手調べ。婚約不履行に伴う慰謝料、および私が肩代わりしていた生活費、ブランド品購入代金、総額一千五百万円の返還請求。期限は一週間。回答がない場合は即座に民事訴訟へ移行。この『宣告』が、彼らの楽園に刺さる最初の楔になるわ」
私は署名し、印影を残した。
異世界の聖女が祈りを捧げて結界を張るように、私は事務的に、しかし確実な殺意を持って印章を押し当てた。
その頃、美奈と健人は、六本木のタワーマンションで「勝利の余韻」に浸っていた。
もっとも、そのマンションの家賃は、健人が「自分の会社が契約している社宅だ」と嘘をついて、美奈に契約させたものだ。
初期費用の三百万は、美奈が親に泣きついて借りた貯金。
家具や家電もすべて美奈名義のカード決済。
「健人さん、今日は何のお祝いにする? お姉ちゃん、あんなに強がってたけど、今頃一人で泣いてるわよね」
美奈は、健人の膝に乗って甘えた声を出す。
健人は彼女の肩を抱き寄せ、優しく髪を撫でた。
「美奈は本当に優しいね。紗良は……あいつは心が冷たすぎたんだ。君のように、僕を信じて支えてくれる女性こそが、僕のビジネスパートナーにふさわしい。実はね、今進めているシンガポールの不動産投資案件が、もう少しで形になるんだ。そうなれば、このマンションの家賃なんて、一日の利益で払えるようになるよ」
「本当!? さすが健人さん!」
健人の言葉は、甘い毒のように美奈の脳を麻痺させていく。
だが、美奈は気づいていない。
健人が時折見せる、スマートフォンへの執拗なチェック。
そして、その画面に映る「カード決済不可」の通知や、複数の女性からの「お金を返して」という悲鳴のようなメッセージに。
数日後、私は表参道のカフェで、美奈と「偶然」再会した。
美奈は、私が買ったばかりだったエルメスのバーキンを持ち、勝ち誇ったような顔で私の前に座った。
「あら、お姉ちゃん。こんなところで一人でお茶? 寂しいわね。健人さんなら、今頃大きな会議で忙しいわよ」
美奈は、カフェの店員にも聞こえるような大きな声でマウントを取ってくる。
私は読みかけのビジネス書から目を上げず、静かにカフェラテを啜った。
「あら美奈。元気そうね。そのバッグ、大切に使ってくれて嬉しいわ。でも、ちゃんと『メンテナンス』はしてる?」
「メンテナンス? そんなの健人さんに言えば、新しいのを買ってくれるからいいのよ」
「そう。バッグだけじゃないわよ。人間関係も、契約も、メンテナンスを怠るとあっという間に崩壊するの。特に『連帯保証』という名の呪いには気をつけなさい。あれは異世界の即死魔法よりも、逃げ場がないんだから」
私は微笑んで席を立った。
美奈の顔が一瞬、不安に曇る。
彼女の脳内にある「姉への勝利」という報酬系に、私の「意味深な警告」というコストが割り込んだ瞬間だった。
その日の夜、健人は美奈の部屋で、頭を抱えて座り込んでいた。
「どうしたの、健人さん?」
「……トラブルだ。投資先のアセットマネジャーが、資金を一時的に凍結した。あと五百万……あと五百万あれば、すべての利益を確定させて引き出せるのに! 美奈、すまない。君にだけは頼りたくなかったんだが……」
健人の演技は完璧だった。
震える声、絶望に満ちた瞳。
美奈の自己犠牲精神を刺激し、さらに深く依存させる「詐欺師の奥義」だ。
「五百万……。でも、私もう貯金がないわ。お父さんたちにも、これ以上は……」
「わかっている! わかっているんだ。でも、これさえ乗り切れば、僕たちは数億の資産を手にできる。君に苦労はさせない。消費者金融でもいい、僕が必ず責任を持って返す。君の名前で契約するだけでいいんだ。僕の名前は、今、投資の守秘義務で使えない状態なんだよ」
異世界なら「愛の試練」と呼ばれる局面だろう。
現代日本においては、単なる「多重債務への入口」である。
美奈は、健人の情熱的な瞳に抗えず、スマホで即日融資のサイトを開いた。
彼女の指が「同意する」のボタンを押した瞬間。
彼女の「社会的生存権」は、目に見えない鎖でがんじがらめに縛られた。
そして翌日の午前中。
二人が遅い朝食を摂っているところに、呼び鈴が鳴った。
「……お届けものです。内容証明郵便ですので、受領印をお願いします」
郵便局員の事務的な声が、静かなリビングに響く。
健人が不審げな顔で受け取ったその茶封筒。
表書きには「上条法律事務所」の文字。
健人が震える手で封を切り、中身を取り出す。
そこには、彼がひた隠しにしてきた「過去の犯行履歴」を熟知しているかのような、冷徹な法的宣告が並んでいた。
『貴殿に対し、以下の通り通知する。婚約破棄に伴う損害賠償、および不当利得の返還……』
健人の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
それだけではない。
封筒の中には、もう一枚、私の直筆のメモが入っていた。
『追伸:健人さん、あの日美奈に渡した指輪。鑑定書、偽造でしたね。美奈、貴女が今手にしているのは、ただのガラス細工よ。本物は、私がすでに警察に『証拠品』として提出する準備を終えています』
美奈が叫び声を上げた。
彼女が信じていた「真実の愛」という名の堅牢な城壁に、巨大な亀裂が走った瞬間だった。
同時に、美奈のスマホに通知が入る。
それは、彼女が「健人のため」に借りた消費者金融からの、初回返済日の案内……ではなく。
『警視庁捜査二課ですが、佐藤一樹(高科健人)さんの件で、お伺いしたいことがあります。現在、ご自宅にいらっしゃいますか?』
インターホンのカメラに映るのは、スーツ姿の二人組の男たち。
私は、事務所の窓から見える東京タワーを眺めながら、静かにワインを掲げた。
カタルシスへのカウントダウンは、今、ゼロに向かって加速を始めた。




