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第1回:略奪の夜、微笑む私



 シャンデリアの光が、クリスタルグラスに注がれた最高級のシャンパンを宝石のように輝かせている。

 都内五つ星ホテルの最上階、フレンチレストラン「ル・シエル・ブルー」。

 一晩のディナー代だけで新卒の月収が吹き飛ぶようなこの場所で、私の人生における「婚約破棄イベント」は、あまりにも劇的に幕を開けた。


「……悪いが、紗良。君との婚約を白紙に戻したい」


 私の正面に座る男、高科健人が重々しく口を開いた。

 イタリア製のオーダーメイドスーツを完璧に着こなし、彫りの深い顔立ちには苦渋の決断を下したと言わんばかりの悲劇的な色彩が宿っている。

 その隣には、私の妹である美奈が、潤んだ瞳で彼の腕にしがみついていた。


「ごめんなさい、お姉ちゃん。私、どうしても健人さんのことが……。略奪だなんて言われても構わない。これが私たちの『真実の愛』なの」


 美奈は、私が誕生日に自分へのご褒美として買ったシャネルの限定ワンピースを勝手にクローゼットから持ち出し、これ以上ないほど「可憐な被害者」を演じていた。

 周囲のテーブルの客たちが、ちらちらとこちらを伺っている。

 異世界ファンタジーの貴族の夜会であれば、ここで私は「悪役令嬢」として糾弾され、周囲からの嘲笑を浴び、国外追放を言い渡されるところだろう。


 だが、ここは現代日本である。

 そして私は、追放される令嬢でも、慈悲を乞う聖女でもない。

 ただの、現実的で合理的な、そして少しばかり「準備」のいい一人の女性に過ぎない。


「……そう。美奈と、健人さんが」


 私はゆっくりとワイングラスをテーブルに置いた。

 指先が震えていないか、慎重に確認する。

 怒りで震えているのではない。

 ようやくこの「不良債権」を法的に正当な理由を持って処理できるという、歓喜とカタルシスを抑えるのに必死だったのだ。


「ああ、そうだ。紗良、君は優秀だよ。でも、あまりに冷たすぎる。ビジネスライクな君との家庭なんて、想像するだけで息が詰まるんだ。僕はもっと、美奈のような守ってあげたくなるような女性と、人生を歩みたい」


 健人の言葉は、どこかの安っぽい恋愛ドラマの台詞をそのまま引用したかのように滑稽だった。

 守ってあげたくなる、か。

 私の給料を当てにして、デートのたびに「財布を忘れた」だの「急な事業投資で手元に現金がない」だのと言って、私のクレジットカードに、たかり続けてきた男がよく言ったものだ。


「わかったわ。健人さんの意思は尊重する。婚約は解消しましょう」


 私のあまりにもあっさりとした回答に、健人と美奈の二人は拍子抜けしたような顔をした。

 美奈はもっと、私が泣き叫び、彼女の髪を掴んで罵倒することを期待していたのだろう。

 読者の離脱要因となる「ダラダラとした未練」を見せるつもりは毛頭ない。


「ただし」


 私はバッグから、スマートフォンの録音アプリが作動していることを一瞬だけ確認し、それから滑らかな手つきで一通の書面を取り出した。


「婚約の解消に伴う事務的な手続きについては、後日、私の代理人を通して連絡させてもらうわね。あ、それから、その指輪」


 私は、美奈の薬指で誇らしげに輝く三カラットのダイヤモンドを指差した。

 それは先月、健人が「君との永遠の愛の証に」と言って、私のカードで決済したハリー・ウィンストンの特注品だ。

 総額、八百五十万円。


「それ、名義は私になっているし、支払いの原資も私の口座から出ているから。返してなんて野暮なことは言わないわ。美奈、貴女がそれを持ち続けるなら、それは私からの『贈与』ではなく、健人さんによる『立替金の横領』あるいは『不当利得』として処理させてもらうけど、いいわよね?」


「えっ……? な、何言ってるのお姉ちゃん。これは健人さんが私にプレゼントしてくれた……」


「美奈、落ち着いて。健人さんが言ったでしょう? 彼は『手元に現金がない』から、私が一時的に立て替えていたのよ。婚約が解消された以上、その債務は健人さんに帰属する。そして、彼に支払い能力がない場合、受贈者である貴女にも返還義務が生じる可能性があるわ。日本の民法は、貴女たちが思っているよりもずっと『情緒』がないのよ」


 健人の顔が、みるみるうちに土気色に変わっていく。

 彼は慌てて笑顔を作り、私の手を握ろうとした。


「ま、待ってくれ紗良。そんな固い話をしなくてもいいじゃないか。僕たちの仲だ。これはあくまで二人のプライベートな問題で……」


「プライベートな問題だからこそ、法的根拠が必要なのよ。健人さん、貴方が自称している『IT系スタートアップのCEO』という肩書き、そして港区のタワーマンションの最上階という住所。それらが事実かどうか、私はもう知っているの」


 私は彼の手を冷たく振り払った。

 健人の瞳の奥に、明確な「恐怖」が走る。


「美奈。貴女、お姉ちゃんのものは何でも欲しがるわよね。おもちゃも、服も、そして婚約者も。全部あげあげるわ。でもね、一つだけアドバイスしておいてあげる」


 私は席を立ち、最後の一口のワインを飲み干した。

 そして、耳元で囁くように言った。


「その男、結婚詐欺師よ」


 美奈の顔が凍りつく。

 健人が何かを叫ぼうとしたが、私はそれを無視してレストランを後にした。



 店を出て、黄金色に輝くエレベーターに乗り込む。

 鏡に映る自分の顔は、驚くほど冷静で、そして美しい。

 一階のロビーに降りると、待ち構えていたかのように黒塗りのタクシーが滑り込んできた。


 車内に乗り込むと同時に、私はあらかじめ登録してある番号に発信した。


「もしもし、上条先生? ええ、終わりました。期待通りの展開です。婚約破棄の意思表示、不貞行為の自白、すべて録音完了しました」


 電話の相手は、私の大学時代からの友人であり、この界隈では「毒蛇」と恐れられている辣腕弁護士、上条和也だ。


『お疲れ様。完璧だね、紗良。相手の男——偽名・高科健人、本名・佐藤一樹についての調査報告書も、今さっき興信所から届いたよ。予想通り、余罪がボロボロ出てきた。君の妹さん以外にも、現在進行形で三人の女性から金を引っ張ってる。完全なシリアル・スウィンドラーだ』


「そう。じゃあ、まずは『内容証明』から始めましょうか。彼女たちが夢見ている『真実の愛』という名のメルヘンを、六法全書という現実で叩き潰してあげるために」


『承知した。民事でむしり取れるだけむしり取った後、刑事告発でトドメだ。彼には、結婚という聖なる儀式を餌にした代償を、独房の中でじっくり払ってもらおう』


 私は電話を切り、窓の外を流れる東京の夜景を眺めた。

 美奈は今頃、健人と一緒に豪華なディナーの続きを楽しんでいるだろう。

 あるいは、私が残した不穏な言葉に、少しずつ毒が回るように不安を感じ始めているだろうか。


 妹よ、貴女が欲しがったのは、キラキラした王子様ではない。

 底なしの負債と、犯罪の片棒。

 そして、姉である私が仕掛けた「社会的な死」という名の地獄だ。


 異世界なら魔法で一瞬かもしれないけれど。

 現代日本には、時間をかけてじわじわと、確実に相手を破滅させる「正規の手続き」という贅沢な拷問があるの。


 私はスマホの画面をタップし、次の「餌」となる情報を確認した。

 健人が妹に渡したあの指輪、実は質流れ品ですらない「精巧な模造品」であるという鑑定結果。

 それをどのタイミングで妹に教えてあげようか。


 カタルシスの期待値は、今、最高潮に達している。

 夜の帳に消えていくタクシーの中で、私は誰にも見せることのなかった、最高の笑顔を浮かべた。


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