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ママチャリごと召喚された私は異世界を子連れで爆走する

作者: 和ともなか

 目の前には童話に登場するような、ドレス姿の金髪美女。

 その背後では、剣を持った男達が動物らしきナニかと戦っている。


「ポットの精霊様! どうか私の願いをお聞きください!」


 跪いた金髪美女が、必死の形相で私に懇願する。


 え…? なんで私に?

 なにこの状況!? この状況なに!?


 金髪美女と見つめあいながら、私は唯一現実味のあるママチャリのハンドルをきつく握り締めた。



 遡ること数分前。


 夕飯の買い物を終えた私こと栗原真奈は、チャイルドシートをつけたママチャリから降り、押しながら家の門をくぐっていた。


「ふ〜暑かった。あの子達、まだ映画観てるかな」


 今日は日曜日。

 7歳と4歳の息子達が、超人気アニメの映画版をテレビで観ている隙に、すばやく買い物をすませてきたところだ。あの映画は2時間あるはずだから、まだ観ているはず。

 旦那が家にいるけど、夜勤明けで寝てるから、あまりアテにはならない。


 そんなことを考えながら、玄関脇に自転車を停めようとした時だ。

 足元のコンクリートが突如光り始めた。

 何事かと下を向けば、黒魔術のような魔法陣が私を中心に浮かび上がってる。

 は? 魔法陣!?


「ちょっなにこれっ?」


 焦って飛び退こうとしたが、なぜか体が動かない。

 さらに風が強く吹き荒れ、私はたまらず目を閉じた。

 髪がめちゃくちゃに乱れる中、ピコンピコンと何かが鳴っている。


『マサコがフレドリード公爵夫人と契約した召喚魔法が発動しました。2回目の召喚を開始します』


 聞いたことがあるような女の声が淡々と告げる。

 一段と強く風が吹いた次の瞬間――それが唐突に止んだ。


 あ、もう大丈夫かな?


 恐る恐る目を開けると、目の前に1人の女性が跪いていた。

 ギョッとして思わず身を引くと、自転車がバランスを崩しそうになり慌ててハンドルを握りなおす。

 反射的に体勢を整えながらも、私の頭は混乱していた。


 え? なんでこの人お姫様みたいなドレス着てんの? てか誰!?


「ポットの精霊様! どうか私の願いをお聞きください!」


 女性の声が聞こえた瞬間、周囲の音が一気に耳になだれ込んできた。

 固いモノが激しくぶつかる音と、複数の怒声とわめき声。その合間に、不快な動物の鳴き声が響き渡る。


『2回目の召喚が完了しました。召喚した者の願いをお聞きください』


 混乱もピークに達した時、耳元でアナウンスが流れた。


 この声、さっきも聞いた! 


 ハッと我に返って声がした方へ振り向く。が、私が押していた自転車があるだけで誰も……いや、数メートル先の木々の間で、何かが激しく戦っているみたいだけど、ちょっと暗くてよく見えない……あれ? なんで暗いの? 


 ちょっと待って。

 いつのまに森の中に!? しかもなぜ夜!? 


 どこにいるかわからない相手に質問しようと、私は口を開いた。


「願いは何かしら? 召喚の猶予は5時間。金銀財宝や地位名誉はあげられません。でもそれ以外なら、たぶん、大体、だいじょ~ぶ」


 考えていたものと違う言葉が出て、私は驚いて自分の口を押さえた。

 なんで勝手に口が動いたの? しかも『だいじょ~ぶ』だなんて、うちのお母さんじゃないんだから。


「ポットの精霊様。どうかこの子を」


 金髪美女が自分の背後から一人の男の子を前に押し出した。

 あっうちの下の子と同じくらいの歳かな? なんて考えたら、少しだけ冷静になれた。


「ははうえ…」


 男の子が両手を胸の前で握りしめて、美女を見上げる。

 美女は左手で男の子を抱きしめ、すぐに放して自分の前に立たせた。

 なぜ左手だけでと改めて彼女を見れば、右手に白っぽい陶器を抱きこんでいる。

 注ぎ口っぽいのがあるからティーポットかな? そういえばさっきから私のことポットの精霊様って呼んだような……。

 まさか私、あれからランプの精みたいに飛び出してきたんじゃ……てか、あれ――。


 よく見たら急須じゃない!? 


 平ぺったい本体の横に棒状の取っ手、白地に青の梅の模様って、うちでも昔使っていた記憶がある量産型の急須なんですが!?

 あ、これ夢かな? と現実逃避しかけた時だ。

 美女が意を決したように口を開いた。


「この子を、サイラスを父親の元へ送り届けてください。リコーピット領の領主がこの子の父親です。この先にあるトマドの街に領主館があります。そこにいる夫に、どうかこの子を届けてください」

『達成可能な依頼です。達成条件、5時間以内にサイラスを父親に直接手渡すこと』


 先ほど聞こえた声が、車のナビゲーションのように淡々と言った。

 聞こえてきた右側を見たが、やはり誰もいない。


「ちょっと勝手に何言ってんの。達成可能って、その父親の家はここから近いの?」

『召喚特典として真奈様には身体強化、ママチャリには高速移動が付与されていますので、5時間以内に送り届けることは可能です。さらにママチャリ半径3mに最強結界発動!』


 ふわりと足元から柔らかな光が夜の森に広がる。その瞬間、身体がやけに軽くなり、力が漲って今にも走りだしたい衝動に駆られた。


『アシスタントの私は今回、真奈様愛用歴2年のママチャリに搭載されました。今からナビゲーションを開始します!』


 宣言と同時に、私から一本の光の道が伸びた。1mくらいの幅の光の道が、森の向こうへと木々を避けながら伸びている。


「ポットの精霊様、どうかお願いいたします」


 呆然と光の道を眺めていた私は、美女の声でハッと我に返った。

 真剣なまなざしの美女と、震えながらも涙をこらえた男の子がこちらを見上げている。


 この子、うちの子と同じくらいなのに、母親と離れる覚悟が出来てるんだ。じゃあ母親のほうはまさか――。


「この子を私に預けて、あなたどうするつもり? まさか……」


 幼子を残して死ぬ気じゃないでしょうね!?


 私は初めて自分の言葉で美女に話しかけた。そんなこと、たとえ夢の中でも許せるもんじゃない。

 すると私の予想に反して、金髪美女は不敵に微笑んだ。


「私こう見えても、腕には自信がありますの」


 美女のスカートがひらりと揺れ、中から2本の細い剣を取り出した。

 おお…海賊映画のワンシーンみたい。


「私がこの子をあなた様に託すのは、皆で助かるためです。ですからどうかポットの精霊様、私の願いを叶えてください」


 そりゃ叶えてあげたいよ。子どもを失う母親も、母親を失う幼子も見たくないもん。

 でも…私に出来るの? 

 そもそもココどこよ。夢でも映画の撮影でもないってことは、目の端に映るあれやこれやで、とっくに気づいている。舞い上がる土埃が煙たいし、夜の外気で体が徐々に冷えていってるし。


『真奈様の帰還条件は、召喚者である彼女の願いを叶えること。または5時間経過後です。もし願いを叶えずに帰った場合は、5回の召喚契約の数が1回増えますが、問題なくご家族の元に帰れますよ』

「家族…」


 ちいさく呟いて、私は目を見開いた。


 そうだ! 私帰らないと! 家で息子達(と旦那)が買い物から帰ってくるのを待ってるんだった。


 ああ、でも…と私は改めて、美女と男の子を見下ろした。

 願いを叶えなかったら、それって見殺しにするってことじゃないの? 

 家で待つ息子達の顔が浮かぶ。逆の立場だったらどうする? 息子だけでも安全な場所に預けたいって思うよね。

 私は一度深呼吸をすると、自転車を停めて男の子の前にしゃがんだ。


「お名前は?」

「……サイラス」

「そう、サイラスくん。おばちゃんとお父さんのとこに行く?」


 サイラスは母親を見てから、こくりと小さく頷いた。我慢していた大きな空色の瞳から、ぽろりと涙が落ちる。


「シンシア様!」


 誰かの声で弾かれたように美女が剣を振るう。途端、すぐ間近で獣の叫び声があがった。

 一気に恐怖が駆け巡りビクリと体が震える。


『真奈様! 急いで!』


 アシスタントの声で我に返った私は、強張った体を無理に動かした。

 男の子の脇に手を入れて抱き上げ、自転車の後ろのチャイルドシートに座らせる。安全ベルトを締めて、シートの横にぶら下げていたヘルメットを被せる。

 毎日息子に行っていた動作は、頭で考えなくても自然と体が動いてくれた。


「ここを両手で持つんだよ。怖かったら目を閉じてていいからね」


 迷ってる場合ではない。

 とにかくここから離れなきゃダメだ。


 サイラスくんが持ち手を握ったことを確認して、私は自転車にまたがった。

 チラリと横を見れば、美女が一つ頷く。

 私は光の道を進むべく、勢いよくペダルを踏みこんだ。

 次の瞬間、目前に木の幹があった。

 慌ててハンドルをきって避ける。

 安心したのも束の間、すぐまた目前に木が迫る。


「えっちょっうそっ! 速すぎ!!」


 それを何度か繰り返す。

 そして気づけば、私達は森を抜けていた。


 草原にぽつぽつ立つ木が、グングンと後ろに流れていく。

 ナビの光の道がぼんやり辺りを照らしているため、街灯がない中でも自転車のライトをつけずに進めている。


「今、どれくらいの速度で走ってんだろ…」

『舗装されていない道を、身体強化と高速移動で平常運転、おそらく時速50キロくらいでしょうか』


 返ってきた答えに、おもわず漕ぐ足を止めそうになった。


「自転車のスピードじゃない! 転んだら死ぬ!」

『競輪選手はそれくらい出しますよ。最強結界張ってますんで、転んでも怪我しません。なので足を止めないでください。ここはまだ安全ではありません』


 最後の台詞に、止まりかけていた足をまた動かし始めた。


「安全じゃないって……もしかしてさっき襲ってきた動物が追いかけて来てる?」


 後ろを振り返りたいが、スピードが出ているせいで、よそ見が出来ない。サイラスくんの様子も気になるが、バックミラーなんて自転車にはないのだ。


『いえ、この草原に生息する魔物ですね』

「えっなに?」

『あと7分ほど走ったらオオカミ型の魔物の群れに遭遇します』

「は!? ダメじゃん!」

『いや止まるほうがダメだから! 襲われるから!!』


 おもわずブレーキをかけようとした私にアシスタントが言い返す。アシスタントは長いので以下アシと呼ぶ。


「でも、オオカミの群れに遭遇するんでしょ?」

『大丈夫ですよ。こちらに敵意を抱く者や危害を加える物を弾く結界が張られてますから。光の道が示すまま進んでください。体長2メートルの魔物くらいなら弾き飛ばせます』

「弾き飛ばすって、オオカミをはねるはちょっと……」


 動物愛護団体に訴えられそう。

 難色を示すと、真奈様、とかしこまって名を呼ばれた。


『オオカミではなく、魔物です。子どもを産み育てる動物じゃありません。人間を餌としか見ていない淀みから生まれた魔物で、意思疎通も出来ません。なので、一切の躊躇なく弾き飛ばしちゃってください』

「魔物……」

『はい。ここ異世界ですから』


 私が「まさかね」と否定していた可能性を、こいつはいとも簡単に肯定しやがった。


『異世界転移、漫画や小説で読んだことありません? あれ、どこから情報が漏れたんでしょうね。まあ説明する身としては助かりますが』

「……アニメで子どもと観たことあるわ。けど、自分の身に起こるって思うわけないでしょ。ファンタジー過ぎるでしょ! だってトラックにはねられて異世界にって……おおおちょっと待って」


 嫌な予感に急にドクンドクンと鼓動が早くなった。

 夢じゃなくてこれは現実。五感がそう告げている。ということは。


「まさか私、知らないうちに事故で死ん――」

『いえ、召喚魔法で5時間ほどこちらにお邪魔してるだけです』


 最悪の想像は、かぶせ気味に否定された。


『それよりも、まもなく魔物の群れに遭遇します。覚悟決めて走り抜けてください』


 はあ…と安堵のため息をついたのも束の間。

 話しながらも足は動かしていたため、気づけば魔物の集団にかなり接近していたようだ。


「待って心の準備が。ホントにホントに大丈夫? 自転車壊れない?」


 待ってと言いつつ足は動かす。

 わかってるのよ私だって行かなきゃダメってことは! でも怖いもんは怖いでしょ!


『結界の範囲は自転車を中心に半径3mですから、魔物は見えない壁に吹っ飛ばされる感じなので大丈夫ですよ。自転車自体で体当たりするわけではありません』


 それでも血とかグロテスクなモノが見えるんじゃ…と顔を歪めた時、後ろに乗せている幼児が気になった。


「後ろのサイラスくん、大丈夫そう?」

『呆然としていますが無事ですよ。結界があるから風も顔に当たってませんしね』


 言われて気が付いた。

 そういえば時速50キロで走っているのに、風を感じない。こんな原っぱを猛スピードで走ったら、虫やら草やらが顔に当たりそうなものなのに。


『来ます! 追いつかれないように駆け抜けましょう』


 数メートル先の暗がりに、光る丸い物体が無数に浮かび上がる。

 あれは、目だ。

 背中に悪寒が走り、小さく体が震えた。

 想像以上の数だ。


「グルルルル」


 こちらに気づいたオオカミ型の魔物が一斉に唸り始める。

 先頭にいた数匹がこちらに向かってきた。


「いやあああ」


 恐怖で頭を伏せながら、私は立ち漕ぎする勢いで猛烈にペダルを漕いだ。

 視界に入るのは車輪の下の光る道だけ。

 ギャインキャインという鳴き声が左右を流れ遠のいていく。

 それを無視してしばらく経った頃。


『魔物の群れを抜け、追っ手も振り切りましたよ』


 アシが淡々と告げてきた。

 ハッと顔をあげて、辺りを見渡す。

 周囲に光る目も唸り声もないことを確認して、ようやく私は漕ぐスピードを弛めた。

 はあ~と息を吐きながら肩から力を抜く。

 心身の疲労がやばい。


「ちょっと停まっていいかな?」

『もう少しいけば街道に出ます。そこまで頑張りましょう』

「街道……」


 そんなものあったんだ。いや人の営みがあれば、道もあるか。

 今更だけど、そういえば森の中でも美女の肩越しに馬車っぽいものが見えていた気がする。


「もしかして森の中にも街道あった?」

『ありましたがショートカットしました。制限時間がありますので』

「あー…そう」


 あーそう、としか言えない。ホントもう今更だわ。


「あ、道だ。意外と広い」


 少し先で、ぼんやり光るナビの道が、しっかりと踏み固められたような道と重なっている。

 登山道のような狭い道を想像していたが、車がすれ違えるくらいの幅で、その道とナビの光の道がきれいに重なってのびている。ここからは、街道に沿って進めるらしい。


『ようやく街道に出ましたね。この辺りは比較的安全です』


 比較的という言葉が気になったが、安全と言われてホッと肩から力が抜ける。予想外の展開ばかりでずっと力んでいる状態だったようだ。


「自転車停めて、降りても大丈夫?」

『結界は自転車から半径3mまでです。それ以上離れないよう、お気を付けください』


 許可が出たので、私は自転車を街道の端に寄せて、よっこらせと自転車を降りた。

 怖がらせないように微笑みながら振り向いたら、サイラスくんは空虚な眼差しで暗闇を見つめていた。


 ひえ~~幼児の虚無顔ほど怖いものはないわ。


 私は慌ててスタンドを立てて自転車を停めた。

 そもそも魔物を跳ね飛ばす現場なんて、幼児に見せるもんじゃないよ。普通にPG12…いやR15だわ。チャイルドシートに日よけカバーもつけとけばよかった。目隠しになったのに。


「サイラスくん、頑張ったね。ちょっと休憩しようか」


 声をかけながらヘルメットを脱がすと、ふわふわの金髪が汗で額にはりついている。

 上着のポケットからタオルハンカチを取り出し、そっと額の汗をぬぐいながら、はりついた前髪を払いのけた。

 飲み物かなにか……ってそうだ! 私、買い物帰りだったわ。


「前カゴのエコバッグがそのままある! よかったぁ…助かったぁぁ」


 おもわず情けない声が出たが、食べ物飲み物があることはものすごくありがたい。

 さっそく開口部が巾着になっているエコバッグを開け、中をあさって息子用に買った小さい紙パックのリンゴジュースを取り出す。パックの後ろに張り付いているストローを刺して、サイラスくんの口元に差し出した。


「これね、美味しい飲み物だよ。この白い棒をくわえてチューって吸ってごらん」


 口元にストローを持っていくと、戸惑ったような空色の目がこちらを見上げた。


「こう息を吸い込むようにチューって吸うんだよ」


 言いながら口をすぼめて吸う動作を見せると、サイラスくんがおそるおそるストローをくわえて吸い込む。が、ケホケホッとむせた。


「ゆっくりでいいからね、ゆっくり吸ってごらん」


 背中を撫でながら声をかけると、少し落ち着いたサイラスくんが小さな声で「あまい」と呟いた。むせたせいで涙目にはなっているが、視線は紙パックに釘付けだ。

 もう一度ストローをくわえてサイラスくんがチューっと吸った。途端、今度は表情をパッと輝かせた。


「おいしい」


 うんうん、青森の100%リンゴシューズは美味しいね。


「自分で持てるかな?」


 自分ものどが渇いていることに気づいたのでそう尋ねると、サイラスくんは眉を下げながら、おてて…と己の手を見た。

 彼の両手は、今もしっかりとチャイルドシートの一文字型ハンドルを握っている。外そうとしているのか、その指がわずかに震えた。

 あー…ずっと握ってたから、固まっちゃったんだね。

 私は強張った小さな手を温めるように、そっと優しく撫でさすった。


「うんうん頑張ったよね。ギュってずっと握ってたんだよね。えらいぞ~。よし、じゃあ一緒に少しずつ外していこうか」


 指動け~指開け~と唱えながら、サイラスくんの小さな手を左右交互に優しく撫でる。

 その間、彼はたくましくも私が差し出した紙パックジュースを飲んでいた。

 うん、食欲があることは良いことだ。

 ジュースを飲んで人心地着いたのか、徐々に指から力が抜けて、飲み終える頃にようやく両手が持ち上がった。

 マシュマロみたいな白い頬にも血の気が戻って一安心。


「自転車のアシスタントさん、まだ敵や魔物は近くにいない? まだ大丈夫そう?」

『半径1キロ以内にはいません。ですが、タイムリミットがあるのでのんびりもしていられません』

「うん、わかってる」


 5時間過ぎたら、依頼を達成しなくても強制送還されると説明された。

 もちろん帰りたいけど、こんな魔物がうろつく荒野にサイラスくんだけを放り出す事態だけは避けたい。

 ちょっと落ち着いてきたサイラスくんを自転車からおろし、草むらで用を足させて、もう一度だっこして自転車に載せた。

 その合間に、自分もペットボトルを取り出して水分補給を済ませる。


「よし、じゃあ出発するよ」


 一声かけると、私はまた光る道に沿って自転車を走らせた。

 それからは特に魔物に遭遇することもなく、ある程度整備された道のため、軽快に自転車は進んでいる。と、思う。

 なんせ夜道で、しかも目印となる人工の建物がほとんどないから、進んでいる気があまりしない。

 あれから何度か休憩もとっているが、間に合うんだろうか。


「ねえアシスタントさん、あとどれくらい? もう3時間は経ったよね」

『もう少しですよ。あの丘を越えたら城壁が見えると思います』


 その言葉通り、なだらかな坂をのぼっていくと、遠くに大きな壁のような影がぼんやりと見えた。昼間なら急に壁が現れて、もっと感動したかもしれない。

 光の道はその壁へと続いている。おそらく、光の先には入口があるのだろう。


「あの壁っぽい影の向こうが、目的の領主さんの家なの?」

『あの外壁の向こうには、まず城下町があってその奥に領主館があります』

「あ、そうなんだ」


 丘の上から見た時はよくわからなかったが、近づくにつれ、巨大な外壁だということがわかった。

 さらに進んでいくと、光の道の明かりにまぎれていた、別の明かりの存在にも気がついた。

 壁に開いた穴に煌々と灯る明かりと、その数mくらい手前にいくつかの小さな明かり。

 なんだろうと思いつつ近づいていくと、15名ほどの人間がこちらを向いて立っていた。


『油断しないでくださいね。ママチャリからは離れないで』


 アシからの忠告に黙って頷く。私は入口を塞ぐように立つ男達から10m以上距離をとって停止した。


「ごくろうだった! 待っていたぞ! さあ御子息様をこちらへ」


 先頭に立っていた一番高そうな服を着た騎士っぽい奴が、大げさに両手を広げながら近づいてくる。

 周りの騎士が持つ松明に照らされた顔は朗らか…ではなく、目は獲物を狙うようにぎらつき、口元はにやけるのを我慢しているように歪んでいる。

 後ろにひかえる兵士らも、妙にニヤついている。

 女の直感が言っている。こいつらなんか嫌い、と。


「ねえアシ、あれ、敵じゃない?」

『私にはまだ判断材料がございません』

「だってさ、なんで私が来ること知ってんの? 金髪美女に知らせを送る余裕はなかったと思うんだけど」

『連絡方法はありますが、確かにあの森の中からでは難しいでしょうね』


 そんなやりとりをしている間も、偉そうな奴は大股でこちらに近づいてきていた。

 思わず後ずさりそうになるのを、ハンドルをぎゅっと握って耐える。

 とうとうすぐ目の前に立たれると思った瞬間――

 見えない壁にぶつかり、そいつは後ろによろめいた。


『敵です』

「ですよね」


 こちらに敵意を抱く者や攻撃を弾く結界に、こいつ弾かれたからね。その結界で私、さっきオオカミ型の魔物をはね飛ばしてきたからね。

 なんだ? 見えない壁? と戸惑っている男から目を離さないまま、片足をペダルに乗せる。


「でも、さすがに人をはねるのはちょっと……」

『承知いたしました。ルートを変更いたします』


 その言葉通り、壁に開いた入口へと伸びていた光の道が動く。


「え、無理でしょ」


 光の道は、なぜか壁をななめに昇るように変化していた。


「これママチャリだよ?」


 アシに文句を言った瞬間、男が持っていた剣を振りかざした。ガキンッと結界を叩く音が響く。


「なんだこれは! さっさとガキをよこせ!」


 男の怒声に、それまでニヤニヤしていた後ろの兵士達も何事かとこちらに駆け寄ってくる。

 あーもー行くしかない!


「サイラスくん行くよ!」


 ハンドルを強く握って、ペダルに乗せた足に力を籠めた。

 騒ぐ男の横をすり抜け、兵士達から距離をとるように右へと逸れていく。

 壁が目前に迫って来ると、積み重なった石のわずかなズレが目に飛び込んできた。

 あの突起に後ろの車輪を乗せるビジョンが頭に浮かぶ。


「信じていいのねアシ!?」

『魔法で強化されたご自身とチャリを信じてください』


 信じられるか! 生まれてこの方、自転車で壁登ったことないんだから!

 でもやつらにこの子を渡す方がもっと嫌!


 意を決してハンドルを握りしめる。自分がしたい動きを頭に思い描けば、その通りにチャリが動く確信が、なぜかある。

 前輪を持ち上げてジャンプする。ふわりと自転車が浮いた。

 壁の突起に後輪が乗る。

 そう次はあのでっぱりに前輪。次はあそこに後輪。

 自転車の動きだけが頭を占める。他のことは浮かばない。ただ、目を凝らして体を動かして。

 気づけば私は、外壁の上の回廊に着地していた。


『さすが真奈様! やればできる子!』

「やったぁ……」


 半ば呆然としていたら、カツンと何か固いものが当たる音がした。何気なくそちらを見ると、一本の弓矢が落ちている。


『真奈様、停まってる場合ではありません。光の道に沿ってお進みくだい』


 光の道の先を見れば、それは屋根から屋根へと伸びている。ちょっと待ちたまえ。


「いや、さすがに飛べないから」

『大丈夫です。障害を飛び越えるように家と家の間を飛んでください。スピードは落とさないでくださいね。あの先に領主館があります』

「いや、普通に地面走っても良くない?」


 言い返した時、またもカツンッカラカランと何かが当たって回廊に落ちた。

 視線と落とせば、鋭利なナイフ。


「ねえ! さっきから弓矢とかナイフとか飛んでくるんだけど?」

『敵さんも本気出してきましたね。地面走っている場合じゃないですよ』

「そもそも敵って何!? 魔物に襲われるだけじゃないの?」


 心の準備をする暇もなく、とにかくペダルを踏みしめる。


 あーもうこんなのばっかり!


 私は勢いよく回廊から3階建ての屋根へと飛んだ。

 飛んだというか、斜めに落ちた。

 着地の衝撃に身がすくむ。が、受けたのは歩道の段差から下りたくらいの衝撃で、逆に驚いて動きが止まってしまった。

 そこでハッと後ろを振り返り、サイラスくんの無事を確かめる。

 彼は、まっすぐな瞳で、道の先を見つめていた。

 あれ? 意外と平気そう?


「サイラスくん、平気?」


 尋ねると、彼はしっかりと頷き、人差し指を前方に向けた。


「ぼく、あそこいく。みんな、たすける!」


 ん? どゆこと?

 魔物に襲われてる危険な母親の元から、安全な父親の元に届ける単純なお仕事じゃないの?


『真奈様、前方からナイフを投げた敵が来ます』


 アシの声で前方に顔を戻した私は、勢いよくそちらへと自転車を走らせる。


『人をはねてしまいますがよろしいので?』

「さっきのサイラスくんの凛々しいお顔を見た? こんな小さな子が覚悟決めてんのに、私が躊躇してる場合じゃないでしょーが!」


 まだこんな、うちの息子と同じくらいの子が、恐怖に打ち勝ってみんなを助けるなんてけなげなこと言ってるってのに。


 黒づくめの男は衝突する前に大きくジャンプし、頭上からナイフで襲ってきたが、結界がそれを弾く。

 男のその後を確かめることなく、私はとにかく前だけを向いて足を動かした。もうすぐ街が終わる。建物がなくなる。

 最後の建物の屋根に着いた私は、思わず急ブレーキをかけた。


 そこから見えた領主館は、襲撃を受けている真っ最中だった。

 怒声と金属がぶつかる音に、あちこちで火柱や竜巻があがっている。


 もう一度確認したいのですが、魔物に襲われてる危険な母親の元から、安全な父親の元に送り届ける単純なお仕事じゃなかったの?


「ぜんぜん安全じゃないじゃない。どうすりゃいいのよ……」


 一番端にある屋根の上から、私は騒然としている領主館を呆然と眺めた。

 そもそも私では、誰が味方で誰が敵か判別出来ない。

 と突然、自転車がぐらぐらと揺らぐ。

 振り返れば、サイラスくんが安全ベルトから抜けだそうともがいていた。


「どしたのサイラスくん。あばれたら危ないよ」

「あそこ、いく! ぼく、すいしょうにまりょくいれる。そしたらわるいひといなくなる!」

『真奈様、残り時間が1時間を切りました』


 戸惑う私に、アシスタントが無情に告げる。

 えっ、いつの間にそんなに経ったの?

 私は領主館を見て、サイラスくんを見て、もう一度領主館を見た。


「あーもう~~~やってやるわよ! 私は気持ちよく息子達の元に帰りたいの!」


 そう、家では腹を空かした育ち盛りの息子が二人(おまけに旦那も)待っている。こんな所に幼児残してサヨナラなんて、息子に顔向けできない。


「敵だろうが味方だろうが避ければいいのよ。無理なら突っ切ればいいのよ」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、私は自転車ごと屋根から飛び降りた。

 着地すると同時に猛然と足を動かす。どういう仕組みかわからないが、いまだに足に疲労は感じられない。


「どいてどいてどいてー!」


 猛然と土煙を立てて接近する私たちに、交戦していた騎士たちがギョッとしたように動きを止める。そのすきに横をすり抜けていく。

 半分破壊された大きな門をくぐったが、こちらを狙う魔法使いに気づき、発動する前に急ハンドルで死角になる方へと走る。


「正面突破は無理っぽい」

『侵入出来るルートを検索、設定します』


 ナビの光の道から逸れ、建物を右手に庭木の間を縫うように進んでいると、進行方向に光の道が新たに出現したのだが――。


「うわっ直角に曲がってる!」


 急ブレーキをかけながらハンドルを切る。

 土埃を立てながら車輪がザザッと派手に音を立てて滑る。

 生まれて初めてのドリフトに感動する間もなく、方向が変わった瞬間ペダルを踏みこむ。

 だってナビが示す1階テラスの窓が、頑丈な扉で封鎖されそうになってるから!


「窓開いてないけど、どうするの!?」

『このまま体当たりで破ってください。今回は緊急事態ですからね、普段は不必要に――』


 ガッシャーン! パリンパリン


 アシがしゃべり終わる前に突入を果たす。なんか騒いでるけどゴメンね、たぶん味方の人達。こちとら時間がないのよ。


 高そうな置物や絵画を飾った廊下を自転車で走る。縦横に無駄に広いが自転車で進めるのはありがたい。


「父親どこよ?」


 交戦している箇所を避けているのか、やたら何度も曲がらされ、大理石っぽい大階段の下に着いた。光の道は階段の上に伸びている。


 え…階段のぼるの?


 一瞬どうしようかと停止した時だ。

 サイラス様! と叫びながらメイド服の女性が飛び出してきた。


「サイラス様、こちらでございます。こちらに旦那様が」


 メイドが階段横にある廊下を指さす。

 えっ階段のぼらなくていいの? もしやそっちに近道の入口があるとか?

 時間がないので全速力で近づくと、ドンッと衝撃音と共にメイドが吹っ飛んだ。


「くっおまえもか! おまえも敵か! ちょっとでも楽しようと思った自分が憎い」


 く~~っと悔しさに顔を顰めながら自転車から下りる。


「持ち上げられるかな…」

『身体強化してるので余裕ですよ。でも外壁のぼれたんだから階段くらい』

「いや、一旦止まったらあんなの無理だから。あれ、心身の負担が半端ないから」


 かなりの重さを想像しながら持ち上げると、ひょいっと持ち上がった。あ、これなら行ける。


「サイラスくん、このまま階段あがるから、ちょっと揺れるよ」


 振り向いて声をかけると、険しいお顔だけど素直に頷く。大丈夫、目の輝きは失われていない。なんて強い子。

 身体強化は伊達じゃないらしく、すたすたと階段をあがる。

 2階に到着して、また自転車にまたがる。


「よし、あとちょっとじゃないかな」


 と思ったのだが、部屋に入って違うドア出て下に降りて、またちょっと先にあった部屋に入って階段をあがったりと、なかなか父親の元に着かない。


「サイラスくんのお父さん、いったいどんなとこで暮らしてんのさ」


 自転車を抱えながら、階段をのぼる。これでおそらく5階に到着する。


『真奈様、残り15分を切りました』

「うそでしょ……」


 メイドすら信用ならない館の中で、幼児一人を放り出したくはない。出来れば父親へ直接手渡したい。

 階段をのぼりきり、はあ…と一息つきながら扉を開けると、空気が変わった。


「ここは通さんぞ」


 低く鋭利な声にハッとして顔をあげると、すぐ前に大男が槍をこちらに構えて立っていた。


「トニー!」


 背後から甲高い声があがる。

 反射的に振り返れば、サイラスくんの顔が輝いている。あ、知り合い?


「サイラス様! きさま、坊ちゃまをどうする気だ?」


 大男が槍を向けて、私に殺気を放つ。結界あるから大丈夫…ってこの人の槍、3mの結界内に入ってない? 味方なのに生命の危機!


「ちょっ誤解! 私は父親に届けるように頼まれて」

「トニー てき ちがう! ポットのせいれいさまだよ!」


 慌てて弁解すると、サイラスくんも加勢してくれた。

 うん、そうだったね。私ったら、ポットという名の急須で呼び出されたらしいよね。


「なんと…ポットの精霊様でしたか! ということは奥方様は…いや、今は考えまい。どうぞこちらへ」


 もう自転車から下ろしても大丈夫だろうかと、ふと頭をよぎったが、すぐに打ち消す。ここで気を抜いて子どもを危険にさらすのはダメ。

 どうせ廊下も扉も日本のサイズより大きいんだから、自転車ごとでいいでしょ。

 私はサイラスくんを乗せたまま、自転車を押して後をついていった。


 窓のない、これまで通ってきた廊下よりも狭い廊下を進めば、今までの扉よりも随分と簡素な扉の前で大男が立ち止まる。


「ここから先は公爵家の者しか入れません。精霊様といえど、お控えください」


 大男のトニーが、私に向かって頭を下げる。


「はあ? こんな小さな子に1人で入っていけって言うの?」

「その扉にはそういう魔法が施されているのです」

「だったら父親呼んできて」

「旦那様は中でお待ちです」

「実際に見ないと信用できないわ」


 確かに光の道は、この扉の向こうへと伸びている。

 でも、中にいるのが父親だけとは限らないでしょ。敵がまぎれてたらどうするの!


『真奈様、残り5分です』


 アシが淡々と無情に告げる。

 あーもう腹立たしくて泣きそう!


「魔法魔法って…ちょっとアシ、父親呼ぶ魔法ないの!?」


 やけくそで叫んだ時だ。目の前の扉がゆっくりと開き始めた。


「旦那様!」

「ちちうえ!」


 現れたのは、物語に出てきそうなイケメン。金髪美女も子持ちに見えなかったけど、この人も私よりずっと若そうで子持ちには見えない。

 けれどナビである光の道は、彼の前で終わっていた。


 間違いなく、この人がサイラスくんの父親だ。


「サイラス! ああ…見知った温かな魔力を感じたのは気のせいじゃなかった。よくぞ帰ってきた。…きみは? シンシアはどこだ?」


 イケメンが私を不思議そうに眺め、その後ろへと視線を彷徨させる。


「ちちうえ、ポットのせいれいさまです。ははうえは…はは…うえは…ひっく」


 サイラスくんの泣き声に、私は慌てて自転車のスタンドを立てる。乱暴にならない程度の早業でヘルメットをとって安全ベルトを外す。


「よくがんばったね」


 抱っこしてポンポンと背中をたたきながら、父親であるイケメンに近づいた。


「息子さん、確かに手渡しましたよ」


 イケメンが両手を差し出し、サイラスくんもそちらに手を伸ばす。小さな手がイケメンの首に回り、ぎゅうっと抱き着いた。

 ホッと肩の力を抜いた瞬間、隣の大男が突然槍を構える。

 ハッと振り返ると同時に、ガキンッと固いものが当たった音が響いた。

 数メートル後方で、メイド服の女が短剣を振り上げている。その後方にも明らかに殺気立った男達が走ってきている。


『残り1分です』

「え、ちょっと、この状態で結界消えたらやばいでしょ!」

「大丈夫だ」


 答えたのは意外にもイケメン様だった。

 イケメンが大男に頷き、大男が頷き返す。次に私に、やる気満々の眼差しで頷くので、よくわからないが頷いておいた。


「礼を言うぞ。ポットの精霊よ」

「せいれいさま、ありがとー」


 二人が笑顔で扉の向こうへと消えていく。


『残り30秒』


 呆然と閉まった扉を眺めていると、何かが体の中を突き抜けていく感覚が走った。


「やったぞ」


 大男の嬉しそうな声に振り向けば、結界の向こうにいた人達がいなくなっている。


「え? どこいったの?」

「光の結界が張り直されたため、悪意ある者は結界の外、外壁の外へと転移させられたのだ。そしてこの結界がある限り、入ってこれない」

「……は?」

「光の結界は、今は光属性の奥方様とサイラス坊ちゃんにしか張れないのだ。今回は予想外のことが重なりこんなことに。ポットの精霊様、まことにあり――」


 途絶えた。

 不思議に思った瞬間、風が頬を撫でた。

 視界が徐々にぼやけていき、私はたまらず目を閉じた。


『マサコがフレドリード公爵夫人と契約した召喚魔法の2回目が終了いたしました。依頼達成のため、残りは3回となります』

「マサコ……」


 呟きながら開けた目に映るのは、舗装された道路。


「あれ?」


 数回瞬きして首を動かせば、見慣れた我が家の玄関がある。

 そのドアがゆっくりと開き、中から出てきた旦那とバチリと目が合った。


「おまえ…どうした? 何があった?」


 へ? と小首を傾げていると、険しい顔で旦那が走り寄ってくる。


「自転車でこけたのか? それとも事故か? 怪我は?」

「いや、怪我なんてないよ。別に何もない――」

「んなわけねーだろ! 自転車ボロボロじゃねえか!」


 私はハンドルを握っていた己の自転車を見下ろした。

 全体的に土埃で汚れているが、前カゴとサドル、チャイルドシートは問題ない。だが車輪は、強い力がぶつかったように歪に曲がり、タイヤは酷使し過ぎたように溝がわからないほど削れていた。

 そして私自身も髪は強風にあおられたようにボサボサ、全身土埃まみれだ。


「いったいどうやったら、こんなになるんだよ。なかなか帰って来ねえと思ったら」


 そう言われて空を見れば、夕焼けで赤く染まっている。


「……今何時?」

「5時。12時までには戻るって言ってたから、あいつらも心配してるぞ」


 その言葉で、呆然としていた私は急いで自転車を停め、荷物も持たずに家に駆けこんだ。無性に息子達の顔が見たくなったのだ。


「あっママだ~おかえり~」


 下の息子が無邪気に走り寄ってくる。その子をぎゅっと抱きしめ、最近は恥ずかしがって抱っこさせてくれなくなった上の息子も抱きしめたら、なんだか涙が出てきてしまった。


 怖かった。

 そう、怖かったのだ。


 だってよくわかんない夜道を魔物とか敵とか、よくわかんないモノに襲われて。幼い子の命を背負わされて。

 息子達を抱きしめた泣く私に、夫も何かあったのかしつこく訊いてきたが、ママ友関係でいろいろあって、解決したから大丈夫とあいまいにごまかした。

 金髪美女も言わばママ友みたいなもんだし、そもそも正直に話しても信じてもらえるとは思えない。


 けれど、前カゴに入れていたエコバッグの中には、サイラスくんと飲み食いした空の紙パックや袋が入っていた。


 私が体験したことは何だったのだろうか?


「ねえ、お母さん」


 棚の上に飾った小さな写真立ての前に、リンゴジュースをお供えする。

 写真の中では、数年前に病死した私の母、雅子が微笑んでいる。


「なんとか公爵夫人と契約したマサコって、お母さんのことじゃないよね。あの急須、見覚えあるんだけど」


 母がまだ元気だった頃、実家に帰ったある日、母の愛用の急須が変わっていることに気づいた。

 割れたの? って訊いたら、人にあげたって言うもんだから、人が使ってた量産品の急須なんていったい誰が欲しがるのって話したから、なんとなく覚えていた。


「まさか、ね」


 残り3回という言葉が気にはなったが、子どもが二人もいれば、毎日何かとハプニングが起こる。

 日々の暮らしに忙殺されて、非現実的な出来事は徐々に思い出さない日も増えてきたが、夜空を見上げた時、ふと願うのだ。

 サイラスくんが金髪美女の母親と無事再会して、健やかに暮らしていますように、と。



 END





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