序章 「記憶の光」
雪が降っていた。
卒業式のその日、朝から降り続けていた雪は、午後になっても止む気配がなかった。陽の差さない薄暗い灰色の空から、静かに、音もなく降る雪。校庭の片隅で、僕はその白い粒子が地面に触れて消えていくのを眺めていた。式典はもう終わっている。体育館の中では誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが友人と写真を撮り合っているのだろう。
けれど僕は、ここにいた。
校庭の端。新しく建った図書館の前。
その建物は、まだ真新しいガラスの輝きを保っていた。四角い箱のような無機質な建築だが、全面がガラス張りで、曇天の鈍い光を受けて静かに煌めいている。降り積もる雪がガラスに触れては溶け、一瞬だけ透明な筋を残して流れ落ちていく。
僕はその様子を、じっと見つめていた。
ここには、ほんの二ヶ月前まで、別の建物があった。
今はもう、ない。
あの時の光を、僕はずっと覚えている。
夕暮れ時、斜めに差し込む陽射しがガラスを通り抜けて、虹色に分かれていく瞬間。プリズムのように煌めく光の粒が空間を満たし、まるで世界が溶けてしまいそうだった。そこは静かで、誰も来ない場所で、僕だけの居場所だった。
――いや。
途中から、僕だけの場所ではなくなった。
彼が来るようになってから。
冷たい風が頬を撫でる。ロングコートの襟を立てて、僕は雪を見上げた。白い結晶が視界いっぱいに降り注ぎ、睫毛に触れて溶ける。冬の雪なら、僕でも大丈夫だ。日差しさえなければ、外にいても構わない。
卒業式の日に雪が降るなんて、まるで映画みたいだと誰かが言っていた。
けれど僕にとっては、むしろちょうどよかった。この白い世界なら、僕も他の皆と同じように外に立っていられる。
ふと隣で、誰かが小さく息を吐く音がした。
白い息が、冷たい空気の中に溶けていく。
「……寒いな」
低い声。少しだけ掠れた、聞き慣れた声。
僕は答えずに、ただ頷いた。確かに寒い。けれど、この寒さは嫌いじゃなかった。雪の冷たさも、風の痛みも、全部ひっくるめて、今この瞬間が愛おしいと思えた。
「……ここ、綺麗だな」
彼はそう言って、図書館を見上げる。
僕も、もう一度ガラスの建物を見つめた。新しい図書館。3学期の始めに完成したばかりの、まっさらな場所。ここには、もう何もない。あの温室のような空間も、虹色の光も、僕たちだけの秘密も。
全部、消えてしまった。
けれど。
「うん」と、僕は小さく答えた。「綺麗だね」
そう、綺麗だった。
失ったものは、確かにある。取り戻せない場所も、時間も、あの頃の僕自身も。
でも今、僕の隣には彼がいる。
雪の中で、同じ景色を見ている彼が。
彼の手が、そっと僕の手に触れた。
冷たい指先。でも、温かい。
僕は手を握り返した。
ガラスの向こうに、誰かの影が見えた気がした。本を抱えた生徒が、暖かい館内を歩いている。新しい場所で、新しい誰かが、新しい物語を始めている。
それでいいのだと思った。
場所は変わる。時間は過ぎる。
それでも、ここに確かにあったものは、僕の中に残っている。
あの時の光を、僕はずっと覚えている。
虹色に煌めいた、あの儚い輝きを。
雪の中で、僕は繋いだ手を少しだけ強く握った。
隣の人が、僕の方を見る気配がした。
――そう、あの時。
すべてが始まった、あの日のことを。




