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下町安アパートで一つ屋根の下

 一人の男が、台所で食事を作っていた。


 細面な顔のバランスは良く、目の形はスマートな切れ目の眉目秀麗。

 着る物は安物の既成服だが、アイロンがけされており清潔感がある。


 だが、その目の色は死んだ魚のよう。

 まるでやる気が感じられない。

 それは、社会に興味が無い風体とも言える。

 男はかつて世界的な発明をして、特許で生きるに困らない貯金を得て、世捨て人になったのだ。

 石炭を燃やした際に硫黄酸化物を排除する事でスモッグの発生を抑え、青空を保ったままにする低コストの耐熱フィルターを発明したのだ。


 そんな彼の後ろから、元気な声が掛けられる。


「おにいさーん、ご飯くださーい」

「分かったからちょっと待ってろ」


 カマドでは薪が燃えて、水道からは雫が垂れる。

 ボールには白い粉が張り付き、瓶に書かれる『重曹』の文字。

 フライパンからは小麦粉を焼く臭いが漂っていた。


「よっ」


 出来上がったのはフワフワのパンケーキであった。

 早速白い皿に乗せて、背後に渡す。


 そこに居たのは、黒縁の丸眼鏡をかけた若い女。

 十代の後半程だろう。

 作業員が着るようなデニムのオーバーオールだが、汚れは無い。

 室内で仕事をしているからなのと、男が洗濯をしているからだった。

 髪はウェーブがかっており、しかし乱れてはいない事から手入れが行き届いていることが伺える。


 彼女は皿を両手で受け取ると、ニヘラと力の抜けた笑みを浮かべた。


「お兄さん、髪の事といい、何時もありがとう御座います」

「細かい事が気になるだけだ。さっさと自分で出来るようになれ」

「アハハ、顔は良いのにモテなさそうですね」

「もう諦めているから良いんだ」


 そんな会話をして、男は自分の分も焼き始めて、女はニコニコとそれを眺めていた。

 この二人にとって何時もの光景である。


 此処は都市内にある、ある安アパート。

 家族向け住宅を改築したこの建物は、トイレや台所などが共有など住人たちの距離感が近い。

 そして、たまたま同じアパートに住む事になった二人がこのよう関係になったのは、男が先に住んでいた事と、女の職業が小説家な事に由来していた。

 彼女はズボラな性格だったのだ。


「おにいさん、おはよう御座いまーす」「年頃の娘なんだから服くらいちゃんと着ろ!髪もとかせ!」

「おにいさん、部屋で物を無くしちゃいましたー」「なんだこの汚部屋は。掃除してやるから手伝え」

「おにいさん、なんか機械について分かる事とかありますか」「あーもー、素人にも分かるよう教えてやるからちょっと待ってろ」「分かるんだ……」


 などと、男が保護者の様に世話をする事で、自然と今の兄妹だか親子だかな関係になったのである。


 そうして何時も通り、男の部屋にて一緒の机で食事をしていたある日の事。

 女が蜂蜜とバターたっぷりのパンケーキを飲み込むと、何か閃いたような表情をしてから男を見る。

 男はピクリと、訝し気に眉をひそめた。


「おにいさん、そういえば原稿があがったんですよ」

「そうか、おめでとう。なんだかんだで人気作家だよな」


 机の隅には読んでいる最中の新聞紙。

 その下に小さく、女の書いた連載小説が載っている。

 小さな町工場に勤める技士の主人公が、大企業の嫌がらせなどにあいながら、仲間と協力し奮闘する話だ。

 最近は新聞を買う労働者層も多くなった。


「えへへ、ありがとうございます!

それでですね、前々からやりたかった場面があるので、協力して頂ければなと」

 無邪気な満面の笑み。

 男はそれを、純粋にかわいらしいと思った。


「ん、良いぞ。今度はどんな知識が必要なんだ」


 『どんな問いにも答えられる』。

 そんな自信を以て、男はコーヒーを飲みながら新聞を流すように読んでいた。

 だが、文字を追う目の動きは、女の一言で止まる事になった。


 彼女は少し恥ずかし気に頬を染めた後、一呼吸置いて口に出す。


「私とデートをして下さい!

恋愛シーンが書きたいんです!」

「……は?」


 一旦断ろうとしたが、女は凄く悲しそうな顔をしたので、結局行く事になるのだった。



 金持ちの多い一番街。

 周りには、煉瓦造りの大きなビルが並ぶ。

 ローマ建築の如く華美な細工が施された柱や門構えなどを備えており、ドアノックも多様なデザインが見受けられた。

 オフィスビルや銀行、それに貴族が住居としているタウン・ハウスなどだ。


「ふわ~……」


 まるで不思議の国にでも迷い込んだかのように、女はキョロキョロと周りを見ている。

 職業作家なのでネタ探しに精力的なのだ。

 男は苦笑いをしつつ、自分が失った感受性ある姿を見て楽しむ。


 女の格好は何時もと打って変わり、富裕層の娘が普段着に使っていそうなシンプルなドレス。

 売れっ子作家ともなると社内で小さなパーティーを行う事が必ずある。

 そういう理由で、男が、女の誕生日に見繕ったものであった。

 何故かパーティーでない時でも、普段使い出来るよう軽く着れるように配慮されている設計だ。

 お陰でこうして、軽く高級な場所でデートを行う事も出来るのである。


「それで、何処に向かうんです?

動物園ですか?美術館ですか?」

「興味があるのか?」

「いえっ、普通ですけどおにいさんとなら何処に行っても大丈夫かなと」

「なんだその自信は……まあ、劇場に予約を入れているけどそこで良いか?」


 男は懐から二人分のチケットを取り出す。

 富裕層お得意の高級な劇場の、食事も出て来る特等席だった。

 女はパアと目を輝かせて、チケットを受け取る。


「わあっ!これ、小説だとよくネタになっていて見たかったヤツなんですよ!

ありがとうございます」


 男は表情を崩さないよう努力した。

 内心、ホッとしていたからである。



 劇場にて。

 キラキラとした手摺のある、二階。

 下を眺めれば、演劇に勤める役者たちが一望出来た。

 椅子は赤いソファと、細工が付いた机。

 机上には肉料理やホットチョコレート等が置かれている。


 そこに座った女は食事する事も忘れて、興味深そうに劇に見入っていた。

 作家として、時たまウンウンと相槌も入れる。

 しかし途中で「ハッ」と何かに気付き、後ろで眺めている男に振り返った。

 まるで朝と同じ反応だ。


「あ、おにーさん、すみません。こういうのって二人で楽しむものですよね」

「いや、大丈夫だ。楽しんでくれればそれで良い」

「むう……」


 それを聞いた女は、頬袋を作る。

 少し唇を尖らせた後、何かを決意したように、白い磁器のカップに注がれたホットチョコレートを一口飲んだ。

 前かがみになり、ズイと男の眼前に顔を近付ける。


「駄目ですよ。今回の取材はデートなんですから。

……ねえ、知ってます?

ホットチョコレートって、媚薬として使われていたそうですよ」


 その瞳は怪しく光り、目の前の男を見つめる。

 もはや劇を見ていない。

 そして不意打ち気味に、口を重ねた。


「んっ……ん……おにいさん……好き……」


 糸引くように甘苦い唇を離す。

 何時もと違う、淫魔のような表情。

 ぺろりと唇を舐めて一言。


「『取材』、付き合って頂きますからね?」


 男は目を見開いて、頬を染めた。

 人生で一番動揺した瞬間であった。

読んで頂きありがとう御座います。


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