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3時のおやつは甘苦く

 この蒸気都市では、突然『愛』が薄っぺらくなるのは珍しい事じゃない。


 大恋愛をして結婚した後も、低賃金な労働事情により生活が上手くいかずに娼婦になる。

 片思いの人が娼婦になっていて、それを抱く事だってある。


 この夜に僕が買った彼女も、そのようなありがちな娼婦だった。

 でも、彼女からしたら僕の事なんて何も覚えていない。

 よくある事なのだ。


 薄暗い明かりが映すのは白い肢体。赤いメガネ。

 彼女は白いベッドの上で横になり、微笑みを浮かべて此方を見ていた。

 僕は皮膚にベトリとした汗と、心の空虚感を覚えていた。

 気付けばすっくと立ち上がり、机の上にお金を置いて服を着替えていた。


 その様子に彼女は眉をピクリと上げて机の上を確認。

 小金程度のそれは、はじめに提示した料金と一緒で、キョトンとしつつ納得する。


 抱いて挿れて終わり。

 ピロートークも無い。

 さぞや淡白な男に思われた事だろう。


「あら、もう行っちゃうの?」

「……ごめんね。君を抱いている最中に話していたら大切な事を思い出してさ」

「恋人とかかしら?」

「……そう、それ」

「うふふ、そう。他の女の事を考えるなんて、悪い人ね」


 嘘だ。

 本当は僕に恋人なんて居ない。

 そして彼女は、僕の初恋の人だった。

 故に彼女の言葉はとても魅惑的で、それ故に此処から一刻も早く立ち去りたかった。


 出来るだけ風に当たらないよう厚着をして帽子を被る。

 早朝3時。

 ガタついた扉を開けると、深い夜闇。

 僕はその中に身を投げ出し、硬い石畳の上を歩んで部屋を去るのだった。



 あれは僕が何も知らない子供だった頃。

 僕は、お気に入りの喫茶店(カフェ)の一席で、教科書とノートを広げて予習をしていた。


 周りでは毎度のように駄弁っているオッサン達の笑い声が聞こえる。

 けれども蓄音機から流れる音楽(ジャズ)のセンスが良く、ずっと勉強していられる。

 紅茶とサンドイッチで遅くまで居座るオッサン達に慣れているせいか長く勉強しても文句を言われる事は無く、お気に入りの場所だった。


 ノートの紙は質の良い物でなく、やや茶色。教科書に書かれているのは蒸気機関についての様々な公式と問題。

 中々問題が解けず手元に置いていた紅茶に一口付けていると、気になる影がひとつ。


 チェック柄のロングスカートにダボッとした大きなシャツ。

 束ねられた茶髪は肩に垂れ、親しみ易そうな顔つきをしていた。

 特に、紅玉(ルビー)を削って作ったような赤いメガネがよく似合っていた。


 此処まで細かく解るのは、暫く前から彼女が僕と同じ様にノートを広げて勉強をしているから。

 自分以外に同じ事をする人間が居るのだとか、こんなオッサンだらけの喫茶店に若い女性なんて珍しいとか、綺麗ではないけど愛嬌がある人だなとか。

 興味を惹かれる理由なんて数えきれない程あった。


「はあ……」


 何時も通り溜息ひとつ。

 鳩時計が指し示すのは午後3時のおやつの時間。

 されど、僕にとっては憂鬱な時間。

 今日も今日とて、何も声を掛けられないまま『学校』の時間が来てしまったからだ。


 この蒸気都市では庶民向けに安い学費で通学できる公立学校が設立されている訳だが、安賃金の庶民層にとって子供は大切な労働力。

 なので、仕事をしている子供でも学べるようにとの配慮で、授業開始は午後からになっている。


 僕の父親は技術者だったお陰で、ウチはまあまあの小金持ちだった。

 なのでこうして自習が出来る恵まれた環境を与えられている訳だ。故に、学校をサボるなど言語道断。

 だから彼女が席を立つ姿すら見た事がない。


 しかし僕は、ノートを畳んで学校に向かう事は無かった。

 されど自習に集中している訳でもない。


──父さん母さん、ごめん


 勉強をするフリをして、チラチラと彼女を見る。

 何故こうしたのか、勢いだとしか言えない。

 無私になって時流に合わせるべきなのに、集中しようとすればするほどに、心地いい筈の店の音楽ですら煩わしく感じた。


 大丈夫、今日だけだから。

 そう自分に言い聞かせ、せめて席を立つまで彼女を見てみる事にした。

 怪しい人間に見えるのだが、あの人に比べれば僕は大分子供という事で許してくれ。

 学校を卒業する年齢が15歳だと言えば、どれくらい子供かと分かる筈。


 そうして物凄い悪い事をしているという罪悪感に、心臓を締め付けられる感覚に襲われながら、鳩時計は3時5分を示していた。まだこれしか経っていないのか。

 思っていると、聞き慣れたドアベルの音がする。

 客が来たという事だ。なんら珍しくない。有難くもない。


 けれども意中の彼女が嬉しそうに反応した事に、僕は得体の知れない気持ちに襲われた。

 その視線の先には、この店におおよそ似合わない、豪華な装飾の古びた青銅製のドアベル。しかし、それに似合った男がそこに立っていた。

 古代彫刻がそのまま動いたかのような美青年。軽く手を上げて、やあと彼女に声を掛ける。


 ああ、やめろ。

 僕が埋められなかった距離を、そう易々と縮めるんじゃない。

 涙腺が破裂しそうなのに、だというのに、僕は一向に飛び出す事は出来ない。


 だってあの人は、あんなに幸せそうなのだから。

 見たこともないくらい魅力的な笑顔で立ち上がり、さっさと勉強道具を畳んで、彼と何処か行ってしまった。

 恋人繋ぎだった。


 彼女が去った後、ポッカリと心に穴の開いたような僕は、何も出来ずに呆然としていた。

 勉強しているフリも止めて、視線は魔力灯をボウと見るだけ。口を開いて何も手を付けられない。


「このまま、学校に行ってた方が良かったのかなあ」

「そりゃそうね」

「うおっ!」


 後ろを振り向けば、呆れたようなジト目の双眸。色は透き通るような青。

 金髪を後ろで纏め、シャキッと真っ直ぐな背筋の中年女性は、この店の女店主である。

 膨らんだ袖に覆われた手から、クッキーが三枚積まれた小籠が差し出された。


「ほら、不良少年。これは奢りだから、ちゃんと学校には行きなさいよ」

「え、でも時間は過ぎているんじゃ……」

「じゃかしい。遅刻でも行くんだよ。仮病なんてするんじゃないよ」


 言っ彼女は振り返って、ズンズンと大股で店の隅に行く。

 そこには言われなければ気付かないくらい、朧な存在感のグランドピアノが置いてあった。

 席に座り、組んだ指を伸ばしてストレッチ。

 ふと周りを見回せばオッサン達は緊張感を以て女店主を見て「まさか弾いてくれるのか」とか「アイツの演奏が聞けるのか」とか等、意味深な呟きを漏らす。

 蓄音機もオッサンの一人の手によって勝手に止められていた。


 静かな空間だった。

 彼女は一拍緊張を置き、慈母のような笑顔で鍵盤を叩く。出て来るのは緩やかでありながら聴き入ってしまう、安定した音色。

 その指使いはまるで赤子を抱くかのようで、指か音かどちらが先であるかを思わせる程に一体化していた。

 綺麗で優しかった。


 クッキーを齧るのも忘れて、あっという間の五分。鳩時計は3時10分。

 固唾を飲んでいたオッサン達は、「ブラボーブラボー」と手を叩く。僕自身も小さく拍手を送っていた。無意識の内に、それしか考えられなくなっていた。

 女主人は一息付いて、再び何時ものシャキッとした顔に戻る。

 鍵盤に蓋をし、再び大股で此方に向かって来た。


「ほら、じゃあさっさと行った!」

「まだ食べ終わって無いんじゃ……」

「やかましい」


 バンと背中を叩かれ、店から放り出された。

 まるでおっかさんだ。

 道中のクッキーには塩気があって、チョコチップは甘苦く。

 そして学校の先生にはガミガミと叱られて、クラスメイトからはゲラゲラ笑われた。


 あの喫茶店のオッサン達の駄弁りにも負けない喧噪に包まれて思う事はひとつ。

 此処に来るまでにクッキーを食べきれて良かったな。

 只、それだけを思うのだった。


 ◆


 あれから数年後。


 この時の喫茶店が、今、僕が出た風俗宿だ。

 閉店になった理由は分からない。

 ただ、閉店後の店舗を買い取った業者が、風俗宿として改装したのだ。


 もう、ピアノの音が聞こえる事は無い。

 大人になるって哀しい事だと思う。

読んで頂きありがとう御座います。


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