第7話「それでも話しかける僕がいた」
その部屋には、時計の音すら響かない。
白い壁。固い床。窓のない部屋。
そして、鷹津凪沙。
彼女は椅子の上で膝を抱えていた。誰の目も見ず、何も言わない。
たとえ職員が何かを聞いても、頷きもしなかった。
ドアが、わずかに軋んだ音を立てて開いた。
「……入ってもいい、かな」
凪沙は顔を上げなかった。
それでも、彼女の耳はその声を聞いていた。
声の主は、一ノ瀬歩夢。
手には何も持っていない。
ただ、所在なげに立ち、やがておずおずと彼女の向かいの椅子に座る。
沈黙。凪沙は、視線すら上げない。
「……俺も話すの、苦手なんだ」
ぽつりと、歩夢が言った。
沈黙の部屋に、言葉が少しだけ空気を振るわせた。
「人と話すと、変な間が空いたり、何言ってるか分からなくなったり……
でも、なんていうか、ひとりでいるのも、しんどいしさ」
凪沙は、動かなかった。
だが、わずかに眉が動いた気がした。
歩夢は、それを“話しかけてもいいサイン”と受け取ったわけじゃない。
ただ、逃げる理由がなかったから、話し続けた。
「俺、昔、友達に言われたことがあるんだ。
“なんで生きてんの?”って。冗談だったけど──笑えなかった」
静かだった凪沙が、わずかに顔を上げた。
「……なんで、そんな顔するの?」
それが、彼女の最初の言葉だった。
「え?」
「慰めてるの? それとも、自慢? “お前だけじゃないよ”って言いたいの?」
その声には、とげとげしさも、怒りもなかった。
ただ、感情を削ぎ落としたような冷たさだけがあった。
でも歩夢は、その中に“期待”を見た。
誰かが本当に自分を理解しようとしてくれるのか、それを問う声。
「……ちがうよ。慰めじゃない。
俺も、たぶん……誰かに、“なんで生きてんの?”って、今も思われてるから。
でも、そう思われながらも、今、ここにいる。
君も……いるでしょ」
凪沙は、まっすぐ歩夢を見た。
目を合わせるのは、これが初めてだった。
その視線には、かすかな驚きと、戸惑いと──
“共鳴”が、確かにあった。
直後、警告音が鳴る。
歩夢と凪沙の各端末が自動接続され、赤いランプが点滅する。
《観測:感情共鳴値の異常上昇》
《二者間ペア・ドライヴ適性、確認》
《負の共鳴干渉率:172%》
《適合度:極超・危険域》
研究室では観測員たちが騒ぎ始めていた。
だが、ふたりの間には、静寂しかなかった。
沈黙が言葉の代わりにすべてを伝えていた。
そこへ、葉月が静かに現れる。
「……なるほど。
“負の感情が重なりあった時、力は倍増する”って、理論だけじゃなかったのね」
モニターに映る数値を見ながら、彼女は満足そうに息を吐いた。
「これで、ヌルの中枢個体ともやり合えるかもね──“壊れかけのふたり”なら」
凪沙はうつむきながら、ぽつりと呟いた。
「……あんた、変なやつ。
でも、……うるさくない」
その言葉が、歩夢にとっては救いだった。
ほんの少しだけ、存在を“否定されていない”気がしたから。
そして、誰にも気づかれないまま、
世界でいちばん静かな“共鳴体”が、今ここに成立した。