第6話「彼女は静かに崩れている」
白い空間が、またひとつ、歪んだ。
監視ガラス越しのオペレーションルーム。
モニターに表示された新たな適性データに、観測員たちは一様に息を呑んだ。
《対象名:鷹津凪沙》
《年齢:14歳/引きこもり歴:2年》
《社会接触レベル:極低/感情共鳴値:101.7%》
《警告:共鳴強度・危険領域に突入》
「……100%超えたぞ」
「共鳴圧、危険値。装備制御可能か?」
ざわつく空間の中、ただひとり、葉月は落ち着いていた。
「問題ないわ。壊れている、という点では……むしろ理想的ね」
*
歩夢は、医療室のベッドに腰かけながら、目の前の資料に目を通していた。
鷹津凪沙。
写真は貼られていなかった。ただ、薄いレポートに彼女の特徴が綴られている。
「会話拒否」「視線を合わせない」「閉鎖的かつ沈黙傾向」
「親との接触断絶」「食事拒否経験」「衝動性なし、だが内向爆発型の可能性」
読むだけで息苦しくなった。けれど、どこか懐かしい。
その空気に、覚えがある。
(……俺も、同じだったな)
人の声がうるさくて、気配にさえ怯えて、
でも、誰かに「気づいてほしい」と思っていた自分。
それを表現するすべもなく、ただ“消えていくのを待っていた日々”。
彼女は、きっとその延長線にいる。
もっと深く、静かに、誰にも気づかれず──崩れている。
そしてその日、彼女は機体に乗った。
ブリーフィングも拒否。教官の言葉にも一切反応なし。
だが、ヘルメットをかぶる手は震えていなかった。
ただ、ひとつも、表情を変えないまま。
《搭乗完了──MD-02 “インヴォイド” 感情共鳴開始》
《共鳴値:初期102.4% 武装展開、自動制御モードへ移行》
《敵性ヌル個体B5、視認──戦闘開始》
敵を確認した瞬間。
機体は変形も起動音もなく、ただ“次の瞬間には敵が消えていた”。
衝撃波もない。光もない。ただ、空間がえぐれたように。
「……撃破確認。圧倒的です」
誰かが言った。だが歩夢は、心がざわついていた。
(何も……感情が、ない)
感情共鳴で動く機体が、まるで“感情ゼロ”で敵を葬った。
それは異様だった。おそらく、凪沙は“動きたくなかった”まま動いてしまったのだ。
*
その夜。
歩夢は静かな廊下を歩いていた。
施設の角部屋。凪沙が隔離されていると聞いて、足が向いていた。
ドアの前に立つと、中からかすかな声が聞こえた。
くぐもった泣き声。
否、泣いてすらいない。ただ、かすれた喉で繰り返される言葉。
「なんで……なんで私が……」
「いやだ、いやだ、いやだ……やりたくない……」
「壊れるの、怖い、誰か、助けて……」
その声に、歩夢は立ち尽くした。
彼女は“崩れている”のではない。ずっと崩れていたのだ。
ただ、それを誰にも見られずにいた。
ようやく、誰かに届き始めたその瞬間に──“兵器”にされた。
歩夢は、ドアに手を伸ばす。
けれど、開けられなかった。何も言えなかった。
(俺には、慰める資格なんてない)
だから、ただひとつだけ心の中で思った。
(……俺と、同じだ)
その言葉が、ふたりをつないだ唯一の“共鳴”だった。